旋律とレゾンデートル***
初冬の低い日差しが差し込む日曜昼過ぎの練習室は、十一月だというのに少し汗ばむくらいに暑かった。
この季節、札幌では考えられないくらいの気候だなと思いながら、一息ついて目の前の譜面に向き合い、ヴァイオリンを構え直す。
札幌での公演からスターライトオーケストラのレパートリーのひとつになった、バッハのヴァイオリン協奏曲第一番イ短調3楽章。セカンドヴァイオリンのパートを浚う。
星奏学院の菩提樹寮は歴史ある洋館で、中でもこの寮の天辺にある練習室は大きなガラス窓が美しい。天井が高いのでまるで小さなホールのように音も良く響くし、正統派クラシックを奏でるには雰囲気も持ってこいだ。まだこちらに来て日が浅く、慣れない横浜の地で数少ないお気に入りの場所でもあった。
笹塚と共にスターライトオーケストラに加わることを決めてから、本格的にクラシック漬けの毎日は、これまでに味わったことの無い音楽に向き合う日々でとても新鮮だった。
オーケストラ譜は、そもそもネオンフィッシュの楽曲とはまったく勝手が違う。ネオンフィッシュではソロで自分の色を際立たせて旋律を奏でるのが常だけれど、オケは多くの個性的な楽器や奏者との調和をはかり、自分の立ち位置を常に確認しながら曲を作り上げていく。相手をよく見て、相手の音をよく聴き、相手の気持ちを繊細に感じ取って。その過程は人を気遣ったり、立ち回ることが得意な自分には意外と向いているようにも思った。
とりわけ、スタオケではセカンドヴァイオリンのトップを担うことになったので、内声部を弾くのにこれまでの自分の弾き方を大きく変えるところから始めなければならず、ネオンフィッシュの打ち合わせや細々とした仕事の合間を縫って、こうして地道に練習をしていた。
幼少期、親が選んだ有名講師に師事してヴァイオリンを言われるがままに習っていた頃と、笹塚と始めたネオンフィッシュ。自分が知っている音楽の作り方はその二つだけだったから、思いがけずに飛び込むことになったこの一風変わったオーケストラでの今は活気があって楽しくて、悪くないと思っている。
笹塚もきっとそうにちがいない。そう思いながら、慣れない内声のパートをひたすら弾き続けた。
***
どのくらいの時間、練習しただろうか。いつのまにか陽ざしは少し西へと傾き、夕刻へいざなうようなあたたかい色を一段と増していた。仕事の電話がかかってくることもなく、他のメンバーが訪れることもなく、とても集中できた心地よい時間だった。
すごく満たされた気分で楽器を部屋へと置き、コーヒーでも飲んで一息いれようと談話室へ向かうと、いつも賑やかな場所は静まり返っていて、かわりに普段は寮の部屋にこもりがちな笹塚が珍しく、一人ピアノの前に座っていた。何か曲を弾くわけでもなく、手持無沙汰に探るようにいくつも音をまばらに鳴らして、少々難しい表情だった。
「珍しいな。アコースティックで作曲? 近々で締め切りあったっけ?」
独りになりたいのなら、そもそもここにはいないはずだから、邪魔にはならないと判断して声をかけると、笹塚はすんなりと鍵盤から顔を上げた。
「締め切りは無い。というか、しばらくは横浜に行くから案件は断るってお前が決めたんだろ。それと、アコースティックなのはただの気分」
「なるほど」
確かに案件は断った。ならば、趣味の範囲で何か作ろうとしているのだろうか。普段パソコンに向かって作曲することが多いのに、わざわざピアノの前に座っているということは、自分がそうであるように、横浜に来てクラシック漬けの日々が続いているからだろうか。このひたすらに我が道を行く男も、音楽に関しては意外と周囲の環境の影響を受けるのだろうかと新鮮な気持ちで見つめていると、笹塚の視線がまっすぐにこちらへ向いた。
「自主練、長かったな。二時間はぶっ通しで弾いてた」
どうやら音は最初から最後までここまで筒抜けで聴こえていたらしい。
「あ、聞こえてた? 俺って分かったんだ? って、パートで分かるか」
