赤ん坊ジャックの世話をするディーンの話「見上げた星は君への道標」 部屋中に響きわたる赤ん坊の泣き声に、胸が締め付けられそうだった。その子は、ただ生きるために泣いているようで。ディーンは構えていた銃を下ろすしかなかった。
サムが胸に抱き、懸命にあやしていたが慣れない手つきでは永遠に泣き止まないだろう。途方に暮れてサムまで泣きそうな表情でこちらを見つめるものだから、ディーンは持っていた銃を後ろに回しボトムスと腰の間に挟んでから歩み寄る。
「貸してみろ」
ディーンはサムが抱いている赤ん坊を覗き込んだ。ルシファーの子ども、と、一瞬身構えたがその子は顔を真っ赤にして泣き叫び懸命に何かに縋っている。手はディーンの親指を握るのがやっとなほど小さいし、泣き声に異質なパワーが宿っているわけでもない。普通の、人間の赤ん坊だ。ディーンの腕の中に移されると、まだ泣き続けていたが背中を優しく摩り続ければ絶叫から泣き崩れる声に変わる。
「よぉし、よし、お腹がすいてるんだな……」
柔らかく歌うような声でディーンが赤ん坊に語り掛ける。顔を上げ、サムを見やると少し驚いた表情でこちらを見つめる視線とかち合った。
「サム、この子にミルクが必要だ。きっと近くにあるはずだ」
ケリーは生まれてくる子のために様々なものを用意したと言っていた。サムは慌ててキッチンへ駆けたが、哺乳瓶と粉ミルクを手にあたふたしている。それを部屋の隙間から見つめていたディーンは溜息をつく。赤ん坊の泣き声はぐずっていたが、先ほどより随分とマシになった。ディーンは赤ん坊をサムに渡すと、手際よくミルクを用意する。ケリーは液体ミルクも用意していたので、ディーンは哺乳瓶に移し替え湯煎で温めた。サムに任せた赤ん坊は、子ども部屋から再び泣き叫ぶ。「ディーン!」と、サムまで情けない声で叫ぶものだから、哺乳瓶を持って急いで駆け寄った。
サムは哺乳瓶を持って現れたディーンを救世主のように称えた眼差しを浮かべる。ディーンはサムから赤ん坊を受け渡され人肌程度に温まったミルクを与えた。思っていた通り、空腹だったようで哺乳瓶に入っていたミルクは数分のうちにどんどん減っていく。
「ゆっくり飲むんだ、ほら……えぇと、」
ディーンはこの子の名前を知らないことに気が付く。
「ジャックだ」
サムは子ども部屋の壁に描かれた文字を見つめ答える。
「そう、ジャック。ゆっくりだ……」
腕の中でミルクを飲むジャックは目を閉じ呼吸を落ち着かせた。飲み終えるとジャックを肩に抱え直し背中を優しく撫でる。ゲップが出る息にホッと胸を撫で下ろした。
「……これからどうする?」
サムが慎重にディーンに問いかける。
正直、ディーンもどう対処すればいいのか分からない。ケリーは死んでしまい、カスティエルもまた――ディーンはまだ彼の遺体が玄関先の地面に倒れたままだと脳裏に過る。急に現実を突きつけられ、眩暈が起きそうだった。腕の中にいる規則正しい鼓動と温かく柔らかい存在がなければ、ディーンはとっくに怒りと虚無に襲われ何かに当たり散らしていたはずだ。経緯はどうあれ、生まれたばかりの赤ん坊を放っておくわけにもいかない。ルシファーの血を引いていようと、抱えている目の前の子は悪魔には見えない。
「分からない。けど、朝にはここを離れた方が良い」
ディーンはジャックから寝息が聞こえ始めるのを確認してからゆっくりとベビーベッドへ下ろした。ミルクを飲んで満足したのか、彼はしばらく起きなさそうだ。
「普通の赤ん坊だ」
ディーンはベビーベッドの中で寝入るジャックをジッと見つめる。
「……そうだね」
サムも安堵するように溜息をつく。
ジャックはディーンの指を掴んだまま離さない。ゆっくり離れようとすれば眉を寄せ小さな声を上げた。その様子を見つめるサムはクスリと笑みを浮かべる。
「すっかりディーンに懐いたね」
ディーンはサムを見やって眉を寄せたが、すぐにベビーベッドのそばにあるぬいぐるみを取り自身の指の代わりにジャックに握らせた。
「この子には親が必要だ」
「それって、僕らで育てるってこと?」
サムに指摘され、やっと自覚する。ディーンは赤ん坊のジャックを育てるつもりでいる。ネフィリムを孤児の施設に預けることもできない。かといって、ジョディたちに面倒を見てもらうことも憚れる。アマラの時の件がある。今は普通の赤ん坊に見えるが、今後どう変化して成長するかも未知数だった。
