Colorless Color #0
無色透明。透明な水のようなヴァイオリンの音色だと思った。色のない、とても澄んだ。滔々と流れていく水のような音色。
まるで、アクアリウムの水槽を満たす水のようだ。色とりどりのライトで照らせば、無限に思い通りに色彩も雰囲気も変えられる水槽の水。
透明な音。癖のない音。無限に表情を変えられる音。
個性がないというのとは全く違う。高い技術の奏者にありがちな、変に主張めいた音色の出し方やこれみよがしな自我や癖がない。どこまでもクリアだった。
音楽以外で例えるのならば、思い通りの色を思い通りに乗せられる上質なキャンバスだ。乗せたい色を損なわない。
これが、自分がずっと求めていた音だと思った。
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明け方まで一睡もせず集中して作曲を続けていたから、授業に出席はしたものの、朝からずっとやる気が起きずに、ほぼ眠りの世界にいた。それでもいったん学校へ出てきてしまった以上、睡眠のためだけに家へ戻るのも面倒くさくて、午後は校内の人目につかない場所へ移動しようと思いついた。
ラザルス学院は自主性を重んじる自由闊達な校風だから、一年目からこんなスタンスでもギリギリどうにかなっている。成績さえ保っていれば、サボろうが眠りこけようが、あまり咎められないから便利なものだ。
制服の上に羽織りっぱなしのカーキ色のモッズコートのポケットに両手を突っ込み、生あくびを噛み殺しながら、校舎の最上階の端にある音楽室へと足を運ぶ。
この時間であれば選択制の音楽の授業もないことは調べ済みで、いつも通り少しピアノでも弾いてから仮眠をとるかと、階段を上る。さすがは高所得者の子息が挙って通う私立高校というべきか、音楽室のグランドピアノは普通なら気軽に弾けないようなレベルのもので、調律も寸分の狂いもないし、一人忍び込んで好き勝手に弾くのは好きだった。
音楽室へと続く階段は、午後の授業が始まっているということもあり静まり返っていたが、ようやく目の前が音楽室というところの踊り場へ差し掛かったところで、耳が普段はここで聴こえるはずのない弦楽器の音をかすかに拾った。驚いて、弾かれたように顔を上げる。
自分はかなり耳がいい方だから、普通の人間にその音がこの場所から聞こえるとは思わないが、音楽室に珍しく先客がいるな、と思った。珍しいどころか、入学してから数か月、これまでで初めてだ。常の自分の行動パターンならば、そこで踵を返すはずだった。誰かがいたら面倒くさい。いくら自分の方がこの場所をよく使っているとはいえ、積極的に他人と関わるくらいなら自分の当初の予定を変えてでも家に帰った方がいい。
そう思っていたのに。
音楽室の分厚い防音扉からかすかに漏れ聞こえてきた音に、一瞬すべての意識が奪われて、この世界に自分とその音だけが取り残されたように感じた。
ヴァイオリンの音色だ。
バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第二番第四楽章『ジーグ』。有名な第二番の終曲シャコンヌの前曲だ。重音が続くシャコンヌとは違い、単旋律で、厳かな音の並び。バッハの中でも好む曲だ。なぜ、この曲がこんなところで。なぜ、こんな音で――けだるい眠気が一気に吹っ飛び、思わず目を見開いた。
無伴奏の複雑な旋律を、なんて無我に弾くのだろうと思った。技術はかなり高いのに、まるで、自分はそこに存在する必要なんてないとでもいうような弾き方で、難易度の高い曲をさらさらと弾いていた。よどみなく、主張することもなく流れていく音。あまりにもの色の無さに、はっとするくらいだった。けれど、不思議と心地よい。
一体誰が弾いているのだろうと、訝しさに眉を寄せる。特に音楽系の部活動がさかんな校風ではないし、オーケストラや弦楽部があるわけでもない。
それなのに、誰が。
確認してみたい衝動に駆られたが、――いや、いつもの自分だったらすぐにでも乗り込んだのかもしれないが、でもこの旋律をずっと聴いていたい。この音を一音も漏らすことなくつかまえていたい。その思いが勝って、物音を立てないようにずっとこの曲が続くようにと願って、扉を隔てて息を殺していた。
けれど、次の瞬間。不自然に曲の途中でふつりと音が途切れた。ジーグは短い曲だから、あと少しできれいに終わるところなのに。心地の良い音は、急に虚空に投げ出されたかのようにあっさりと消え去ってしまった。
「……?」
何があったのだろうと、見ず知らずの奏者に対して不安になる。しばらくそっとドアに張り付いて再び弾き始めるのを待ってはみたが、待ち焦がれた瞬間は訪れなかった。
音楽と向き合っている人間の邪魔はしたくないけれど、湧き上がる焦燥には抗えなかった。消えてしまった音を求めるように、重たいドアに手を伸ばそうとしたそのとき。
中から、唐突に人影が飛び出してきた。扉の影にいるこちらの姿は死角になって見えないのだろう、視線をこちらにちらりと寄越すこともなく、その人物はスマートフォンを操作しながら、やけに慌てた様子で軽やかに階段を駆け下りていく。
その背には、色鮮やかな黄色の珍しいチェロ型のカーボンファイバーのヴァイオリンケースが背負われていた。そのまぶしい黄色の傍でひらりと揺れる赤い髪がやけに印象的に視界に残った。香水だろうか、彼が通ったあとの空気に艶のあるやわらかい匂いがふわりと香っていた。
「……派手だな」
自我を消したような透明なあの音色と、だいぶミスマッチにも思える奏者の雰囲気に思わずひとりぼやいていた。見た目はああでも、あんな音を出せるのだから、見かけによらない人物なのだろうか。
そんな思考を巡らせている間に、あっという間にあの音の持ち主は目の前から立ち去って行ってしまった。
ただ、その背を見送ることしかできなかった。本気で追いかけようと思えば、自分の足ならばすぐに追いつけたのだろうと思う。けれど、わずかな間のあまりにも鮮烈な印象に、珍しく情報が脳内で短時間のうちに処理しきれなかった。
あの音をもう一度聴きたい。あの音が、ほしい。それだけが思考を埋め尽くす。
もう一度、出会えるだろうか。出会えたら、必ずあの音を自分のものにしようと密かに思う。
これまで生きてきた中で、自分が音楽でスカウトを受けたことには多数の記憶があったとしても、自分からスカウトをかけたことなど一度もない。が、そこはどんな手段を使ってでも、どうにかするしかない。幸いにも、ターゲットは生活圏内にいる。
「ところで、あいつ、誰……? 同じ学年か?」
まあいいか。
同じ校内で、あれだけの目立つ見た目の男ならば、たとえ学年も名前もどんな素性かも分からなくとも、いずれたどり着けるだろうと思えばそこまでの焦りは生まれなかった。
あの奏者がどこの誰かなんて、あの音の前には些末なことだ。次に見つけたら、捕まえて説得して、絶対に自分のものにする。そう固く誓った。