【曦澄】蓮の湯浪漫蓮の開花に誘われ蓮花塢を訪れた藍曦臣は、その見事な花の盛りに目を細めた。湖面に広がる美しい景色は何度見ても飽きない。
「どうだ? 今年も美しいだろう?」
「ええ。何度見ても感嘆致します。素晴らしい眺めですね」
青々とした葉の中で鮮やかに花開く蓮の美しさに圧倒される。まるでどこまでも広がっているかのような雄大さに時を忘れて見入ってしまう。
湖面の中を一艘の舟が葉をかき分けてゆっくりと進んでいくのが見えた。小さな漣が舟の軌跡を淡く残していく。その様さえ一服の画のようだった。
うっとりと蓮に見入る藍曦臣に江澄も満足げに頷く。
そうして二人で四阿で眺めること暫し。ねえ、晩吟と藍曦臣が口を開いた。
「ちょっと試してみたいことがあるのですが、良いかな?」
「試したいこと? 何だ?」
あのねと藍曦臣が指さしたのは、蓮の花。
「あの花を数本、いただけませんか?」
「構わないが」
帰りに包ませよう。快く請け負ってくれた江澄に、いえ、今いただきたいのですと藍曦臣は顔を綻ばせた。
「今? 何に使うんだ? 飾るのか?」
「そうですね、飾るといえば飾ります。夜、湯浴みをする時に使いたいのです。切っていただくのは日が落ちてからで構いません」
よろしいですかと問われ、いま一つ藍曦臣の意図がわからないながらも、江澄は構わないと頷いた。
そうして夕餉も済ませた夜。
「そろそろお腹も落ち着きましたし、湯浴みをいたしましょう」
蓮花を浮かべた花瓶を片手に、藍曦臣がいそいそと立ち上がった。今日は長く湯浴みの時間を取りたいと言うので、夕餉の後に入ることにしたのだ。
「客人なのだから、貴方が先に入るといい」
「そう仰っしゃらずに。そうだ、一緒に入りませんか?」
「無理だろう、大の男二人が」
「では、まず貴方が入って」
いや、だから貴方が客人だろうと言っても、なにやら楽しげな藍曦臣は聞いてはいないようで、ほら早くと言うように江澄の手を引いていく。
なんなんだいったいと思いつつ、江澄は蓮の花を抱えてご機嫌の藍曦臣に連れられて湯殿に入った。
「お湯は少し温めにしてくれた?」
「ああ。貴方の言う通り、人肌より少し温かい程度にしてあるはずだ」
そうだね、いい塩梅だと、湯の中に片手を差し入れて満足そうに微笑むと、藍曦臣はさあ入ってと江澄を促した。
「どうあっても俺を先に入れさせる気か」
「ええ。試したいことがあるって言ったでしょう?」
ならば仕方がない。江澄は観念して衣を脱いだ。客より先に入浴する無作法については目を瞑ることにする。そもそも今更の仲だ。
湯桶の中に足を踏み入れる。全身まで浸かって、傍らで控えている藍曦臣に、これでいいかと顔を向けた。
「そうしましたら、これを」
藍曦臣がいそいそと手にしていた蓮の花を湯の中に浮かべ始めた。湯桶の中、江澄の身体の周りに蓮の花が浮かんでゆらゆらと揺れている。
「ああ、これです。これが見たかった」
眼福ですと感激するかのように、藍曦臣が口元を両手の指で隠しながらうっとりしている。
「なんなんだ、いったい」
「花湯ですよ。蓮風呂です」
「ふうん」
これがかと江澄が見慣れた蓮花をざばりと湯の中から掬い上げた。
「書物で花を湯の中に浮かべて湯浴みすると心身の快癒効果があると読みまして。何より思い浮かべたらとても美しいと思ったのです。それで蓮の花の時期になったら是非やってみようと思って」
密かに楽しみにしておりましたと藍曦臣が顔を綻ばせる。
「なら、貴方が先に入ればよかっただろう」
「何を言うのです。私が見たかったのはこれですよ。蓮の花浮かぶ水面の中で一糸まとわぬ姿の貴方を見てみたかったのです」
「はあ?」
