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    calabash_ic

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    2022年2月4日、キラウㇱの誕生日に書きました

    2月4日、立春、けあらし 昨晩の味噌汁を温めているとポケットの中で携帯電話が軽快に鳴った。手に持っていた卵を置き、画面も見ずに応答のボタンを押す。相手も要件もわかっている。
    「もしもし、ハポ?」
     キラウㇱ、と電話の向こうの声が呼んだ。今日この日に、こんな朝から電話を掛けてくるのは一人だけだ。起こしちゃったかしらと心配する母に大丈夫だと返す。続く言葉もわかっている。
    「誕生日おめでとう、キラウㇱ」
     三十路をとうに過ぎているのにいつまでも子供扱いで少し気恥ずかしい。ありがとうと言いながら、実家の電話の前に立つ母の姿を思い浮かべた。父はもう仕事に出ているのだろう。ふつふつと温まってきた味噌汁に片手で卵を落とす。
    「あんたの生まれた日はあったかくて、まだ二月なのに春が来たかと思ったのよ」
     この言葉も子供の頃から三十回以上聞いている。語る母の口調は弾んでいる。だからキラウㇱは長い事、自分は早く訪れた春の陽気の中で生まれたのだと思っていたのだ。
     
    「あの日はけあらしが出てたっけなあ」
     そう教えてくれたのは叔父だった。キラウㇱが中学に上がった頃の会話だ。近所に住んでいた母の弟はその日、暗いうちから海に出てしまっていて、キラウㇱが生まれた時にも陸に戻っていなかった。
    「お前が生まれたって電話が掛かってきたからよく覚えてるよ」
     それを聞いてキラウㇱは首を傾げてしまった。皆がけあらしと呼んでいる蒸気霧の条件は二つ、快晴である事と、気温がとても低い事だからだ。まるで温泉の湯気のように波の上に靄がかかる、それを叔父が見間違える筈はない。
    「ハポはあったかい日だったって言ってた」
     なんとなく、母を庇う気持ちでそう言った。叔父の事は好きだったけれど、母を嘘吐きにしてしまう気がしたのだ。
    「うーん、そうなあ」
     叔父は困ったように優しい溜息を吐いて言った。
    「お前が生まれて、それくらい嬉しかったんだろうな」
     だからこんな事で泣くなよ、と言う叔父に、服の袖で目元を擦りながら「泣いてない」と返した。
     
     今ならもっと色々な事がわかる。キラウㇱの生まれた病院から海は見えなかったし、外気の気温すら母は知らなかったかもしれない。それでも母は、キラウㇱが生まれて春のようだと思ったのだ。厳寒の地で暮らす人々が半年間待ち望んでいる春の始まり。雪の下に渦巻く生命も今か今かと芽吹きを待っている。
     たかが三十年余り前の天気など簡単に調べられる。図書館になら当時の新聞だって残っているだろう。それでもキラウㇱはそうしなかった。代わりに、全部を信じる事にした。疑う事はない。キラウㇱは立春の、とても暖かくて、けあらしの出ている朝に生まれた。それが本当の事だった。
    「ハポ、俺そろそろ仕事に行かないと」
     身体に気を付けて、と言い合って電話を切った。画面に映し出された時計を確認する。手早くどんぶりに米をよそい、上から卵入りの味噌汁をかけて掻き込んだ。丁度良い半熟具合だ。
     分厚いダウンコートを羽織って玄関の扉を開ける。春を予感させる強い風が吹き抜けた。
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    calabash_ic

    MOURNING
    早く家に帰りたい/キラ門 昨年の言葉が耳に残ったまま新年を迎えた。葉の落ちた枝に雪が重く積もっている。長く真っ直ぐな道の両脇の林から時折エゾシカが顔を覗かせるので、その度に軽くブレーキを踏む。峠が吹雪いていなければ無事に帰り着けるだろう。自然と気が急くのを落ち着けようと冷めてしまった缶コーヒーを啜る。今夜帰ると伝えておいた。冷蔵庫の中身は減っただろうか。酒ばかり飲んでなければいいが。そんな事ばかり考えている。アパートから運んできた炬燵のある我が家。きっと今も門倉が背中を丸め、テレビを見るか、本を読むかしているのだろう。我が家、と心の中で思う時、キラウㇱは切ないような誇らしいような気持ちになる。
     初めて好きだと言われた。門倉は帰省に着いてこなかったからだ。その心苦しげな、まるで謝罪のような響きが頭から離れないでいる。申し訳ない、と直ぐにも言い出しそうに眉根に寄せて「キラウㇱくん、好きだよ」と言った。これから長距離の運転だとキラウㇱが玄関の扉を開けたところだった。振り返ると半纏を羽織った門倉が壁にもたれかかるようにして立っていた。まだ眠たげで、目の端が少し汚れていた。うん。俺も好きだ。澱みなく溢れるように返事をしながら、そうか、俺はすっかりこの人が好きになってしまったのか、と頭の端で考えた。キラウㇱから言葉にしたのもおそらくこれが初めてだった。それから、本当に一人でいいのかとここ数日で何度もした質問を繰り返そうとして、口を噤んだ。寂しさはキラウㇱのものだった。門倉を置いていくキラウㇱが寂しいのであって、けれどそれがこんな表情をさせてしまっているのなら、それこそ本意ではなかった。代わりに「そのうち一緒に行こう」と言って、膨らんだ鞄を肩に掛けた。結局いつまでもどこか寂しいのだ。一人でも生きていける人間が二人、一緒にいようとする事はきっとそうなのだろう。キラウㇱは別にそれで良かった。ただ、あの朝、わざわざ寝床から出て見送ってくれた人のいる我が家に、少しでも早く帰りたいだけだった。
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