【曦澄】お手を拝借「お手。そうだ、いい子だ。よしよし」
ご褒美だと言うようにわっしわっしと首元を撫で回す。褒められた犬は嬉しそうにハッハと舌を出しながらしっぽを振った。
本来のご主人そっちのけで嬉しそうにしっぽを振り、もう一回、もう一回とお手を繰り返す犬に、江澄も可愛いやつめと撫でくりまわした。
蓮の実のおやつももらって大興奮する犬に、こら、まだおすわりだと手のひらで示せば、言われた通り素直におすわりする。
「よく懐いていますね」
「私より宗主に従順なんですよ、こいつめ」
上下関係がよくわかっているんでさ。ちゃっかりした犬だと笑い飛ばす飼い主に、それは賢いと藍曦臣も破顔する。
「ほら、もう一回お手だ。待て、待て。一回伏せろ。待て。よーし、ご褒美だ」
ご褒美の言葉に大喜びして犬が伏せから跳ね起きる。蓮の実が載った江澄の手のひらをべろべろと舐め回し、食べ尽くすと、今度は江澄の顔を舐めようと伸び上がってきた。
「うわ! こら、落ち着け。わかった、わかったから」
膝をついて犬を構っていたため、のしかかられた江澄が体勢を崩しそうになる。藍曦臣は咄嗟に手を伸ばしてその背を支えた。
「すまない、助かった」
「いえいえ。それにしても、熱烈な大歓迎だね」
「ああ。人懐こいんだ。可愛いだろう」
「ええ、とても」
褒められていることがわかるのか、犬は目をランランと輝かせて、しっぽを大きくぶんぶんと振っている。江澄に構ってもらえることが嬉しくて仕方のない様子だ。こんなに懐かれてはさぞや可愛かろう。
江澄も普段の険しい表情はどこへやら、楽しげに犬を撫で回している。
「宗主の犬好きは雲夢じゃ有名ですからね。人だけでなく、犬にもよく知られているんですよ」
「おやおや」
「おりこうにしていれば褒めてもらえて、おやつももらえるってんでね。雲夢では犬も宗主を慕ってるんでさ」
「ふふ、それは素晴らしい」
こうして雲夢の民とお喋りしながら犬と戯れる江澄を眺めるのが藍曦臣は好きだった。
藍曦臣が休暇と称して雲夢へ訪れると、江澄はよほど執務が立て込んでない限りは桟橋まで迎えに来てくれる。そうして街を散策しながら蓮花塢へと向かうのだが、その道すがら、出会った犬たちをこうして構っていくのだ。
初めの頃は藍曦臣に遠慮して後ろ髪を引かれつつ歩いていこうとしたのだが、いつもは構ってくれるのにどうして? と言わんばかりに犬たちがさみしげにきゅーんきゅーんと鼻を鳴らすのを聞いて、江澄としてはたまらなかったらしい。
こんなの置いて行けるかよとばかりに藍曦臣にすまないと断りを入れて犬たちを構う姿に、もちろん藍曦臣に否やはなかった。どうぞ存分に構っていきましょうと促し、今に至る。
普段は見られない姿が見られるなら僥倖とも言う。江澄が犬たちと戯れ、満足そうにしているのは藍曦臣としても微笑ましく、目に楽しい光景だ。
雲夢の人々と交流するのも楽しい。愛しい人が民にも犬たちにも好かれ、慕われているのを知るのは心が温まる。実に実り大き散策だと藍曦臣は思っている。
「貴方も撫でてみるか?」
「いいのかい?」
「ああ。最初はいきなり撫でようとしないほうがいいぞ。まずは手を握り拳にして臭いを嗅がせろ。犬が納得したらゆっくり手を開いて首周りから撫でてやるといい」
江澄に言われた通りに藍曦臣は犬の前にしゃがみ込むと片手を握り、犬に臭いを嗅がせてみた。犬はふんふんと興味深そうに藍曦臣の手の臭いを嗅ぐと、知らない臭いがしますというように飼い主と江澄の顔を交互に見上げた。
「ははっ、雲夢にはないお上品な香りがするってかい?」
「そのようだな」
この臭い、知らないですと興味深そうにスンスン鼻をひくつかせている犬に、飼い主と江澄が顔を見合わせて笑う。純朴な犬の反応に、可愛らしいものだなと藍曦臣も微笑んだ。
「私は姑蘇から来たんだ。君には珍しい匂いかな?」
わふっ。返事をするように犬が吠える。しっぽを振っているのでどうやら犬にとって嫌な匂いではないらしい。
「臭いを理解すれば触られてもさほど驚かんだろう。首周りからゆっくり撫でてやるといい」
「こうかい?」
犬はおすわりをしたまま、ハッハと舌を出し、大人しく撫でられている。騒がない様子に偉いぞと江澄が背中をぽんぽんと撫でてやる。犬は嬉しそうに後ろを振り返り、真っ黒の大きな目で江澄をじっと見つめていた。
「犬は頭を撫でられるのが好きなんじゃないのかい?」
「慣れた人間にはそうだがな。よく知らない相手には警戒する。人間だって知らない奴からいきなり頭を触られたら嫌だろう?」
「ああ、そうか。そうだね」
「犬にとっては頭を上から押さえつけられるようなものだからな。いきなり知らない人間に頭を触られるのは嫌がるんだ。噛みつくこともあるしな。まずは臭いを嗅がせて知ってもらうのがいい」
手を拳状にしておけば噛まれても牙は通りにくいぞ。蔵書閣には犬の扱いの本はないのか? 江澄が愉快そうに口の端を吊り上げて笑う。どこか得意げなその笑みが可愛らしい。悪戯っ子のようだ。
「犬の扱いは貴方にまったく敵わないよ」
「ははっ。博識の貴方に勝てるものが俺にもあるか」
機嫌良さそうに笑う江澄に釣られるように藍曦臣も笑った。
「そろそろ行くか。じゃあな」
ぽんぽんともう一度肩を叩いてやる。犬が名残惜しげにしっぽを振った。
ほらと差し出された手を取って藍曦臣も立ち上がった。立ち上がり、そのまま手を離そうとして。
ふと、これもお手かな? とふざけてみる。
「犬にしては随分大きな手だな」
江澄が笑う。
「それに指も長い」
「簫を吹くし、剣も握るからね」
「こうしてみると、貴方、皮膚はきれいだが、案外節榑が目立つんだな」
「そりゃあね」
なにせ剣を握るし、簫も吹くので。琴も爪弾きますし。何なら執務で嫌というほど筆も取る。
澄まして答える藍曦臣に、それもそうだと江澄が笑った。
「鍛えられた戦う男の手をしている。当然だな」
「貴方もね」
三毒を握り、紫電を奮う手だ。
修練を積み重ねた仙師の手は力強く美しい。己の役目を全うし、生きていく手だ。
「行きましょうか」
この手を取り、共に歩む。ああ、何という僥倖だろう。