【曦澄】願い『これから向かうよ』
そう伝令蝶が来た時にはまさかと思った。
互いに宗主である身、中秋節を共に過ごせないことは承知の上。そう江澄は思っていたが、藍曦臣は違ったらしい。
遅い時間になるけれど、必ず伺うよ。貴方と共に月を眺めたい。
先日の会合での別れ際に耳元に囁かれた言葉。だが、難しいだろう、無理はしなくていいと苦笑とともに躱してしまった言葉を思い出す。
想いを交わし、特別な仲になり。初めて迎える中秋節だった。
まだ三拝はしていないが、いずれは道侶として家族になりたい。そう告げられてはいる。
だが、今はまだその関係にはなく、そして中秋節は家族と過ごすものだ。
貴方は姑蘇で、私は雲夢で、同じ月を眺めよう。貴方の家族と門下を大事にするといいと、そう答えた江澄に、藍曦臣は困ったように眉を下げていた。
あの言葉に嘘はない。望んだとて難しいことは承知している。ならば初めから割り切ってしまえばいい。そのくらいの分別は身についている。己の望みとの折り合いをつけられるほどには歳を重ね、落ち着いたつもりだ。
だと言うのに。
「晩吟!」
夜の帳の下りた蓮花塢に煌々と満月が輝く。その月明かりを背に、真っ白の校服を靡かせた藍曦臣が剣から舞い降りてくる。
「ずいぶん早かったな。どれだけ飛ばしてきたんだ?」
いくら月が明るいとはいえ夜だ。危ないだろうと心配する江澄に、実は姑蘇を出る時ではなく、こちらに向かう途中で伝令蝶を飛ばしたんだと藍曦臣は笑った。
「貴方に止められても、もう来てしまったよと言えるようにね」
「貴方な……」
悪戯っ気に笑う藍曦臣に呆れる。もう向かっているという相手に来なくていいとはさすがに言えない。言うものか。
「こちら、お土産です」
四阿に通し、用意していた座卓に座る。渡された月餅と天子笑を礼を言って受け取った。
「これが雲夢の月餅かい?」
「ああ、そうだ。大きいだろう?」
藍曦臣が持ってきた姑蘇の月餅の一回りほどは大きいだろうか。蓮の実を練り込み、砂糖もたっぷり使う雲夢の月餅はずっしりとしていて食べごたえがある。
互いの月餅を交換して食べようと言ってはいたが、姑蘇の食事に慣れた胃には重いのではないだろうか。しかも、夜ももう遅い時間だ。江澄にはまだ宵の口だが、藍曦臣とってはそうではあるまい。
夜も遅い時刻に、胃に重いものを食べるのは体に良くないのでは?
案じる江澄に、藍曦臣は大丈夫と微笑んだ。
「夕餉は軽くにしておいたから、食べ切れると思うよ」
「ならいいが。無理はするなよ。胃もたれは明日に響くぞ」
「ふふ、もし貴方のお腹に余裕があったら手伝ってくれるかな。一つを分け合って食べるのもいいね」
「ああ、そうしよう」
すでに家僕たちは下がらせている。静かな蓮花塢は、だが、湖の向こうから民の団欒の賑やかしさが風に乗って運ばれてくる。独り身の門弟たちが酒を飲もうと町にくり出していったから、彼らの声も混ざっているのかもしれない。
「今夜も雲夢は賑やかだな」
「ええ。とても元気で、健やかそうでしたよ」
空の上からでもよくわかりました。
藍曦臣が微笑みながら蓮の茶を煎れてくれる。江澄の前にはそれまで飲んでいた酒の分と合わせて三つの器が並んだ。
「この素晴らしい月夜に」
「雲夢と姑蘇の末永い誼と繁栄に」
互いに茶杯を掲げ、飲み干す。
「やはり貴方が煎れたほうが美味いな」
雲夢の茶なのに。どこか不満げな江澄に、美味しく煎れられるように練習したからねと藍曦臣が笑う。
「じっくり蒸らすといいとは言われるが、俺はせっかちだからな。どうにも不向きだ」
「私が貴方の分も煎れるよ。任せてくれたまえ」
「それは随分な贅沢だ」
初めの乾杯を藍曦臣に合わせて茶にした江澄は、次はこいつをいただこうと天子笑に手を伸ばした。
「どうぞ、それは貴方がひとり占めしてしまって」
「有り難くいただこう」
名酒で唇を濡らしながら、藍曦臣の持参した月餅に齧り付く。雲夢とは違い小ぶりなそれは数口で江澄の腹の中に収まった。
藍曦臣も雲夢の月餅を小さく切り分け、少しずつ口に運んでいる。その様子に目を細めつつ、江澄は夜空を仰いだ。
煌々と輝く満月が夜空を明るく照らしている。視線を下に向ければ、湖にも月が浮かんでいた。
「美しいですね」
「ああ」
半分ほど食べ終え、いったん口休めをするらしい。食べることを止めたその合間に話すことは家規に抵触しないと聞いたのはいつのことだったか。
「いい夜だ。空に月、湖に月。そして目の前には貴方だ。どちらを向いても目が眩むな」
「おや。先に口説かれてしまった」