「パート以前に普段聴いてるんだから、まずスケール弾いてたって耳に入る音でお前だって分かるだろ。ていうか、弦変えた? あれ、ガット?」
「お、マジで? 気づいた? さすがだな。ここからしばらくオケだし、落ち着いた感じにしようと思ってさ」
音色はおろか、笹塚が張り替えた弦の種類まで聴き分けたことに心底感心していると、笹塚は一瞬目を眇めたあと、こちらから視線を外した。
「ふぅん……」
「え、」
その笹塚の反応に目を瞬かせずにはいられなかった。予想外の反応だった。なぜなら、これは興味がない「ふぅん」ではなく、あきらかにちょっと不満げな「ふぅん」だからだ。
こんな微妙な違いが分かってしまうのもどうかと思うが、一緒にいる間に息をするように読み取れるようになってしまったのだからもう仕方がない。
え、まさかガット弦がまずかった? たしかにガットは初めて使ったし、ガットかなりピッチ狂いやすいしな……などと、ぐるぐると考える。いや、それとも他に何か機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうかと思い、黒縁の眼鏡の奥にある真意をどうにか探ろうとする。
「笹塚?」
「……なに?」
「いや、なにじゃなくて……」
ここで、この態度の笹塚に対しては特段怒りの感情もわかない。むしろ、無意識に自分が気に障ることをしてしまったのではないかと思って落ち込んでしまうのは自分の悪い癖ではあるけれど、これはもう性分だから仕方がない部分がある。
でも、疑問があるのなら笹塚にきちんと尋ねればいいだけの話だ。以前ならまだしも、今ならばきちんとそう思えた。
「あのさ、」
笹塚に向き直ってそう言いかけた時、寮の玄関ドアが開く音がして、底抜けに明るい気配と共に、どこかに外出していたらしいコンミスが帰ってきた。
「おかえり、コンミス。出かけてたんだね」
「ただいまです。あ、仁科さん。今日練習室使うって言ってましたけど、大丈夫でした?」
まだ寮生活の勝手が分からない部分もあるから、彼女が率先して色々俺たちの世話を焼いてくれている。今日の俺の練習場所の確保がスムーズにいったのも彼女のおかげだった。
「うん、ありがとう。ばっちり練習できたよ。後でまた合わせてよ、朝日奈さん」
「もちろん、喜んで!」
片目を瞑って礼を言うと、彼女の顔にぱあっと明るい笑みが広がる。
コンミスが帰ってきたことにより先ほどの話は中断してしまったが、笹塚は彼女におかえりを言うでもなく、席を外すでもなく、そのままここに残ることを選択したらしい。ピアノの椅子にどっかりと腰かけたまま、俺と彼女の会話に参加するわけでもなくそこにいた。
そんな笹塚にももう慣れっこのコンミスは、あまり執拗に笹塚に絡むこともなく、こちらへ屈託のない笑顔を向けてくれた。
「でも、仁科さんがスタオケに入ってくださって一気にセカンドヴァイオリンに安定感が出たねってさっきも朔夜と話していたんですよ」
「そう? なら俺も嬉しいな」
お世辞でもなんでも、自分の音で彼女をこんなに笑顔にできているのであれば、とても奏者冥利に尽きる。
「仁科さんて、誰よりも他の人を良く見てますし、本当に気遣いすぎるくらい気遣ってますし、ファーストとヴィオラの間を取り持つセカンドは本当にぴったりですよね!」
「えー、買い被りすぎじゃないかな?」
「いえ! きちんと周囲の音を聴いて的確に合わせてくださるというか。私や朔夜が竜崎くんがどうしたいか、どうしようとしているのかをちゃんと見て、調整して弾いてくださってるのが分かるというか。それって、並大抵の観察力じゃできないし、ものすごいセンスと技術がないとできないって思います!」
コンミスがものすごく真剣に、照れるほどの誉め言葉をたくさん伝えてくれて、それはさすがに言いすぎだよなとむずがゆく思いながらも耳を傾けていると、しばらくピアノの前で重たい置物のように沈黙を守っていた笹塚が、唐突に口を開いた。
