【曦澄】酔っ払い中秋節あいつはきっとひとりで蓮花塢にいると思うんだ。だから澤蕪君、行ってあげてよ。
陽気な彼のいつになく殊勝な物言いに、何より愛しい人を孤独なお月見などさせたくなくて、いても立ってもいられず夜空の中を駆けつけてみてみれば。
愛しい情人は、試剣堂にて門弟の皆さんと楽しく酔いどれていましたとさ。
「あいつの中でどれだけ俺は嫌われぼっちなんだ」
フンと江澄が小馬鹿にするように鼻を鳴らす。忌々しいというよりはどこか呆れた様子で酒を呷った彼の周りでは、これまたお酒で上機嫌になっている門弟たちが、まったくですなあと大声で笑っていた。
「どうして我らが敬愛する宗主にぼっち月見酒なんてさせねばならいんですか。ねえ、宗主」
「そうですとも。せっかくの上司の奢りで飲める機会をみすみす逃すなんて」
「もったいないもったいない」
「ほぉ。お前ら、それが本音か?」
「いやですな、宗主。今夜は無礼講ですよ。先ほどご自身でそう仰ったでしょうに」
「そうですとも。我ら天涯孤独の独り身同士。ならば江氏こそが家族と肩を叩きあったばかりでしょうに」
「そうだったな。よし、許す! 今日は存分に飲め!」
「ありがとうございまーす!」
「飲んでおりまーす!」
「……」
とりあえず酒臭い。
藍曦臣は口こそ開け放しはしなかったものの、眼の前の上機嫌な酒盛りを唖然として見つめていた。
聞いていた話と全然違う。
試剣堂に男たちが集い、今夜は無礼講と楽しく酒盛りをしている図は、むさ苦しさはあれど、孤独の影も形も見当たらない。
いや、情人が寂しくしていなかったのなら良いことなのだけれど、そうなのだけれど。
なんだろうこの、肩透かし感は。
立ち尽くす藍曦臣に気づいた江澄が、ふと思い出したように立ち上がった。
「すまない。貴方は酒が飲めなかったな。茶を用意してこよう」
「これはこれは、気が付きませんで失礼しました。宗主に立たせるなどとんでもない。私どもが行ってまいりましょう」
「いやいい、気にするな」
門弟たちにひらりと手を振って、江澄は厨房へと行ってしまった。
その背をぼんやり見送っていると、とりあえずお座りくださいと敷物を敷かれたので、藍曦臣もひとまず腰を下ろすことにした。
「遅い時間に遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
「ささ、一献、と行きたいところですが、いやはや、用意が足りず申し訳ございません」
「せっかく伝令蝶をいただいておりましたのにねえ。いやあうっかりうっかり」
わっはっはと陽気に笑う江氏門弟たちのちっとも悪びれない様子に、藍曦臣も毒気を抜かれ、いえお気になさらずと苦笑した。
そうして、江澄が戻ってくるのを待とうとしていたところ。一人の門弟が、誰ぞに宗主がひとり寂しく飲んでいるとでも言われましたかと問いかけてきた。
「え?」
「言われたのでしょう? でなければ、今日、こんな時間に藍氏宗主の貴方が蓮花塢に来るなど」
今宵は中秋節ですからね。彼らが笑う。
そう、中秋節だ。家族と過ごし、語らう夜。
でも、江澄は。家族を失い、唯一の肉親の金凌も今や宗主として金鱗台で過ごしているから。きっと今夜は一人で蓮花塢にいると。そう言われて藍曦臣はいても立ってもいられず、ここに来た。
けれど。
「誰ぞの中では我らが宗主はいつまでも一人ぼっちの可哀想な人で、そして我らはそんな宗主をほったらかしにする薄情な門弟のようですね」
いやはや、酷いですなあ。そう口にする彼らの目が、微妙に笑っていない。
「江氏には独り身の修士がまあまあおりましてね。私どももそうですが」