「だが、その……大丈夫だったのか? こちらに来てしまって」
「問題ないよ。夕餉は叔父上たちといただいたし、あちらには忘機たちもいるしね」
私が外出しても問題ない。藍曦臣がゆっくりと微笑む。
「貴方はここを離れられないでしょう? ならば動ける私が来るよ。気にしないで」
「そうか。それなら……」
いい、と。そう安堵の息をついた江澄に、晩吟と藍曦臣が名を呼んだ。
「早く貴方から遠慮がなくなるといいのだけれどね」
「うん?」
「藍氏でもこのくらいの融通はきかせられます。私は貴方に諦めてほしくない。欲張りになって欲しいのです」
にこにこと微笑みながら、とんでもないことを言う。藍氏の雅正はどうした。呆気にとられた江澄に、私はねと藍曦臣は言葉を紡いだ。
「深い仲になった方に遠慮をされるのは寂しいもの。私は愛しい人の我儘に振り回されるのが好きなんだと言ったら驚くかい?」
「な……」
言われた言葉に唖然とする江澄に、相変わらず藍曦臣はにこにこと笑顔を絶やさない。
「そ、んなことを言って、俺が強欲なことを言ったらどうする気だ」
「もちろん身を崩すような過ぎた欲はいけないよ。でも、中秋節を共に過ごすことはできる」
夜遅くに遠出をするくらい、なんてことはない。そっと手を握られ、見つめられる。
「こんなこと、難しいことでも何でもないんだ。むしろ今日、貴方と共に過ごせないことのほうが辛い。だから、どうか望んでほしい」
貴方から望まれないと、私は寂しい。
乞われ、どきりとする。望まれないことは寂しい。一方的に諦められる寂しさを、江澄は確かに知っていた。
「す、すまない……。どうにも俺は人に甘えるのが不得手で……」
「ええ。無理強いをするつもりはないのです。ただ、知ってほしくて。私は愛しい人を甘やかすのが好きなのだと」
「な、な……っ」
沢蕪君とは思えぬ浮ついた言葉に絶句する。二の句が継げないでいる江澄に、実はねと藍曦臣が耳打ちしてきた。
「ずっと憧れていたのです。恋人に振り回されるなんて、楽しそうじゃありませんか」
「あ、貴方……」
「それに、愛しい人の願いなら叶え甲斐もあります。貴方は慎ましいから特別な日に逢瀬を願うことさえ躊躇されるけれど、どうか私の望みを叶えると思って、言ってほしいな」
江澄は先程から言葉も出ない。はくはくと唇ばかりが震える。
そんな、簡単に言ってくれる。
宗主は多忙だ。夜遅くに遠出をして、翌日に響くことが全くないなどあり得ない。たった一日のこととはいえ、日々多忙なのが宗主というもの。それはお互い様なのだからよくわかっている。
だから、無理をさせたくなくて、過ぎた望みは抱くまいと自分に言い聞かせた。
そう、自制したのだ。
本当は望んでいたから。だが、無理だと言い聞かせ、諦めた。けれど。
「お一人が寂しく辛いとは申しません。貴方は芯のある強い御方。でも、私と共に過ごす時間も悪くはないでしょう?」
私を望んでいただければ、より良い一時を過ごせるとお約束いたしますよ。今宵の名月に見合う曲も披露致しましょう。
簫を取り出し、にこりと笑う。茶目っ気のある仕草に、とうとう江澄は堪えきれず吹き出した。
「貴方、沢蕪君ともあろう方が、存外俗っぽいことを仰るな」
「そうですとも。私も所詮はただの男。恋しい方を喜ばせたい一心ですから」
「その相手がこの俺か」
「ええ。ご理解いただけましたか」
姑蘇から雲夢まで、御剣すれば着くのです。どうということはありません。得意げに胸を張る藍曦臣に、遠慮していたのが馬鹿馬鹿しくなる。
そうだ。距離こそあるが、行けぬほどではない。自分たちの修為を考えれば尚のこと。やろうと思えばいくらでも叶う願いだ。
「どうにも俺のほうが振り回されている気がするがな。だが、悪くない」
「ふふ、そうでしょう? 楽しいでしょう?」
だから、どうぞやり返してください。にこにこと江澄からの我儘を待ちわびている藍曦臣に、ならばと江澄は天子笑を注いだ杯を掲げた。
「簫を披露してくれると言ったな。ぜひ聞かせてもらおうか。今夜はとことん贅沢をしてやろう」
「喜んで。貴方のお気に召したなら、そうだね、貴方の吟詠も聞かせていただきたいな」
「いいだろう」
煌々と燦めく月明かりを受けて掲げた酒盃がきらりと光る。夜空を照らす白銀の月。うっすらと纏う雲さえ仄かに光って見える。夜空と湖面に二つの月が浮かぶ。
「ああ、素晴らしい眺めだね。雲夢とはまさにこのこと」
「貴方がいるから格別だ」
「嬉しいことを仰る」
湖面に静かに響き渡る簫の音に耳を傾けながら月を眺める。思いがけず叶った素晴らしい夜だった。