眼差しの温度 売店で購入したドリンクカップがゆっくりと口に運ばれていく。
狙いすましてシャッターを切れば、被写体から遠回しな指摘が入った。
「今日はシャチを観にきたんじゃないのかい」
ファインダーを覗き込んでいたシェーンコップは対面に座る人物へ視線を戻した。
園内の広場に設置されたガーデンテーブル。そこで二人は軽めの昼食を終えたところだった。夏の名残を思わせる南風がやさしく頬を撫でていく。
九月に入り季節は一気に秋めいてきた。テルヌーゼンの気候は首都星に準じているものの、ハイネセンより四季の寒暖差が明確である。
少しだけ高くなった空を見上げれば、青く澄んだキャンバスに刷毛で薄くはいたような雲が広がっていた。つい最近まで半袖で過ごしていたというのに、今では早晩肌寒く感じるほどだ。
薄手のニットを着てきて正解だった。袖をまくったシェーンコップはカップに残っていたコーヒーを飲み干す。日中は若干汗ばむくらいでも、陽が落ちた帰路はきっと冷えるだろう。
人工ラタンの長椅子に腰掛け紅茶を啜るヤンも、白いTシャツの上に空と同じ色のシャツを羽織っていた。青と白のコントラストが秋の始まりに相応しい爽やかさを演出している。
素材の魅力を存分に引き立てるコーディネートは、もちろんシェーンコップが手掛けたものだ。
もう一枚撮っておくか。満足のいく出来映えに思案していると、視線を一心に受けるヤンが肩をすくめた。
「人が休憩してる姿をそんなに撮ってどうするんだ。さっきから私ばかり写して」
寄せられた抗議にシェーンコップは悪びれもせず答える。
「ウェンリー、おれが欲張りなのはとっくにご存知のはずですよ。あなたの笑顔や何気ない仕草、すべて余さず記録しておきたく思っておりますのでね。まして今はデート中だ。なにもベッドの中で撮っているわけでもあるまいし、それほど目くじらを立てずとも――」
「ストップ」
ヤンの左手が続く言葉を遮った。なめらかな頬に淡く朱が差している。伏せた睫毛がみなまで言うなと制していた。
どうやら軍配はこちらに上がったらしい。シェーンコップはすかさずカメラを構え、ほんのり色づく伴侶とその指を飾る己と揃いのリングを写真に収めた。
「しかし随分と本格的だね」
頬杖をついたヤンが、シェーンコップの手中で存在感を放つ趣味を見つめる。
「今はもっと簡単に撮れるだろうに」
確かに、記録するだけならばヤンの言う通りだ。今や携帯の端末にすら性能の良いカメラが搭載されている。液晶画面のシャッターボタンを押すだけ。それだけで手軽に撮影することはできる、が。
「そういった考えもあるでしょう。しかし」
レトロな一眼レフのカメラ。シェーンコップは長い指でゆっくりと黒いボディを撫でた。
「こだわるのもまた良いものでしてね。ファインダー越しのぼやけた焦点を合わせるとき、なにより写真を撮っている実感を得られるのです。何事も簡単に攻略できてはつまらない――媚びない女性が魅力的なのと同じことですな」
澄まし顔でウィンクをして見せる。
「そいつは何ともきみらしいね」
ヤンが眉尻を下げ相好を崩した。
ゴツゴツとしたフォルムのカメラには、今日一日撮り貯めたヤンの様々な表情が収められている。
群れをなして回遊する魚や、色とりどりの熱帯魚。珍しいクラゲを前に感嘆する姿はどれも愛おしく、シェーンコップは夢中でシャッターを切った。
「どうぞ、触ってご覧なさい」
カメラを受け取ったヤンが見様見真似でファインダーを覗き込む。
「どうです? 今そこにあるのはあなただけに見える風景です。まるで映画のワンシーンのようではありませんか」
「……本当だ」
カメラを構えたままヤンがゆっくりと身体を捻る。どうやら園内の外、遠くに望む海を映しているようだった。
「何気ない光景もレンズを通せば新たな発見があるでしょう。美しいと感じたとっておきの瞬間を、自分なりに切り取り残しておくことができる。それが、このカメラの魅力なのですよ」
「ああ……」
シェーンコップの説明を受けながらヤンは相変わらず海を見つめている。
眼前に広がる凪いだ海原。太陽の光を反射した水面があちらこちらで煌めき揺れている。たおやかな眺めは漆黒の瞳に一体どのように映っているのだろう。
ファインダーを覗くヤンの横顔に見惚れながら、シェーンコップはふと胸が締め付けられるのを感じた。
このひとが目を奪われている景色を共有したい。
(あなたが見ている世界を、おれも――)
切実な想いが込み上げる。
撮り方を教えて差し上げましょうか。そう口を開きかけたとき。
「これ」
ふいにカメラを離したヤンがシェーンコップへ顔を向けた。
「どうやって撮るんだい」
まるで見透かされたかのようなタイミングで乞われる。シェーンコップは思わず目を瞠った。
「私にも教えて欲しいんだ」
ヤンはいつになく真面目な様子でこちらを見つめている。
