One Identity#4
素肌の背の下に敷かれた固いシーツに大きく皺が寄った。
菩提樹寮の笹塚の部屋に備え付けられた簡素なベッドに両手首を押さえつけられ、半身で乗りかかられるような形で、もうどの位の時間が経ったのだろう。西日が射しこみ、夕暮れの赤い光が眩しく室内を満たす中、呼吸まで浚うような長いキスをずっと施され続けていた。
覆いかぶさった熱。身長は俺と同じはずなのに、がっちりとした恵まれた体格を存分に生かし、その腕の中にいともたやすく全身を閉じ込められてしまう。
二つの唇と舌が絡み合う湿った音と、せわしない息遣いだけが静まり返った部屋に響く。いくら人の気配が多くて騒がしい寮内とはいえ、声を出すことも、物音を立てることにも細心の注意を払わなければならないのに、ひとたびこうなってしまえばどちらも止めることができなくて、そのまま行為に及んでしまったことは、これまでにも何度かあった。
笹塚は一向に飽きることない様子で、熱心に舌をすくっては、弄るように絡め取る。甘く強く舌を吸われれば、くらくらと頭の芯が痺れるような感覚に襲われて、思考はぼんやりと蕩けていき、気持ちが良くて、ただ求められるがままに舌を差し出すことしかできなかった。
どちらのものか分からない唾液が、互いの口許を濡らしている。
熱く触れ合わせていた舌が離れる瞬間、引いた銀糸を舐めとろうとする笹塚の舌の動きを間近で目のあたりにして、背筋が甘くぞくぞくと震えた。
「……ん、笹塚」
思わず、もっととねだるような声が漏れてしまう。せつない吐息が、二つの唇の間でわだかまる。
そしてまた息を継ぎ足して、幾度も貪るように唇を重ねられていくうちに、唇も肌も、触れ合ったた場所がすべてみるみるうちに熱を持って体温が上がる。互いにもう服などとっくに脱ぎ払い、下着すらも纏っていなかったから、肌に触れる笹塚の身体の全てがただ熱くて。伝う汗が止まらなかった。
部屋の中にたちこめる熱気にさらに浮かされて、息が上がる。
「……仁科」
言葉紡ぐことを忘れてしまったかのように、つい今しがたまで熱く触れ合っていた笹塚の濡れた唇が、ようやく思い出したように音を発した。
「……ん?」
「好きだ」
笹塚の掠れた甘い声が耳元に囁かれる。この世でたった一人、俺にだけに向けられる、この世でたったひとつの音の響きだ。
笹塚が、キスや行為の前にも後にも「好きだ」とか、柄にもない甘い言葉を囁くようになったのはいつの頃だったかは覚えていない。
けれど、あの誤解が解けた夜明けを経て、笹塚の中で何かが変わったのは間違いない。その変化に気がついて問いかけた時、「絶対に喪いたくないから」だと、やけに真剣な眼差しでとても端的に告げられた。
笹塚は意外と思いが行動に現れやすいタイプで、普段から、『好きだから』『大切にしているから』――それの何が悪いとでも言いたげに俺に触れるし、そして、抱く。本当はもう、言葉なんかいらないくらいに笹塚の想いは理解ってはいるのだけれど、言葉を大切にする俺のために笹塚が起こした行動変容は、俺にとってはひとつの安心材料になっていた。
だけど最近は、その行動変容が板についたのと、元来の笹塚のストレートな性格も手伝ってか、もはやどこでも明け透けに俺への好意をあまり隠さないから、逆に焦る場面も多々あるほどだ。昼間のコンミスとのやりとりだって例にもれず、まさにそんな状況だった。
「……笹塚、お前さ」
間近にある笹塚の頬に触れて、額をくっつけるようにして視線を合わせると、笹塚がまだ熱を灯したままの両の眼を訝し気にきゅっと細めた。
「何?」
問いの形はあまりにも簡潔だけれども、その声音の中にはこちらを気遣うような優しさが混じっている。
笹塚が、俺の汗で張り付いた前髪に指先を静かに伸ばしてくるそのタイミングで、昼間からずっと気になっていたことを口にした。
「『水を得た魚』だなんて、よく人前でそんな恥ずかしいこと言えたよなって」