江澄が胡乱げな顔をする。一方、藍曦臣は希望が叶って私は大変満足ですと満面の笑みだ。
「薄布を纏っていても大変美しいと思いますが、やはり素肌が一番美しい。貴方の肌はしっとり潤っていて張りがあるから、ほら、湯水がきれいに弾かれている。蓮花の色鮮やかさも貴方の引き立て役のようです。素晴らしい……」
花の浮かぶ浴槽の中、江澄の片腕を愛おしそうに持ち上げ、身体に沿うように湯が流れ落ちていくのをうっとりと見つめている。
「貴方の肌だってきれいだろうに」
「とんでもない。晩吟の肌のほうが潤いがありますよ。雲夢の土地柄なのかな? とてもしっとりしていて、閨のときなんてうっすら汗ばんで張り付くようだもの」
「おい、何を考えている」
急に何を言い出すんだと江澄が睨めど、ご機嫌の藍曦臣にはどこ吹く風のようだ。楽しげに肌を撫で、意味有りげに視線を向けてくる。
「わかっているくせに。言わせたいのですが?」
「馬鹿か」
呆れたように江澄が湯を飛ばしてくる。顔に湯をかけられて、藍曦臣は困ったように笑った。
「私も入ろうかな。湯加減はどうです?」
「いつもより温いな。おい、貴方も入るのか? 狭いぞ」
「いいじゃないですか。たまには一緒に入りましょう」
江澄が止めるのも聞かず、さっさと衣を脱ぎ捨てて、藍曦臣が湯の中に入ってくる。後ろに回ろうとする藍曦臣に、仕方がないなと江澄は少し身体をずらして場所を空けてやった。
「狭い」
「ふふ。お湯が温めだからくっついていても熱くはないでしょう? 人肌が心地良いですね。肉体も湯もひとつになっていくようで、まるで溶け出していくようです」
「おい、俺は貴方に酒を飲ませてないぞ。なんでそんな酔ったような戯言を言ってるんだ」
「つれないことを仰る」
酷いなと藍曦臣が江澄の肩口に顔を埋める。そのまま悪戯に唇で触れてくるのが擽ったい。
「貴方、今日はやけにはしゃいでないか」
「そうかもしれませんね。だって貴方があんまり艶めかしくて綺麗だから」
「そんなことを言うのは貴方くらいだ」
「そんなはずないでしょう。でも、貴方に告げるのは私だけであって欲しいですね」
それなら現にそうなっている。貴方しかいないと江澄が呆れてため息をつく。とにかく今夜の藍曦臣はご機嫌だ。
「まさか花に酔ったのか? 花粉なり花蜜なりが湯に溶け出しているのかもしれないな。香りが甘ったるい」
湯も心なしか少しとろみがあるような。気のせいだろうか。
温めのお湯にしているせいですよと藍曦臣が言う。熱い湯では花がすぐにだめになってしまうからなのだとか。蓮花を楽しむための湯温なのだ。
「蓮の花は良いですね。独特の甘い香りがします。こんなに色鮮やかなのに甘さがきつくないのがいい」
爽やかさの中にほんのりと甘さが漂う、独特の香りだ。
「だからこそ貴方の美しさが引き立つのです」
後ろから抱きしめて胸いっぱいに匂いを吸い込む。すっかり覚えてしまった匂い。
しっとりした肌も、さらりとつややかな髪も、手触りもすべて覚えてしまった。
「とんだ不埒さだ。まさかこんなことを考えながら俺の蓮湖を眺めていたとは」
藍氏の雅正が聞いて呆れる。江澄が呆れたように、だが、どこか愉快そうに笑う。
ゆらりゆらりと蓮の花が二人の周りを揺蕩って揺れる。それを悪戯に掬ったり、波立たせて流したり。手慰みに花を浮かべて遊ぶ。仄かに香る甘さの中、随分と雅で優雅な湯浴みだ。
「本音を言えば、あの蓮湖の中で裸の貴方が見たいですね」
「馬鹿言え。誰が見てるともしれないのに脱げるか」
「ええ。私も見せたくありません。やるなら必ず人払いを」
「だから、やらんぞ」
伸びてくる手をぱしりと叩いて江澄が笑う。
ええ、なので、せめて花湯で見たかったんですよと藍曦臣も笑った。