海 寄せては返す波の音を意識の片隅で聞きながら、晶は荒れた冬の海をぼんやりと眺めていた。
「……全然、似てないや」
呟きとともに吐き出された息の白さが寒さを物語る。容赦なく吹きつける海風に体がぶるりと震えた。
月に愛されたあの世界から戻ってきて、もう三か月が経っていた。
前の賢者は大いなる厄災との戦いの中で行方不明になったと聞いていたが、晶がこの世界に戻ってきたのは、魔法舎でのなんてことない一日のふとした瞬間だった。当然心の準備なんてできているわけがなくて、未だ現実が受け入れられないままぼんやりと日々を過ごしている。
「なにしてるんだろう、私」
求めていたものとは似ても似つかない日本の海を見て正気に戻った晶は、自分の衝動的な行動を恥じた。家族にも友人にも何も告げず、着の身着のまま飛行機に飛び乗って、まんじりともせずたどり着いたのが期待外れの景色だなんて、全くもって笑えない。
晶が遠く離れた雪国までやってきたのは、偶然目にしたこの海の写真がかつてあの世界で訪れた海に似ているような気がしたからだった。二度と見ることは叶わないと思っていた景色と通じるものがこの世界にあるかもしれない。その可能性にすがりついて、まともな思考ができていなかった。たとえ似ていたとして、なにになるわけではないというのに。
どうしようもないほどの虚しさに襲われて、晶は大きくため息をついてその場にしゃがみこんだ。ブーツのつま先まで波が届いたが、立ち上がる気力もなくて、濡れるのも構わず抱え込んだ膝の上に顎を乗せて呆然と海を見つめ続ける。
フィガロのマナエリアを見てみたい。晶がおそるおそるそう頼んだ時、フィガロは驚いたようにわずかに目を瞠ってから、いいよ、と了承してくれた。
エレベータで北の塔へ移動し、そこから海岸まで箒で三日。フィガロの魔法のおかげで寒さとは無関係な空の旅は、どこまでも続く白銀の世界を眺めるひどく穏やかなものだった。
そうしてたどり着いた北の海。浅く雪の積もった芝生の岬から眺める雄大な景色に晶はしばし目を奪われた。
荒々しくもどこか寂しい、人気のない極寒の海。フィガロのマナエリアであると同時に、その海はまるで彼自身のようで、無性に胸が詰まった。気付けば晶は、隣に立つフィガロの手をそっと握っていた。
『どうしたの?賢者様』
晶の突然の行動を問いながらも、フィガロはなんだか嬉しそうだった。
なんとなく、こうしたくなったので。そう濁すと、フィガロは「そっか」と笑って晶の手を優しく握り返してくれた。
かつて、一人で行かないでとフィガロを引き止めたことを思い出しながら、この手を決して離してはいけないと晶は心に強く思ったのだった。
だというのに、自分はなぜ、たった一人で日本のうら寂しい海辺にいるのだろうか。
「……帰りたい、なぁ」
戻りたい、ではなく、帰りたい、という言葉を選んでいたことに、晶は口元に自嘲の笑みを浮かべた。あれほど願ったこの世界への帰還を果たしたというのに、今はあの世界が恋しくて仕方がないなんて、過去の自分が聞いたらなんと言うだろう。
声に出すべきではないと分かっていたのに、零れてしまった願望にじわりと涙が滲む。ぼやけてしまった視界を取り戻そうと膝に目元をこすりつけるけれど、堰を切ったように涙は溢れて止まらない。
涙に濡れた頬が海風にさらされて、最早痛みすら伴うほど冷たくなっていく。ひくりとしゃくりあげながら吸い込んだ空気で肺が凍りそうだった。
(フィガロ、私のこと忘れちゃったかな……)
前の賢者の顔も名前も思い出せないと、前回の厄災戦に参加した魔法使いたちは言っていた。それならば自分のことも、フィガロはきっと覚えていない。
それならいっそ自分の存在すら忘れてくれていればいいと晶は思うのだ。たとえ不可抗力だとしても、フィガロの手を離してしまった自分のことなど忘れて、笑って過ごしていてくれればいいと願ってしまう。
彼の幸せを祈ることくらいしか、今の晶にはできないから。
日が傾き始めるまで、晶はずっと寒さに体を晒しながら、一人静かに涙を流し続けるのだった。