(もしや同じ気持ちを抱いていたのだろうか)
そう思うだけで、温かな南風がふわりと身体に流れ込んでくる錯覚にとらわれた。
「ええ――ええ、勿論ですよ」
心が浮き立ち、唇がおのずと弧を描く。
「まず、シャッターを半押しにしながらレンズのフォーカスリングを回します。被写体が明瞭になったところでシャッターを切るのです」
隣に座り、寄り添うように説明する。ファインダーを覗き込んだヤンがシャッターボタンに指をかけた。
「ええと、こうかな」
その瞬間。園内にアナウンスが響いた。
メインイベントとなるシャチのショー。その直前に行われる特別観覧の案内が流れる。
シャチは古代の地球に存在していた幻の海獣である。採取された化石の中から抽出した遺伝子により蘇った大型哺乳類は、白と黒で構成されたポップなビジュアルも相まり人気を博していた。
ショー自体は誰でも見ることができる。だが間近でゆっくり鑑賞するには別売りのチケットが必要だった。なかなか入手困難なそれを手にできたのは偶然にすぎない。
元々は、現在シェーンコップが籍を置くテルヌーゼン警察学校の同僚が所有していたものだ。しかし当人の都合がつかなくなったため「良かったらご家族とどうぞ」と二人分の券を譲り受けた次第である。
イルカやクジラといった海に生息する哺乳類を好むシェーンコップにとって、この催しは珍しいシャチを見られるまたとない機会だった。
「どうやら始まるらしいね。行こうか」
カメラをおろしたヤンが立ち上がる。
少々残念な気持ちを抱きつつ、シェーンコップも追って席を立った。
ショーが行われるスタジアムには観客たちが続々と集まっている。通称シャチプールと呼ばれる巨大な水槽を取り囲むように並んだ客席。チケットを持たない者が早々に陣取り、特別観覧後に始まるショーを今か今かと待っていた。
円形プールのなかでモノトーンの海獣が二匹、優雅に泳いでいる。遠目からでもわかる海の王者たる風格に、シェーンコップの胸は少年のように弾んだ。
「チケットをお持ちの方はこちらへ」
水槽の前でスタッフが手を挙げている。案内に従い観覧券を持つ人々が移動していく。シェーンコップも水槽へ足を向けた。
「ワルター」
数歩進んだところで背後から控えめに呼び止められる。振り返ると、ヤンがなんとも形容し難い表情で立ちすくんでいた。
「どうかされましたか」
足を止め、体ごと伴侶に向き直る。ヤンはしばし言い淀み、逡巡したのち呟いた。
「私は――いいかな」
「何故です? どこか具合でも……」
眼下の黒髪を見下ろし、シェーンコップは灰褐色の目を瞬かせた。
「違うんだ」
顔を上げたヤンが薄い笑みを浮かべる。
「……なんだか、圧倒されてしまってね」
「は……」
(まさか、怖いのか?)
尻込みするそぶりに言葉を飲み込む。
ヤンは宇宙船育ちだ。水族館を訪れるのは初めてだという、かつてのやり取りを思い出す。
図鑑で見るのと実物を目にするのでは訳が違う。想像よりも大きなシャチに恐怖を感じたとて不思議ではなかった。
「あれほど巨大な艦隊群を見慣れているのに、ですか」
かけた言葉に他意はなかったが、揶揄する口調に聞こえたらしい。
「それとこれとは別だろう」
ヤンの表情がかすかにむくれたものへ変わる。シェーンコップは思わず目元を緩めた。
誰にだって苦手の一つや二つあるものだ。せっかくの休日、無理強いはよくないだろう。
二人で暮らしていく人生の道行きは少しでも多く幸せな記憶で彩りたい。
そう信条を掲げるシェーンコップは踵を揃え、いつかのように敬礼を施した。
「では、小官単独で行って参ります」
「ああ」
ヤンがホッとしたように微笑み、シェーンコップが首から下げたカメラを指した。
「きみ、それ濡れるよ」
シャチが跳ねると水飛沫が高く上がる。
注意を促すアナウンスを思い出し、シェーンコップは首にかけていたストラップを外した。
「では持っていて頂けますか」
差し出された手に。
大切なカメラをそっと託した。
◇
「シェーンコップ特任教官」
デスク脇を通りがかった主任教官が、おや、と手元を覗き込む。
「行かれたんですか」
「ああ」
シェーンコップが眺めていたのは、先日ヤンと行った水族館の写真だった。
知らないうちに撮られていた一枚。
被写体は、青空の下ポケットに手を突っ込み巨大水槽を仰ぐシェーンコップだった。
背中に焦点が当てられているため、肝心のシャチは微妙にボケてしまっている。
だが、それが逆に良い味を出していた。
「なかなか雰囲気がありますね」
切り取られた一瞬に改めて目を落とす。
「だろう?」
ヤンがファインダー越しに見ていたもの。それはボルドーのニットを着た己の背だった。
慣れないカメラを構える伴侶の姿が脳裏に浮かぶ。
眼差しの温度が滲む写真に、男の目尻に刻まれた皺はさらなる深さを増したのだった。