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    紫垣🐠

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    紫垣🐠

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    笹仁/星空のアクアリウムOP.2 展示作品

    スタオケ加入後の二人のお話。ナチュラルに付き合ってます。
    ※コンミス出ます
    後日談は近日中に公開予定です。
    『GRADATIONS』
    #0「Colorless Color」から続いています。
    「like a FISH in water」に続きます。

    #笹仁
    sasahito

    Colored Notes#1

    「コンミスが俺たち二人に用事ってなんだろうな」
     眠たげな眼で隣をのそりのそりと歩く笹塚に声を掛けると、眼鏡の奥が唐突に思い出したように、剣呑な目つきになった。
    「……むしろ俺はさっきの全体錬の時のカデンツァに対して、朝日奈に言いたいことたくさんあるけど」
    「あのな。それは一ノ瀬先生からも、まずパート練に持ち返るって話になったただろ。蒸し返さずに今はコンミスの話をよく聴けよ?」
    「善処はする」
     スターライトオーケストラに参加することを決めて、笹塚と共に札幌と横浜を行き来するようになって数か月がたち、短期間での長距離移動にもようやく慣れて、週末は横浜で過ごすことが当たり前になってきていた。土曜日の今日も朝から横浜入りをした後、木蓮館での合奏練習を終えて、菩提樹寮へと向かう所だ。首都圏での拠点がスタオケ加入と同時に自動的に確保されたのは、笹塚と俺にとっても有難い話だった。
     寮生活は賑やかで、これが日常だったら大変だなとも思うけれど、週末寮生はいいとこどりで意外と気に入っている。何だかんだでオケのメンバーとの交流も多い。
     今日も、『寮に戻ったら少し時間をいただけませんか?』と、笹塚と一緒に練習終わりにコンミスに呼び出されていた。
     二人とも一応弦楽器パートとはいえ、二人揃って改まって呼び出されるのはとても珍しいことだった。不思議に思いながらも、面倒くさがる笹塚を強引に引っ張りながら寮のラウンジへ向かうと、すでにコンミスが俺たちを待ち構えていて、目が合うなり大げさに拝み倒すようなポーズで、一つ新鮮な依頼を受けた。

