タツリュウ③勝手にしろだなんて言わなければよかった。だって勝手なんかしてほしくない。俺のわがままを聞いてほしい。後悔先に立たずとはこのことだ。
あれから兄貴とろくに話をしていない。最初こそ母さんもミユも心配そうに俺たちを見ていたが、一ヶ月もたつとそれが当たり前のようになっていた。兄貴も兄貴で勉強が忙しく、俺に構っている暇はないらしい。あれだけのことがあっても、兄貴はいつも通りで腹が立つ。俺ばかり気になって、俺ばかりが悶々としている。
そんな鬱々とした気持ちのまま部活の練習に参加していたのが悪かったのだ。腫れ上がった右手の人差し指を見て、ため息が出る。空手部の練習中にやってしまった。練習中はアドレナリンが出ていたのだろう。少し痛むがなんてことはなかった。たいした怪我じゃないと自己判断し、冷やしもせずに帰路についた。しかし、家に近づくにつれ人差し指はどんどん腫れ上がっていく。それに伴いズキズキと痛みも増していく。大会が近いというのに何をしているのだろうか。盛大に出るため息が白く染まって消えていく。
「ただいま」
家に帰ってきても、誰からの返事もない。母さんは仕事で、ミユは遊びにいっているのだろう。そして、兄貴は塾だ。誰もいないのは好都合。余計な心配をかけずにすむ。冷やせば腫れもひくだろうと、手洗いを済ませ、キッチンに向かうと先客がいた。
「兄貴…」
「おかえり」
キッチンで兄貴がコーヒーを入れていたのだ。
「今日、塾って…」
「今日は休みだ」
「そ、そうなんだ…」
一つ屋根の下に住んでいるというのに、数ヶ月ほど口をきかなかっただけで、こんなにも話せなくなるものなのかと驚いた。俺がまごまごしていると、兄貴の視線が俺の右手に注がれているのに気がつく。
「怪我したのか?」
「ちょっとドジっただけっ!」
隠すように背中に手を回せば、まったくと兄貴は呆れ気味に息をつく。
「来月大会だろ?」
「別にこれくらい平気」
「見せてみろ」
「大した怪我じゃないから」
「いいから」
兄貴が睨みつけてくる。怒っているという訳ではないことを俺はよく知っている。小さい頃から、兄貴はよくその目で俺を諭していた。今も俺に意地を張るなと言っている。兄貴の目は口以上に雄弁なのだ。結局、兄貴の圧に負けて、俺は渋々右手を差し出した。兄貴が患部に優しく触れる。
「突き指だな。冷やしてないのか?」
「学校ではそんなに痛くなかったから」
「今度からはすぐに冷やせ」
久しぶりに話をしたかと思えば、兄貴から出てくるのは小言ばかり。兄貴らしいといえばそうだ。
「氷嚢作ってやる」
「それくらい自分でできるし」
「利き手を怪我したんだろ?いいからそこで大人しく待ってろ」
まだ俺が何か言いたげにしていると、お茶でも入れてやるぞと煽られる。少しムッとして、じゃあお茶とぶっきらぼうに注文してやった。それに嫌な顔もせず、むしろどこか楽しげにしながら、わかったと兄貴は急須でお茶を入れてくれた。
ガザガサと氷を砕き、氷嚢を作り始めた兄貴を、お茶を飲みながら眺める。以前まではたわいのない話ならいくらでも出てきたのに、今は何も浮かんでこない。氷がぶつかる音だけがキッチンに響き渡る。
「空手以外のことを考えてたんだろ?」
不意に兄貴が口を開く。それがあまりにも図星すぎて、俺はお茶を飲む手が止まる。
「べ、別にそんなことないし」
「空手をやるときはちゃんと集中しろ。この程度の怪我で済まなくなるぞ」
「わかってるって」
そんなことを言われなくたってわかっている。空手のときくらい考えないようにしたい。それができたらこんな怪我などしなかった。
苛立ちを飲み込むように、お茶を口にする。
「俺のこと考えてたのか?」
しかし、続く兄貴の言葉にせっかく飲んだお茶を俺は盛大に噴き出した。ゲホゲホっとむせる俺に目もくれず、兄貴は作業を続けている。
こんな反応をしては、YESと言っているようなもの。誤魔化しなど必要ないかと、そうに決まってんだろと小さく答える。そうすれば、可愛い奴だなと兄貴の顔が緩んだ。
「それは弟としてだろ」
俺を一人の男として少しも見てくれない兄貴にそう毒吐く。そうかもなと兄貴は否定しないで笑っていた。
出来上がった氷嚢をガサリと右手に乗せられる。角張ったところはなく、患部を優しく包み込み、冷やしてくれた。
空手で怪我をするたびに兄貴がこうして手当てをしてくれた。成長し、空手の腕が上がるにつれて、そんなこともほとんどなくなっていた。今思えば、俺が兄貴の弟だから甲斐甲斐しく世話をしてくれていただけなのかもしれない。弟だから心配してくれるし、弟だから構ってくれる。弟だから隣にいることを許されていただけなのかもしれない。一人の男として見てほしいと願うくせに、弟という特別枠に満足していたのは事実だ。弟でも隣にいられない現実に直面して、やっと焦り出す俺はあまりにも滑稽だ。
「兄貴はやっぱりA大学受けるの?」
「そのつもりだ」
何度目かの質問を兄貴にぶつける。今日の兄貴の答えに迷いも誤魔化しもなかった。
「俺は親父と同じ道を進みたい。開発者と指導員では少し違う道かもしれないが、親父が見た景色を見てみたいんだ。それが俺の夢だ」
空手を始めたばかりの頃、空手で誰よりも強くなるのが夢なんだと兄貴は言っていた。母さんが入院して空手を辞めてから、兄貴が夢を語ることはなかった。久しぶりに聞いた兄貴の夢。夢を語る兄貴は、あの頃と変わらない。
「正直、母さんの体調もお前やミユのことも心配だ。それに、家を出るとなるとお金だってかかる。でも、母さんは気にしなくていいと言ってくれた。俺の好きなことを思う存分やってごらんってな。だから、俺は母さんのその言葉に報いたい」
夢の次に語られるのは兄貴の覚悟。
あぁ、やっぱり兄貴はすげぇや。
「あのさ、兄貴」
「なんだ?」
「受験、頑張ってね」
「ありがとう」
兄貴の顔は見れなかったけど、声が嬉しそうだった。
その冬、兄貴は難なくA大学に合格し、桜が咲く前に家を出ていった。