「当たり前だろ」
これが通常運転といえばそうなのだが、年下の女の子にふいにぶつけるには随分とぶっきらぼうで低い声音にぎょっとした。
「……待て待て、笹塚。なんで突然お前が答えてるの。しかもなんでちょっと威圧的? ごめんね、コンミス気にしないで。こいつさっきからちょっと機嫌悪いみたいでさ」
ごまかすように取り成したけれど、さすがは我らがコンミスというべきか、彼女はあまり気にした素振りもみせずに大きく頷いた。
「うんうん。笹塚さんの言う通り、仁科さんなら当たり前ですね! 本当に今や仁科さんなしではセカンドは考えられないですから!」
「コンミス……。ありがとう」
生来打たれ強いのであろう彼女の頼もしさに少し感動すると同時に、彼女がめげずに主張してくれたことに思いをめぐらせてみる。
オーケストラのセカンドヴァイオリンのトップ。たしかに、これはヴァイオリンを弾く上で、今までまったく担うことがなかったと言っていいタイプの役割だった。でも、いざやってみれば新鮮だし、なかなか奥が深くて面白い。
ヴァイオリン協奏曲は、独奏部を自由にのびのびと弾くコンミスがいて、それを支えながらファーストの高音域を確実に引っ張る九条くんがいて、高い技術で中間音域を整える竜崎くんがいる。弦楽器をつなぐようにそれを調和させる弾き方をするのは並大抵なことではないけれど、実際、やっていることは普段の人との付き合い方と何も変わらないなと思ったりもする。
「そうだね。セカンド、意外と得意みたいだし。初挑戦だけど、気に入ってるかも」
そう答えて笑顔を向けると、コンミスも嬉しそうに笑ってくれた。
けれど、彼女が継いだ言葉は自分にとっては、とても意外なものだった。
「良かった。札幌でスタオケにエキストラで入ってくださったときから、そんな風に思ってたんです。でも、だからこそライブハウスで『ネオンフィッシュ』の仁科さんの音を聴いたときはすごく驚いたんですよね。全然違うから」
「……?」
どういう意味だろう? と思わず首を傾げたが、彼女は妙に確信をもった顔つきだった。
「ネオンフィッシュだと、仁科さんは本当に気持ちよさそうに自由に歌うというか、個性的な音を出すんだなと思いました」
「ああ、そういう……。まぁ、必然的に俺だけが主旋律ってことが大きいけどね」
何を言われるのだろうかと構えてしまったが、予想できる範疇のことでほっとする。
が、コンミスはもともと大きな目をさらに大きく見開いて、やけにはっきりと言い切った。
「いえ、主旋律といえばそうなんですけど。私が言ってるのはそれだけじゃなくて。自由というか、奔放というか。心から開放されてる感じというか。あ、笹塚さんの曲だからですかね? というか、笹塚さんがいるからか」
「え……」
思わぬ方向からの投げかけにびっくりして、コンミスをぽかんと呆けた顔で見つめてしまった。
けれど彼女はこちらの様子などお構いなしで、実にあっけらかんとした感じで笑う。
「どちらが本当の仁科さんなんですかね? 実は、いつも仁科さんが笹塚さんのお世話を甲斐甲斐しくしているように見えても、ステージの上ではもしかしたら真逆なのかななんて思っちゃいました!」
「…………」
驚きすぎると、人間、意外と何も言えなくなるものだなと頭の片隅で妙に冷静にそう思ったというか――。
「えっ?」
――いやいや、コンミス唐突に何訳の分からないこと言ってるわけ?
戸惑いながらもそう思考を巡らせていると、ピアノの前の置物が再び思い出したように振り向いた。
「さすが、コンミス。あんたのその野生動物的な感覚は、あながち間違っちゃいないな」
しかも、その口調はなんだかちょっといきいきしている。
――なんだこれ。コンミスに対して微妙に失礼だし、しかもこのタイミングで会話に参加してくるのかよ、と内心ツッコミつつ、笹塚が賞賛したコンミスの発言を反芻する。
俺が、ステージの上では自由奔放で、むしろ笹塚に世話を焼かれている?