温氏の襲撃によりほぼ潰滅の憂き目に遭った江氏には、生き残った門弟たちも家族を失っている者が数多くいた。立て直すべく新たに門弟として迎え入れた流れの修士たちも、家族を持たぬ訳ありの者が少なくない。
「ですから、私どもにしてみれば、江氏こそが家族のようなもの。独り身同士、今夜は飲もうやとそれなりに楽しくやっております」
「まったく、これだから所帯持ちは嫌ですねえ。独身は寂しいと決めてかかるんですから」
「幸か不幸か、我ら江氏は独り身が多いですからね。こうして集って酒を飲むには苦労しないんですよ」
「まったく、どうしてあの方を一人になどさせましょう。我らの結束を舐めてもらっちゃ困ります」
宗主は慕われておりますよ。彼らは口々に言う。
「そう……、そうですね……」
そう、そのとおりだ。江澄は門弟たちに慕われている。厳しく不器用だが、誇り高くも情の深い彼を、誰よりも傍で支え付き従っている門弟たちが見誤るわけがない。
彼を慕っている門弟たちが、今夜彼を一人で放っておくなど、するはずもなかったのだ。
自分の短慮が、思い込みが恥ずかしい。そう藍曦臣が自身を恥じ入っていると、そうは言いましてもと、またも門弟たちが賑やかに笑う。
「まあ、でも、所帯を持てば一抜けするんですけどね!」
「なかなか抜けられませんなあ! いやはや、この歳まで来ると、一人というのも存外気楽なもので」
「まあでも、宗主も、我らより澤蕪君が来てくださる方が嬉しいでしょうけどね! いやはや、ようこそお越しくださいました。さすがは春の風の如くと謳われた澤蕪君。酒精もなんだか芳しくなった気が致します」
「麗人を仰ぎ見ながら飲む酒はまた格別ですな!」
「そういえば全然月を見ておりませんでしたね! おい、お前、覚えていたか、今夜は中秋節だぞ」
「お前じゃあるまいし、忘れるわけがないだろう!」
「じゃあ、お前はちゃんと月を見ていたってのか」
「見てなかったな!」
ドッと笑いが起き、彼らが銘々に小突きあう。すっかり酔っ払いだ。先程までのハッとするような言葉はどこへやら、またも酔いどれに戻る彼らに、もしや自分は気を使われたのかと藍曦臣は苦笑いした。
「いや、藍宗主。貴方は素晴らしいです。こんな遅くに蓮花塢までいらしてくださるとは。行動で示してくださる貴方なら、宗主もきっとお幸せになれます。ありがとうございます」
「そうですとも。可哀想などと憐れむなどとんでもない。それより傍にいてくださることがどれだけ嬉しいことか。今夜はお越しくださってありがとうございます、藍宗主。どうか宗主をよろしくお願い申し上げます」
「あ、ありがとうございます?」
急に拝まれ、感謝され、有難がられて、藍曦臣は彼らの態度の乱高下についていけない。とりあえず歓迎されていることはわかったが。
藍曦臣の困惑を他所に、酔っぱらいたちは盛り上がっていく。
「だいたい、いつまであの人は大師兄面しているんですかね」
「大師兄の座が空いているのだってたまたまですよ。別に彼のために空けているわけじゃない」
「そうですよ。そもそもうち、潰滅しましたしね。誰が一番弟子も何もあったもんじゃありませんし」
「ていうか、あの人のせいで大師兄の敷居が高くなっちゃったんですよ。普通はそう何でもかんでも全てに秀でたりしませんや」
「まったくまったく」
「六芸を一人ですべて秀でなくともよくありませんか」
「一芸に秀でて助け合えばよろしい」
「そうですそうです」
「私は礼と楽に」
「私は射に」
「私は御に。あ、剣も得意です」
「私は書に」
「私は数に」
「つまり、我ら五人揃えば大師兄では?」