そのセリフからの、コンミスの目の前であろうことかの公開告白。コンミスだったからギリギリセーフだったようなものの、『無いと生きられない』だとか、『好きだ』とか。これでもかというほどに、他人の前でおおっぴらに言うには憚られる台詞を並べていた。
「朝日奈に言ったこと?」
「そう」
「なんで? 当たり前のことを当たり前に言って、何がいけないのか分からない。お前と演奏してる時が一番楽しいし、生きてるって感じするし。お前だって一緒だろ?」
前髪をやさしく払いながら笹塚の唇が近づいてきて、額にまぶたに軽く触れて離れていった。
「……なんだよ、その自信」
恥ずかしいくらいの熱量で、俺なら絶対に選ばないような言葉をまっすぐにぶつけてくる。間近で見つめてくる琥珀色の瞳は決して揺らがない。
「仁科が弾いてるときの顔や、音を聴いてれば、お前が口に出さなくたって俺には分かる」
「……あのな」
口に出さなくたって分かる、だなんて。まるで俺への当てつけみたいに言うものだから、思わず苦笑してしまう。
最近は、一見他人に興味が無さそうな笹塚の方が、周囲を良く見て観察しているし、気づくことも多いから、実は俺の方がから回りしているんじゃないかと思うときさえある。
まあでも、笹塚が面倒ながらも思いを言葉に出していく姿勢は、対「仁科諒介」限定なところがあるし、俺にしてみても、他の人間に対してなら思惑を理解したり、先回りして慮って無駄なく振舞えることが、対笹塚だと途端に分からなくなるのは――いや、慎重になってしまうのは。そのくらいその存在が大切で。いまだに、自分が「特別」に「選ばれている」ことがどこか信じられないからだ。笹塚がこんなに言葉も態度も尽くしてくれているのに、まだどれだけ求めるつもりなんだと時たま自分で呆れることもあるけれど、それくらい、些細なことでも重大に感じてしまう程、俺にとっての笹塚の存在というものは大きい。まぎれもなく、俺にとっても特別だ。
笹塚に出会ってから、こうして今までの自分では考えられないような不器用さや、ままならなさ、一つひとつ自分の包み隠さぬありのままの素直な心に向き合っていくことが増えた。そこに戸惑いはあるけれど、決してそれは嫌ではなかった。様にならないことが多いのは少し恥ずかしいけれど、格好悪くても情けなくても、笹塚に暴かれていく自分さえも知らない自分を知ることには喜びも感じている。
「仁科。お前は、俺に出会って変わったよ」
笹塚が俺の両頬を包み、相も変わらず真剣なまなざしで覗き込んでくる。俺の瞳の揺らぎも、ひかりも迷いも何もかも一粒でも見逃さないとでもいうように笹塚は喰らい付く。
「俺が見つけた。多分、見つけた瞬間から思ってた。特別だって。手に入れたら絶対に離さないって」
「……笹塚。本当にやめろ、超絶恥ずかしいから、死にそう」
あまりにものまっすぐさに、たじろいで視線を落とす。なんて自信家で、なんて優しくて、そしてなんて傲慢な男だ。だけど、その才能があるなら当然だとも思ってしまう。
気が付いたら、ふとした瞬間には己自信で踏み躙って潰して、見失いそうな仁科諒介という人間を、とんでもない強い力で当たり前に繋ぎ止めようと、守ろうとしてくる。最初は戸惑ったけれど、今ではもう日常茶飯事の出来事だ。
「ちゃんとこっち見ろ。どうせ二人しかいないんだからいいだろ。お前が少しでも自信で満ちるようにもっと恥ずかしいことを言ってやる」
「やめろって」
身を蹲らせて背を向けたのに、笹塚は俺の腕を掴み、自分の方へもう一度強引に振り向かせようとする。ぐっと笹塚の身体が近づく。笹塚の体温はまだ先ほどの余韻を残しているようで、汗ばんだ肌がぬるりと背に触れた。強引に抱き込まれると同時に、笹塚は熱い息を吹き込むように耳元でささやいてきた。
「姿が見えなくたって魅かれた。音に出会った瞬間に、惚れたってやつだ」
紡がれる言葉はどうしようもなく熱い。耳元から首筋に鼻先を滑らせていきながら、笹塚は熱っぽく謳う。
笹塚が、俺の存在を知ったのは学校でヴァイオリンを弾いていたからだというのは、出会ったばかりの頃、ユニットを組むことを誘われたときに聴いていたし、事あるごとに笹塚は言う。だから、言っていることに間違いはないのだろう。