「はは、まさか」
自分に言い聞かせるようにして軽く笑ってみたところへ、こちらを見ている笹塚の表情が目に入る。その顔に思わず、え、と再び声が漏れた。
「なに、お前いつの間に機嫌なおったの?」
ふ、と片方の口端をものすごくわずかに上げて笑う笹塚を二度見する。同時にコンミスも横でぱちくりと目を瞬かせていた。多分、俺とは違う意味で。
「え。笹塚さん、さっきと今で機嫌違うんですか?」
「……はは」
コンミスのその気持ちは分からないでもない。というか、ごく普通の人間の反応だと思う。それくらい笹塚は分かりづらいと思うし、その微妙な変化が分かるのはきっと――俺くらい、なのだろう。
コンミスが部屋に戻っていってしまった後、再び談話室には俺と笹塚が残された。
バイトから帰ってきた成宮くんが練習室で自主練を始めたのだろうか、寮の中に今度はチェロの低音の力強く優雅な調べが響きわたっていた。
成宮くんらしい、少し複雑みのあるいい音だな、そう思いながら耳を傾ける。笹塚もこの音を聴いているのだろうか、それとも今この瞬間はそんなに興味はないのだろうか。相変わらず、ぱっと見はまったく変化が無いように見える横顔を眺める。
本当に、笹塚の機嫌がいいか悪いかなんて瞬時に見分けられるのは俺くらいだよなと心底思う。まあ俺も、じゃあ笹塚の胸の内をどれだけ分かっているかと問われたら、全然、分かっているうちには入らないのだろうけれど。
ただ、今この瞬間、笹塚の機嫌がとてつもなくいいということは分かるから――。
「で、なんで機嫌が悪くなって、また機嫌が良くなったわけ?」
ピアノの近くの椅子へ座って、笹塚を真正面からまじまじと見つめた。
薄茶色の瞳がゆっくりとこちらへ向く。
少し前までは、笹塚は自分にとって価値があるもの以外は何にも興味がないし気が付かないと思っていたけれど、笹塚も笹塚なりに彼の目で物を見て捉えて、きちんと感じ取っているということは、今なら分かる。ただ、わざわざそれを口に出さないだけで。
そして、俺がきちんと言葉にして尋ねれば、きちんと言葉にして返してくれるということも。
もちろん、希代の天才である笹塚創にそれを求めるのは少し勇気がいるけれど、笹塚創にとっての『仁科諒介』は価値がないものでも、見えていないものでもないのだと、今ならば少しだけ自信を持てるから――。
俺の視線をまっすぐに受けた笹塚の両眼が、一瞬、その問いの答えを探して細められた。
「さっき。お前が練習してた音聴きながら、メイン張らないオケのお前の音も悪くないなと思ってた」
意外な切り出し方に、少々面食らう。
「唐突だな。さっきのバッハ?」
「そうだ」
「ていうか、わざわざ横浜まで来て、オケでの俺の音が嫌いとか思われてたら普通に落ち込むんだけど」
いかにも笹塚らしい物言いとはいえ思わず苦笑したが、そこは華麗にスルーされ、笹塚は眉一つ動かさない。
「慣れなかった。当たり前だけど、スタオケの仁科の音はネオンフィッシュの音じゃないから。お前、いきなり弦までオケ用に変えるし。仁科の旋律が聞こえない」
たしかに、弦まで変えたのは少しやりすぎかなとも思ったが、思えば自分の中で明確にスイッチを切り替えるための選択だった気もする。
「今の俺はそういう役割だからね。期待された役割には全力でこたえるだけだよ」
笹塚の言い方が気にはなったが、自分にも言い聞かせるようにそう告げた。
すると、笹塚は思いのほかすんなりと素直に頷いた。
「分かってる。スタオケの音についてはそれでいい。お前がセカンドに入ったことで内声部のバランスが飛躍的に整う。最適解だ」
「だろ?」
自分でもその自覚はまあまああるし、コンミスだってそう言ってくれた。なら、笹塚は一体何が気に入らなかったんだと首を傾げそうになった瞬間、その答えはいとも簡単とでもいうようにさらりと明かされた。
「でも。仁科があまりにも仁科じゃないみたいで、このままネオンフィッシュの音が消えたら困ると思った」
「え……」
思わず、呆けた声が漏れてしまった。
「お前の音が、世界に一つのネオンフィッシュの音が消えたら困る」
もちろん、聞こえなかったわけじゃない。ただ、笹塚の言葉の意味が理解できなくて――正確にはその言葉に心底驚いて、聞き返してしまったのだ。
だが笹塚は、二度言った。『ネオンフィッシュの音が消えたら困る』と。
信じられなかった。ほんの少し前までは、いつか笹塚の方からネオンフィッシュを去ってしまうのではないかと、眠れないほどに怯えていたはずなのに。
世の中、本当に何が起きるか分からない。
実際、怯え続けていた解散も、自分の中の思い込みというか、完全なるコミュニケーション不足の行き違いだったといえば、そうなのだけれども。
でも――。
こんな、まるで宝物かのような言い方で、俺の音をたいせつにしてくれるなんて。
「仁科。聞いてる?」
