2月4日、立春、けあらし 昨晩の味噌汁を温めているとポケットの中で携帯電話が軽快に鳴った。手に持っていた卵を置き、画面も見ずに応答のボタンを押す。相手も要件もわかっている。
「もしもし、ハポ?」
キラウㇱ、と電話の向こうの声が呼んだ。今日この日に、こんな朝から電話を掛けてくるのは一人だけだ。起こしちゃったかしらと心配する母に大丈夫だと返す。続く言葉もわかっている。
「誕生日おめでとう、キラウㇱ」
三十路をとうに過ぎているのにいつまでも子供扱いで少し気恥ずかしい。ありがとうと言いながら、実家の電話の前に立つ母の姿を思い浮かべた。父はもう仕事に出ているのだろう。ふつふつと温まってきた味噌汁に片手で卵を落とす。
「あんたの生まれた日はあったかくて、まだ二月なのに春が来たかと思ったのよ」
この言葉も子供の頃から三十回以上聞いている。語る母の口調は弾んでいる。だからキラウㇱは長い事、自分は早く訪れた春の陽気の中で生まれたのだと思っていたのだ。
「あの日はけあらしが出てたっけなあ」
そう教えてくれたのは叔父だった。キラウㇱが中学に上がった頃の会話だ。近所に住んでいた母の弟はその日、暗いうちから海に出てしまっていて、キラウㇱが生まれた時にも陸に戻っていなかった。
「お前が生まれたって電話が掛かってきたからよく覚えてるよ」
それを聞いてキラウㇱは首を傾げてしまった。皆がけあらしと呼んでいる蒸気霧の条件は二つ、快晴である事と、気温がとても低い事だからだ。まるで温泉の湯気のように波の上に靄がかかる、それを叔父が見間違える筈はない。
「ハポはあったかい日だったって言ってた」
なんとなく、母を庇う気持ちでそう言った。叔父の事は好きだったけれど、母を嘘吐きにしてしまう気がしたのだ。
「うーん、そうなあ」
叔父は困ったように優しい溜息を吐いて言った。
「お前が生まれて、それくらい嬉しかったんだろうな」
だからこんな事で泣くなよ、と言う叔父に、服の袖で目元を擦りながら「泣いてない」と返した。
今ならもっと色々な事がわかる。キラウㇱの生まれた病院から海は見えなかったし、外気の気温すら母は知らなかったかもしれない。それでも母は、キラウㇱが生まれて春のようだと思ったのだ。厳寒の地で暮らす人々が半年間待ち望んでいる春の始まり。雪の下に渦巻く生命も今か今かと芽吹きを待っている。
たかが三十年余り前の天気など簡単に調べられる。図書館になら当時の新聞だって残っているだろう。それでもキラウㇱはそうしなかった。代わりに、全部を信じる事にした。疑う事はない。キラウㇱは立春の、とても暖かくて、けあらしの出ている朝に生まれた。それが本当の事だった。
「ハポ、俺そろそろ仕事に行かないと」
身体に気を付けて、と言い合って電話を切った。画面に映し出された時計を確認する。手早くどんぶりに米をよそい、上から卵入りの味噌汁をかけて掻き込んだ。丁度良い半熟具合だ。
分厚いダウンコートを羽織って玄関の扉を開ける。春を予感させる強い風が吹き抜けた。