「ここには長く居られない」
ジャックが生まれたことは天使に知られただろう。
天使と悪魔がこの場所を突き止め、やって来るのも時間の問題だった。天使はネフィリムの抹殺。悪魔は地獄に迎え入れ第二の魔王に仕立てる気だ。そんなことは絶対に許さない。ジャックはケリーとカスティエルが信じた子だ。二人が亡き今、ディーンたちがジャックを守らなければならない。
ディーンは決意する。
「明日の朝、準備を終えたらすぐにジャックを連れてバンカーに戻るぞ」
後のことはそれから考える。
サムもその考えに賛成した。
二人は周囲に天使と悪魔除けの呪いを強化する。カスティエルの遺体をテーブルの上に運んでしばらく立ち尽くした。サムはディーンの肩に伸ばした腕を引っ込め、その場をカスティエルとディーンだけにして静かに部屋を去る。
玄関先の地面に焼け焦げたカスティエルの翼は骨組みが殆どで、最初に見た時より羽根は抜け落ちていたようだった。恩寵が少なくなっていたのは知っていたが、あのような形で羽根の量が激減していたのを目の当たりにすれば胸が締め付けられ苦渋に表情を歪めるしかない。
(あんなボロボロになるまで俺たちのそばにいたのか)
ジャックが生まれることに肯定的だったカスティエルを信じていれば、彼は死なずにすんだかもしれない。ディーンはどうしてもそう思わずにいられない。
(俺のせいだ)
生まれてくる子は必ずしも邪悪なものとは限らない。以前、悪魔と人間の間に生まれた子ジェシーを思い浮かべる。彼も普通の子どもだった。ただ、悪魔の力をコントロールできなかっただけだ。ジャックもいずれルシファーのような力が目覚めるかもしれない。だから、カスティエルは生まれる前から愛情を注ぎジャックを見守り正しく導くため傍にいたのだ。ケリーはカスティエルの本質を見抜きジャックを任せた。
もっと早く彼らに協力し援助すれば良かった。
ディーンは両手で顔を覆う。
そして、祈る。
いなくなった神に。
祈りというより悪態に近いそれは、無意味だと感じながらも懇願するのを止められなかった。カスティエルを、メアリーを、そしてクラウリーも。危機を脱した犠牲はあまりにも大きすぎる。
強く握りしめた掌は爪が食い込み血が滲んでいた。
濡れた目元を乱暴に拭い、窓にかけられているカーテンを引っ張る。カーテンレールから外れた布地を広げ、そっとカスティエルの上に覆う。これ以上、青白い顔をしたカスティエルを見ていられなかった。明日の朝、ハンター式の葬儀を行うことを決意する。
すると、子ども部屋からジャックの泣き声が漏れる。ディーンは駆け寄りベビーベッドを覗き込んだ。ぐずるジャックを抱き上げ、すぐにオムツを取り換える必要があることに気付く。
「よしよし、すぐに取り換えるから待ってろ」
クローゼットを開けると、そこには一生分のオムツが積まれていた。少し苦笑してから、ディーンは替えのオムツとベビーパウダーを手にしてジャックを寝かせる。手際よく取り換えている。ジャックの傍にいることで押し寄せる悲しみの重圧から逃れられるのはありがたかった。オムツを替えたことでご機嫌になったジャックは「ダァ」と声を上げる。ディーンは悲しみに表情を曇らせたがすぐに笑って見せる。
「俺はダッドじゃないけど、キャスの代わりにお前の傍にいるよ」
ジャックの鼻に、自身の鼻先をつけて囁いた。ディーンはジャックの瞳がカスティエルと同じ青なのに気付く。そして、不思議そうにこちらを見つめるジャックに、くしゃくしゃの泣き笑いに顔を歪ませた。
背後で開いていた扉からコツコツとノックする音が聞こえ、ディーンは顔を上げる。サムが濡れていたディーンの頬に気付き、ハッとする。
「ディーンは少し休んでて」
サムはそっと声をかけた。
「いや、俺も手伝う」
カスティエルとケリーの葬儀を準備するんだろ、と立ち上がりかけたがジャックが離れることを許さないかのように再び泣き出す。
「大丈夫だよ、ディーン……。しばらく休んで。異変がないか見張りする」
そう言って、サムは玄関に向かう。ディーンはジャックを抱きかかえると、優しく背中を撫で上げた。