「……あ、ああ」
笹塚の念を押すような強い口調に、ようやく我に返って返事を返す。
笹塚は頷くと、まるで自分の中にある感情をゆっくりと確かめでもするかのように、ふと顎に手を当てた。
「面白くなかった。オケは、仁科の個性が聴こえない。だからこれでいいのかって考えた」
「……お前」
それで、あの仏頂面か。コンミスにまで強く当たって。でも、それくらいに俺の音を求めてくれていること、俺の音に執着してくれているのだということに静かに胸が打ち震える。
分かりにくいまでも、こうやって感情を表に出して、伝えてまで。自分はなんて果報者なのだと思ってしまうくらいだ。
でも――。
「……それが機嫌が悪くなった理由なら、じゃあ良くなった理由は?」
たしかその間、5分もなかったはずだ。問いかけると、笹塚は「簡単だ」と言い放った。
「仁科らしい音を引き出せるのは、ネオンフィッシュだけだと証明された」
「……?」
相変わらず抑揚も無駄もない、淡々とした声で。相棒はそう言った。
「俺の作った曲と、俺の音がベースにある。だから、お前はステージでお前らしい音色を出せるんだろ。朝日奈が言うことは間違ってない」
さっき笹塚がコンミスを賞賛していた所以だ。自分でも、ネオンフィッシュのヴァイオリニストとしてしか出せない自分の音があるのは承知しているところでもある。
「まあ……、そうだよな。でも、なんでそれで機嫌がよくなるわけ?」
天才といわれる男の思考を紐解くのは容易ではないから、根気強く問いを重ねなければならなかった。
すると返された結論は、にわかには理解しがたいものだった。
「俺にしかできないことだから。俺の独占欲が満たされた」
「え?」
黒縁の眼鏡の奥を思わず、かぶりつくように見つめた。
けれど、その言葉の印象とは裏腹に笹塚の顔など実に涼し気なものだった。さらに、あろうことか笹塚はさらりと信じられないことを付け加えた。
「分析すれば、俺の感情は『スタオケに妬いていた』ってころだろ。俺だけの仁科だったのに」
「は?」
声が裏返るんじゃないかと思うくらい、強く聞き返したと思う。この男、何を言ってるんだ。訳が分からない。
自分はこの男にそんな執着を向けてもらえるだけの人間だったのだろうかと頭を抱えてしまうくらいには、まだ笹塚の思いを真っすぐに受け取るのに慣れてはいなかった。
けれど、当の相手は小憎らしいくらいに堂々としている。
「スタオケのセカンドを弾いたことで、お前らしい音色はネオンフィッシュでしか活かされないことが逆説的に証明された。それは俺にとって満足のいく結論だ。だからこれでいい」
「ちょっとまて笹塚。結論それ?」
得意げにそう言いきった笹塚に、そんな馬鹿な、とあんぐりと口を開けてしまう。
「結論だよ。俺しか、お前らしさを開放できない。傲慢だっていい。まぎれもない事実だ」
笹塚が、にやりと不敵に笑ったように見えた。と、それと同時にふっと笹塚の気配が一気に近づく。ピアノの椅子から立ち上がった笹塚が、目の前に屈んでいた。
なんだかやけに顔が近いなと思っていると、片方の耳朶に笹塚の唇が限りなく寄せられる。わずかな吐息も熱もじかに感じられるくらいに――。
「いくらでも、何度でも。お前を最高に気持ちよくさせてやる」
ふっと息を吹き込むように低い声が耳元に囁かれる。
「……ちょ、お前」
慌てて目を見開く。鼓膜を揺らしたその声の余韻に呼応するように、背筋がぞわりとわななく。思わず喉の奥から意図しない声が漏れてしまいそうな、自分の身体のその反応に恥ずかしくなって、全身が一気に熱くなった。
「……笹塚。ここはみんなで暮らす寮だから。人前ではちゃんと行動にも発言にも気を付けろよ」
もはや耳まで赤くなっているであろう顔を隠したくて、無駄な抵抗ではあろうけれども思い切りうつむくと、少し楽し気にすら聞こえる不遜な声が頭の上から降ってきた。
「生憎、わざとだ」
「だろうな……!」
上目遣いに、分かりづらくも緩んでいる笹塚の顔をにらみつける。けれど、笹塚はますます上機嫌になるばかりだった。
「新曲ができそうだ」
「……ほんと、唐突だな」
先ほどの機嫌の悪さなどどこへやら、すでに軽くメロディを口ずさみながらピアノの鍵盤に指を走らせる笹塚の背を眺める。
「お前のその反応、気分がいいから。そういう感じの曲。楽しみに待ってろ」
「あのな」
その反応って、どの反応だ。
俺が人権なくさないような曲にしてくれよ。
ひとたび曲ができ上がってしまえば、俺がその曲を弾かないなんて選択肢はないわけだから――。
そう苦笑しながらも、ネオンフィッシュとしての練習時間がまた増えていきそうだと思うと、楽しみで仕方がなかった。
ネオンフィッシュで奏でる音が、自らの存在証明のようになっていく。
早く、その音を鳴らしたい。狂おしく、愛しくたまらない高揚感が全身に満ちていった。