それなのに、こんなにも熱を傾けてくれる恋人に毎度連れないことを言ってしまうのは、己に対しての根本的な自信の無さの表れでしかなかった。そして、それは時間や経験を重ねてもなかなか治らない悪癖だ。
「あのな、笹塚。それは思い出が美化されてるだけ。わざわざお前が何か特別に思うような音じゃなかっただろ。お前はプロの素晴らしい音なんて普段から飽きるくらいたくさん聞いてるわけだし」
笹塚の癖のある髪を撫でながら窘めるようにそう言い聞かせようとする。けれど、間近にある笹塚の眉間には、明らかに皺が刻まれた。
「……じゃあ聞くけど。お前は、世界一の美形モデルの顔にしか心奪われないわけ?」
「は? ……そういうわけじゃないけど?」
「だろ?」
突然勝ち誇ったような表情の笹塚を見つめて首を傾げる。というか、何だその例え。
たしかにお察しの通り、世界一とまではいわなくともモデルといっても十分通用しそうな目の前の男の顔に心奪われてはいるが。笹塚の良さは唯一無二というか、べつに彫刻のような完璧に絶世の美男子じゃなくたって、俺は笹塚がいいわけなのだけれども――。
「? ……なるほど? そういうこと?」
そういうことだといえば、そうなのだろう。たとえ世間一般で万人がもてはやすものではなくても、自分にとってはなくてはならないもので、どうしようもなく好きで。惹かれて止まないもの。
笹塚がふっと不敵に口端に笑みを掃く。笹塚らしく、迷いのない強い視線に射貫かれる。
「お前のヴァイオリンを聴いたとき、一瞬で分かった。俺には必要だって。じゃないと、名前も知らない一人の人間をわざわざ追いかけるなんて面倒なこと自分がするとは思えない。一目ぼれとも表現できるな」
まあ普段の笹塚の思考と行動を考えるに、あの時、笹塚に校内で突然声を掛けられたことを思い返せばまさに天変地異もいいところだ。名前も学年もよく知らない一人の生徒を、学校もサボりがちな笹塚が数日も校内で懸命に探していただなんて。執念深く追いかけようとしていただなんて。考えただけでもちょっと笑えるし、その特別感がこそばゆい。
「いや、でも俺に一目ぼれってのは言いすぎだよな。お前が言うには『音』を探してたんだろ」
初めましての一言が『その音、欲しいんだけど』というのは、人生でもなかなかインパクトのある出会いの部類だと思う。音楽を真剣にやっているわけでもないし、特に自分の音に価値なんて見出していない自分は、耳を疑わずにはいられなかったのだから。
「まあ、確かに『音』とは言ったけど。俺が欲しいと思った音を出してたのが仁科だったんだから、仁科を探して追いかけてたことにはなるだろ」
当の本人にしてみればそこに大した差はないらしい。が、今思い返してみても、出会いの瞬間の声の掛け方は、音を出せる人間ならば誰でもいいんだと十分に思わせるようなアプローチだったと思っているし、その認識のギャップを埋められずに一度は離れることも覚悟したのは、決して遠い過去の記憶ではない。
「そういうもんか……? コンミスも言ってたけど、お前って発言と行動が情熱的というか極端だよな。まあいずれにしろ、俺じゃなくて俺のヴァイオリンに対してだな」
「ヴァイオリン込みの仁科」
「……は?」
ぼそっと、でも当たり前のように強くきっちりと訂正してくる笹塚を少し可愛いだなんて思ってしまう、
「なんだよそれ。『誰でもいい』って言ったの、忘れてないからな」
いいかげん、しつこいにもほどがあるとは思いつつも、その言葉に少なからず傷つきながらも、笹塚との関係を割り切ることもできなくてもがいたあの時間を思い出せば、根に持つのも仕方がないと思ってほしい。
「それも、言ったろ。あの時点で、あの音を奏でてるのがどこの誰かなんて関係なかった。どこの誰だとしてもあの音を手に入れる。そういう意味だけど。今は、あの音を奏でる誰かじゃなくて、あの音を奏でるお前がいい」
