【曦澄】私がいちばん大人気ないとは思ったけれど、それでもどうしても譲れなかったのだと言ったなら。
貴方は笑うだろうか。
「宗主。藍宗主より贈り物が届いております」
「またか。最近多いな」
そうですね。あ、こちらは書簡です。
そう言って捧げ出されたものを受け取る。書簡と贈り物。
中を改めれば、疲れてはないかとこちらを労る言葉とともに、眠りが穏やかになるからと合わされた香が包まれていた。
「ふむ」
特に取り立てて用はなさそうな。落ち着いた頃に雲夢を訪れたいとは書かれてあるものの、まだ先の話、日取りも決まっていない話だ。
完全に私信の類の、江澄を労るためだけに送られたもの。
「宗主の働きすぎを心配なさっておいでなんですよ」
「そうだろうが、噂にも上がらぬことをどうやって勘づくんだ?」
訝しむ江澄に、どうなんでしょうねと主管も不思議そうに首を傾げた。
「この前も、そう言って煎じた茶を送ってこられたな」
「そうですね」
疲労回復に効きますからと藍曦臣の手ずから煎じたものだった。あれはお茶というより薬湯か。粉薬をお湯に溶かして飲むように書かれてあった。
苦かったが、その分とてもよく効いて、血行が良くなった。目や肩回りの凝りも楽になったように思う。
「その前は按摩が訪ねてきましたね」
「そうだったな」
ある日、藍宗主から依頼されてまいりましたと按摩が蓮花塢を訪ねてきた。
特に右肩周りがたいへんお疲れのようだからぜひ診て差し上げて欲しいと承っておりますが、具合は如何でしょうかと言うものだから江澄も驚いた。
確かに右肩から肘にかけて張っている自覚はあったが、そんなことを藍曦臣に伝えてはいなかったのに。
「確かあの頃は捌かねばならない書簡が大量にあって、連日夜遅くまで執務をなさっておいででしたね」
お忙しいことは藍宗主もお聞き及びだったのでは? という主管に、だがなと江澄は渋い顔をする。
「だが、右肩周りと指しで言っていたぞ。忙しいとは言ってあったが、身体のどこそこが不調などと言った覚えはない」
でしょうね、宗主がそんなことをおっしゃるとは思えませんと、主管が生意気な相づちを打つので、この野郎と睨みつつ。
「まあ、わからんものを考えても埒があかんな。有り難く香はいただいておこう。返礼の品を見繕っておいてくれ。文は書いておく」
「承知致しました」
心得たように下がっていく主管を見送り、江澄も再び執務に戻った。
そうしてひと月ほど後。
気遣いの礼にと藍曦臣を蓮花塢に招いた江澄は、ここ半年ほどの間に頻繁になった労りの贈り物について尋ねることにした。
餐卓につきながら、箸休めの間に話を振る。これならば家規にも触れないはずである。
「貴方から送られてくる品々にはとても助けられた。よい息抜きや癒しになったぞ」
「それは良かったです。貴方の疲れを少しでも癒せたのなら私も嬉しい」
「有り難かったが、急にどうしたんだ? いつぞやは肩の疲れまで当てられて驚いたが、まさか見張りの符など仕込んではおるまいな?」
「いえいえ。そんな不埒なことはしていませんよ。貴方に叱られてしまう」
ふふと藍曦臣が悪戯っぽく笑う。まあそうだなと江澄も笑って頷いた。
もちろん冗談で言ったこと。親しき仲にも礼儀ありというやつだ。雅正な藍曦臣がそんなことをするなど、思ってもいない。
「ではいったいどうやって? 藍氏は噂話を禁じているだろうし、俺の体調など噂になるとも思えんが」
「実はね、貴方の筆蹟から体調を推理したんだ」
「筆蹟?」
俺の筆はそんなに乱れていたのか? 顔を顰める江澄に、ああ、そうではないよと藍曦臣は慌てて否定した。
