(恋を)しない、しらない/キラ門 靄の中を漂うような心地良い微酔から、その言葉は門倉の襟首を掴んで現実へと放り出した。
「門倉は恋した事ないだろ」
既に酩酊しているキラウㇱは頬を天板に押し付けて、今にも涎を垂れそうな間伸びした口調だ。舌の回りきっていない言葉に「おう」とか「うんうん」とか適当に返事をしていたせいで、どういった流れでその言葉が出たのかさっぱりわからなかった。けれどその断定したような物言いが妙に焼き付くので、門倉は凭れていた座椅子からぐっと身を乗り出した。
「そんなのわかんねぇだろ」
「俺にはわかる」
「馬鹿言ってんなよ」
キラウㇱはへらへら機嫌良く笑っている。立派な酔っ払いだった。「門倉、飲んでるか」と同じ台詞をもう十回は聞いた。床に転がった瓶のラベルには山廃仕込みと書かれている。常連客の一人が故郷の土産だと店に持ち込んだ日本酒だ。「門倉さんイケる口でしょ」と気前良く振る舞われたそれは酸味があって飲みやすかった。半量程まで減った瓶はキラウㇱに残され、どうせなら一緒に飲みたいと門倉の家に持ち込まれて、今に至っているのだった。
手洗いに立つついでに床から瓶を回収し、キラウㇱの為に水を汲んだ。すっかり力の入らなくなっている手から湯呑みを抜き取る。残っていた中身を呷ってから対辺に戻り、キラウㇱの髪が机に溢れているのを眺めた。恋。門倉にはしっくりこない言葉だった。しかしキラウㇱのあれは、仮にも身体の関係を持っている相手に言うような台詞だったか。随分だらしないところも見たし、見られたりもしているけれど、それはどうなんだ。友達だと思っている。それは大前提として、むらむらもする。触られれば気持ち良いし、今だって黒髪の向こうにあるむっちりした首筋に触れたいと思っているし。
「キラウㇱ」
名前を呼ぶと、キラウㇱはべろりと頬を机から引き剥がした。顔の火照りは引いているが目が完全に座っている。きっと自分も似たような顔をしている。
「じゃあ恋ってのはどんなもんなの」
「なんだ急に」
「お前が始めたんだろ」
数分前の会話も忘れているらしかった。恋か、ジジイが恋って、ふふ、ロマンチストだな、と目元をくしゃくしゃにして笑う。まぁいいかと諦めたところで声を張られた。
「恋はなぁ!」
「キラウㇱ、夜だからちょっと静かにな」
肩を縮こませて「すまん」と謝るのは少し可愛かった。どうせ周囲の部屋に人はいないが、酔いのせいか頭に響く。キラウㇱ自身もそうだったのか顔を顰めたり緩めたりして、酒臭い溜息を吐いた。
「寝ても覚めてもその人の事を考える」
ロマンチストはどっちだ、と思った。
「へぇ。仕事中も?」
「仕事中はあんまり考えてない」
「じゃあ嘘じゃねえか」
キラウㇱの熱く湿った手が門倉の指先を掴む。指の毛を撫で付け、弛んだ皮膚が捏ねられた。どろりと濁った目が門倉を見ている。
「少し嘘だ。でも隙間に考える。今日は来るのかとか、この味付けは好きそうだとか、なんで離婚したんだとか」
もう面と向かって告白をされているようなものだった。そのくせ当の本人は明日には忘れているのだから、これは随分と都合の良い吐露だ。こんなジジイやめときなさいよと頭では考えながら、みっともない自尊心が満たされていく。
「それからな、その人がどうしても欲しい」
返事を探しながらしばし見つめ合う。睫毛が今にも下瞼に触れそうな位置で揺れている。急にがくんと首が揺れ、キラウㇱの額が天板にぶつかった。弛緩した腕がずるずると引きずり戻されていき、肘から座卓の縁へ落ちる。掴まれていた指先の行き場がなかった。ヘアバンドがずれたのか先程よりも豪快に髪が広がっている。
「キラウㇱ」
名前を呼ぶ。
「キラウㇱ、寝た?」
深い寝息が聞こえる。
「それでお前は、その恋ってやつを、俺なんかにしてるって言ってんの?」
返事はない。
布団へ運ぶべきか考え、その労力を想像してすぐに諦めた。眠っている人間は重い。毛布の一枚でも掛けてやって、目が覚めれば布団に潜り込んでくるか、勝手に家に帰るだろう。
普段の甲斐甲斐しさ、凛々しさ、存外甘えたがりなところ、時折見せる荒々しさまで引っくるめて、可愛い男だと思っている。けれどこれは恋とは違うものだと、門倉は妙な確信を持っていた。本当はわかっている。キラウㇱの言う通り、恋をした事がないのだ。別れた妻にもついぞそんな気持ちは抱けなかった。父が愛読していた歴史小説の登場人物に憧れはしたが、やはりそれも違うのだろう。四六時中考えているなんて事もなければ、欲しいだなんてとんでもない。キラウㇱは、門倉には御せない獣だった。今は欲のままに触れ合っていても、いつか群れの中に帰っていくのであれば、門倉はそれを見送りたいのだ。
乾いてしまった湯呑みを手に立ち上がる。友情に性欲を混ぜ込んだだけで恋と呼べるような、そんな単純さだったらどんなにか。応えてやりたい。応えてやれたらよかった。酔いが引いて身体が冷えたのか、指先がぶるりと震えた。