何のためらいもなく笹塚が言う。
きっと、二人きりじゃなくたって、皆の前でだって少しの照れも迷いも見せずに、やはりまったく同じことを言い放つのだろう。
「……笹塚」
それだけ、自分たち二人の間に積み重ねた時間がある。俺が気づけなくて、見えなかった時間も含めて。恋人同士になってこんなに絆されてしまっても、音を込みで俺がいいと言ってくれることに、奏者としても大きな喜びを感じる。
「ありがとな」
自分のヴァイオリニストとしてのアイデンティティは、笹塚の存在によってのみ成り立つ。笹塚の曲があるから、笹塚の音があるから――だからヴァイオリニストの仁科諒介は存在する。
いくら奏でることが好きだとしても、弾き続けて輝けるのは一握りだけのこの世界。ヴァイオリンで生きていきたいなんて思ったことはなかったし、この先もヴァイオリンを弾き続けていけるなんて思ってもみなかった。笹塚に出会う前は、自分の奏でる音に価値を見出したことも一度だってない。ただ惰性で弾き続け、離れることものめり込むこともできず、弾いている意味も分からずに、このまま自分はどこまで弾き続けるのかもわからなかったけれど。笹塚に出会って初めて、自分の音が輝ける場所を知ることができた。初めて、ヴァイオリンが好きなのだと気が付くことができた。
自分の音が、彩りに溢れて輝いて、誰かに求められるものになることができるということも、笹塚に出会って初めて知った。
こんな幸福を知ってしまったのならば。これを手放すことなんて、簡単にできるはずがない。
いつもすぐ隣にある、圧倒的な才能の前に怖くなることもある。自信がなくなることもあるけれど。でもネオンフィッシュの曲を弾き続ける間は、特別な自分でいられるから――。
「これからも頼むよ、相棒」
手を伸ばして、笹塚のやわらかな髪をくしゃりと掻き撫でて、旋毛にやわらかくキスを落とす。どこまでも自分を求めてくれる唯一無二の存在に、祈りをこめるようにそう告げた。
けれど、当の相棒は少し不満げに眉根を寄せる。
「そこは今の場面なら、相棒じゃなくて恋人だろ」
「……ええ」
そここだわるところなの? と言いかけたところを、声に出す前に笹塚の手にすかさず顎を持ち上げられて唇をしっかりと塞がれた。離さないとばかりにこめられた力の強さとは裏腹に、笹塚のキスはとてつもなく優しかった。
唇同士が甘く重なって、さっきよりも長くゆっくりと穏やかに触れる。いつもなら、唇を触れ合わせた後は甘噛みされたり、舌を差し出すように促されてキスが徐々に深くなっていくのに今は違った。二度、三度と唇を重ねられても、やさしく表面だけに触れて、浅く擦り合わせるようなやり方がもどかしくて、じれったい苦しさに息が震える。
「……焦らすなよ」
顔を近づけて上目遣いに少しにらむと、笹塚は無言で、ふっと何故か得意げに口端を上げて笑う。
「お前さ、基本優しいくせに時々Sっ気出してくるよな」
「最高の誉め言葉だな」
笑みを残した笹塚の唇が、首筋に、鎖骨の窪みに胸の頂に丁寧に下りて行く。
時折、琥珀色の瞳が煽るように熱のこもった視線を寄越すものだから、それを目にするだけで、また理性を手放して、あっけなく欲に溺れてしまいそうだった。全身にキスの雨を受けながら、時折、肌を強く吸われて歯を立てられて、赤い痕を残されていくうちに、身体があっという間に熱を帯びて上り詰めていく。声を堪えるのにも必死だった。
こうやって、行為の中で与えられる一つひとつの吐息も、視線にも仕草にも、笹塚が向けてくれる「特別」が溶けこんでいる。それを思うだけで全身が幸福の海に揺蕩うような感覚だ。自分らしく呼吸ができる。心地が良い、自分の存在が許されることを強く感じる場所。笹塚の隣は、まぎれもなくそういう場所だ。魚があたたかく安全な水の中を、どこまでもすいすいと自由に泳ぐように――。この先もこの熱を分け合いながら、互いの存在が互いにとって、そう在ることができるように。手離したくないと切に願う背を、両腕にありったけの力を込めて抱きしめた。
end.