盛り上がって楽しくなってきたらしく、五人集まって何やら決め仕草をし始めた彼らに、こらえきれず藍曦臣が袖の裏で笑いを噛み殺していると。
「何をしとるんだ、お前らは」
ようやく江澄が茶の用意を携えて戻ってきた。
「あ、宗主」
「おかえりなさい、宗主」
「遅かったですね、宗主」
「宴会芸でもしてるのか、お前たちは」
呆れた顔をする江澄に、我ら五人で大師兄を名乗っていいですかと門弟たちは楽しげだ。
「は? 馬鹿を言うな。いきなり五人も大師兄にできるものか」
「違いますよ、宗主。大師兄が五人じゃありません。五人揃って初めて大師兄なんです」
「一人でも欠けたら大師兄じゃなくなります」
「なんだそれは。編隊でも組むのか」
「いいじゃありませんか。一人に負荷が集中するよりは。宗主が身をもってご存知でしょう」
「そうですよ。合言葉は五人揃えば大師兄、いかがです?」
「却下だ。馬鹿なことを言ってないで酒でも飲め」
ええ~と不満げな門弟たちをあしらって、江澄は藍曦臣の隣に腰を下ろした。
「すまないな。うちの酔っぱらい共に絡まれたか」
無礼講とは言え、他家の貴方にまで絡んで悪かったと詫びる江澄に、いいえと藍曦臣は首を振った。
「今夜は無礼講なのでしょう? それに江氏は家族のようなものとも。そこに迎え入れていただけたのです。彼らの忌憚のないお話が聞けて楽しかったですよ」
「そうなのか?」
江澄は疑わしげだ。
「さすが澤蕪君! お心が広い!」
「素晴らしい! 宗主も見習ってください」
酔っ払いたちがここぞとばかりに騒ぎ立てる。ええいうるさいと江澄が顔をしかめた。
「お前ら、絶対記憶をなくすなよ? 朝になったら青ざめるといい」
「まったまた、宗主ったらそんな憎まれ口を叩いて」
「やかましい」
気安く文句を言い合う間柄の彼らを羨ましく見ていると、門弟のひとりが、そろそろ私どもは遠慮しますかねと江澄の分の酒瓶を集め始めた。
「宗主。せっかく澤蕪君が来てくださったのです。あとはお二人でお過ごしください。私どもはこのままここで飲んだくれておりますので」
「そうですね。いつまでもお邪魔をするのは申し訳ないもの。どうぞ宗主、一抜けなさってくださいな」
ささ、どうぞどうぞと背を押され、持ってきた茶の支度をもう一度抱え直して、江澄と澤蕪君は試剣堂を追い出された。
「あいつら、朝になったら覚えてろ」
追い出されて不貞腐れる江澄に、まあ、いいじゃありませんか。気を使ってくださったんですよと藍曦臣は微笑んだ。
「あのまま皆さんとお話ししていても楽しかっただろうけれど、やっぱり貴方と二人きりになりたかったからね」
「まあ、それは、そうだが」
「どうします? 四阿か貴方の部屋で飲み直しますか?」
「いや。酔いも覚めた。どうせ夕方から飲み続けてたんだ。これ以上はやめておく」
「飲み過ぎですよ」
「いいじゃないか。こんな美しい月夜だ、飲まないなんてもったいない」
「そんなことは月を眺めてから仰ってくださらないと」
「だからこれから貴方と眺めるんだろう」
私の部屋でいいか。貴方がお茶を立ててくれ。
そうそっぽ向く彼の顔は宵闇の中でも仄かに赤く見える。
お酒に強い彼のこと、酒精ばかりが頬を火照らせているわけではないだろう。
「もちろんですとも」
この月夜を愛でる、とびきり美味しいお茶をお淹れしましょう。きっとお酒にも負けませんよ。
貴方を思う気持ちも負けません。藍曦臣は微笑んだ。
翌朝。
昨夜の陽気な酔っぱらいたちは、代わる代わる藍曦臣に昨夜の放言を侘びつつも、去り際に五人揃えばの決め仕草を見せて、再び藍曦臣を笑わせたのだった。