「貴方の筆蹟は見事ですよ。まっすぐに姿勢を正して筆を動かされている様子が目に浮かぶような、綺麗な書です」
「だが、貴方は俺の筆に疲れを感じたのだろう?」
「ええと、感じたというと違いますね。それこそ目を皿のようにして、筆蹟をよくよく検分したのです」
「うん? 意味がわからんな。なぜそんなことを?」
「ええとね……」
怒らない? 呆れない? と、こちらの顔色を窺うような藍曦臣の様子に、なんなんだと江澄は口をへの字に曲げた。
「まさか貴方、またあいつに何か吹き込まれたんじゃないだろうな」
「う、うーん……。この場合は吹き込まれたというよりは、焚き付けられたといいますか……」
「なんだ。はっきり言え」
じろりと胡乱げに睨むと、藍曦臣は恥ずかしそうに俯いた。
「その、魏公子がね。貴方のことはなんでもわかると、筆蹟からでも体調がわかるんだと豪語されるものだから……」
ついむきになってしまって。決まり悪げな顔をする藍曦臣に、江澄は額を押えてため息をついた。
「あいつめ、また適当なことを……」
くだらない嘘で藍宗主に迷惑をかけるなと苦い顔をする江澄に、嘘だったのかい? と藍曦臣は困ったように眉を下げた。
「嘘というか、適当なほら話だな。そもそも俺の筆蹟なら、あいつより貴方の方がよほど頻繁に見ているはずだぞ」
俺があいつに文を送ることなどほとんどない。今も昔もな。座学の時分に姉上に宛てて書いたものを横から見ていたくらいだろう。
「まあ、あいつ宛てに全く書かなかったわけではないが。だいぶ雑に書いていたからな。走り書きが酷ければ忙しいんだな、くらいはわかるだろうが」
「そうなの?」
「あいつ相手に改まって文など書いてられるか」
用があったとしても伝令蝶を飛ばして終いだと鼻を鳴らす江澄に、なんだ、そうだったのと藍曦臣は肩の力を抜いた。
ふぅと安堵の息をつく。
「随分高等な技術をお持ちだと思ったよ。例え疲れていても貴方の書は美しいし、いったいどこに快調不調の差異があるのかと、いただいた文を全部並べて見比べてしまった」
「なにをやっているんだ、貴方も……」
江澄が呆れたように目を細める。だって、と藍曦臣は子供っぽく唇を尖らせた。
「魏公子があんまり得意気に言うものだから、悔しくなってしまって」
必ず私もわかるようになってみせると頑張ってしまった。
「ご体調の良かった時のものを手本に、僅かでも濃淡の差がないか、とめやはらいの墨のキレを見極めたりと目を凝らしたよ」
「……」
もはや何も言えない。微妙な顔つきで江澄は藍曦臣を見た。
まさか執務や私信で送った文をそんな馬鹿げたことで検分されていたなんて。憎まれ口も職務放棄するというものだ。
すっかり呆れている江澄に、でもねと藍曦臣は笑顔を向けた。
「でも、頑張った甲斐はあったんじゃないかな? 当たっていたんでしょう?」
私の読みもなかなかのものじゃないだろうかと誇らしげな顔をする藍曦臣には、もう苦笑するしかない。
「本当にそんな特殊技術を体得してどうするんだ。何の役にも立たんぞ」
「とんでもない! 役に立っていますよ。とても。貴方を癒せたのだもの。本望です」
「俺しか得をしないじゃないか」
「いいじゃないですか。それに私も鼻が高いです。魏公子にもできないことができるようになったのだもの」
それに、貴方の門弟たちも、貴方が安らげたのなら嬉しいですよ、きっと。
「ほら、いろんな方にとって良いことじゃないですか。会得できてよかったです」
えっへんと言わんばかりの得意げな藍曦臣の、その表情が。
褒められるのを待っている時の阿凌を思い出させるものだから。
江澄は困ったように笑いながらも、よしよしと頭を撫でてやったのだった。