    **


    「へえ。笹塚がコンミスと一緒に演奏か。いいんじゃない」
     コンミスが笹塚と俺を呼び出したのは、一週間後のコンサートで、急遽ヴァイオリンとピアノ一台ずつの小品演奏の依頼が来ているので、笹塚にピアノ伴奏として付き合ってほしいと伝えるためだったようだ。
     コンミスのヴァイオリン指定でオファーが来ているということで、ピアノを一ノ瀬先生ではなく笹塚にというのは、どうやら学生デュオでというオーダーがあるらしい。音楽科の生徒に頼むよりも、スタオケに来た依頼ならばスタオケメンバーがいいだろうということで笹塚に白羽の矢が立ったようだった。一ノ瀬先生に、笹塚に依頼しておくように頼まれたということで、今この瞬間のコンミスの必死のお願いポーズにつながるというわけだった。
     依頼の内容としては、ネオンフィッシュではなく対笹塚個人に対するものになるだろうから、本当はこの場にいるのは笹塚一人でいいのだろうが、コンミスが俺も一緒に呼び出した意図は推して図るべしというところだった。
    「はい。ヴァイオリンとピアノのデュオとしてお付き合いいただければというお願いなのですが……」 
     超低姿勢のコンミスのお願いにも、笹塚は「ふうん」と頷いたまま、ほぼ無表情だった。興味があるのか、ないのか分かりづらいのはいつものことだ。
     必死なコンミスに、悪気はないといえども笹塚の態度が申し訳なくなってきてしまって、努めて明るい声で「面白いよね。笹塚、手伝ってあげなよ」と合いの手をれた。今の笹塚の反応からして、多分、最終的には受け入れそうだなという感触をもったからというのもある。俺の言葉に、笹塚はこちらを見て、一瞬の間のあとこくりと頷き、コンミスは明らかにほっとした表情を見せた。
    「ありがとうございます! 良かったぁ。では、曲目はこちらで好きに決めていいという話なのですが、曲数は決まっていて……」
     ならば、わりと自由度は高そうだなと判断する。こういう依頼の成功のカギは笹塚の気分が乗るような曲を選べるかどうかだから、これならどうにか形にはなるだろう。
    「ちなみに、コンミスは何をやろうと考えてたの? 順当にヴァイオリンソナタとか?」
     笹塚もコンミスもお互い有名曲のレパートリーはあるだろうし、すり合わせは難しくはないだろう。すると、コンミスはよくぞ聞いてくれたとでもいうように目を大きく見開いてこちらを見た。
    「それが、ジャンルも任せるということらしいんです。で、考えてみたのですが。ヴァイオリンとピアノのデュオってことですし、笹塚さんのご協力を仰げる珍しい機会ということで、一曲はネオンフィッシュの曲をお借りできませんか?」
     コンミスの提案に、なるほど、と目を丸くした。ならばここに二人揃って呼ばれたのはより納得度が高い。
    「え。それは新鮮だよね。えーと、コンミスが弾くなら何がいいかな……」
     同じオーケストラのヴァイオリン奏者でも、俺とはまったく違うタイプの彼女が弾くのなら、ネオンフィッシュのいつもの曲はどのように仕上がるのだろう。それには純粋に興味があった。ただ、笹塚がネオンフィッシュの楽曲として作る曲は、決して奏者が弾きやすいように書かれてはいない。むしろ奏者というか、俺に挑戦状を叩きつけているんじゃないかレベルの勢いの曲も多いので、一般向けかといえばそうではないし、運指も俺の手や癖で弾きやすいように適当に決めているから、曲は慎重に選ばなければいけないと思う。
    「うーん、コンミスが弾くなら年末ライブハウスのアンコールで弾く用につくったあの短い曲とか……」
     譜面を思い浮かべつつ、テンポもゆったりめだし、素直な曲だ。よし、あれだな思い、スマホにデータで入れてあるスコアを見てもらおうと開こうとしているところへ、笹塚の低い声が俺の思考を唐突にぶった切るように遮った。
    「無理だな。朝日奈はネオンフィッシュの曲は弾けない。だから貸せない。でもデュオの協力はする。それでいいだろ」
    「えっ」
     コンミスがあからさまにショックを受けたという表情で、笹塚を縋るように見る。無理もない。
    「おい……笹塚」
     何か意図はあるのだろうが、見るに見かねて口を挟もうとすると、常日頃から転んでもただでは起きないコンミスが勢いよく顔を上げた。
    「弾けます! 弾けるように今日から特訓レベルで練習しますし! そりゃ……仁科さんと今すぐ全く同じようにとはいかないかもしれないですけど」
    「……コンミス」
     ちらりと遠慮がちにこちらを見るのが気の毒で、なんとしても手助けしたくなってしまう。けれど、作曲者の大先生は首を縦に振らなかった。
    「それじゃあ、ネオンフィッシュの曲をやる意味がないだろ」
     にべもない返しに、コンミスがうっとうめいて項垂れる。あーあ、と思って声を掛けようとした瞬間、珍しく笹塚が自ら提案をした。
    「じゃあ、今から曲つくるのは?」
     思いがけない投げかけに、直接は関係のない俺すら驚くのだから、コンミスの驚きはいかばかりだろうか。大きな目をさらに大きく見開いていた。
    「え。私とのデュオ用にですか? でも、あと一週間で? 作曲してもらって、そこから弾き込んで練習までできますかね? ちょっと心配ですが……主に私が」
    「十分だろ。できる。仁科はいつももっと短時間でやってる」
     ええ……とコンミスが涙目になるのも無理はない。というか、手に取るように気持ちが分かる。
    「あのな笹塚。言っとくけど、それは俺も無茶を言われて最大出力でやってるんだからな」
    「でも、できるだろ」
     可能だと信じて疑わないまっすぐさ。結果さえあればどうでもいいかのような何とも不遜な態度に、これは、これまで相方としてなんでも無理難題を聞いてやりすぎて育て方を間違ったかなんて、時折頭を抱えたくもなる。
    「そんなこと言ってたら、お前と組めるのなんて本当に俺ぐらいしかいなくなるぞ」
    「お前意外と組むつもりないし、別に他はどうでもいい」
    「お前な」
     どうでもいいって、目の前にたった1回でもこれから一緒に組む予定の奏者がいるのだから言葉にはどうか気をつけてほしい。
    「……はあ。ごめんね、コンミス。前提として、俺は相方としてやりたいから無茶してでもやってるし、俺達みたいにずっと一緒にやってて、阿吽の呼吸で分かるのと初めて笹塚と合わせるコンミスじゃ何もかもが違うからね」
     ちらりと笹塚を見ながら、コンミスにフォローを入れる。コンミスは素直にこくりと頷いた。
    「大丈夫です。分かってます」
     いい子だなあと思って、コンミスの頭を思わずぽんぽんと撫でてしまう。そして、最大限彼女の力になってやるべく、いまだ頑なに曲を貸すことに抵抗している笹塚に向き直った。
    「ほら、笹塚あれは? 去年夏のフェスのとき数日で作曲して演ったやつは? あれなら比較的癖がないし、明るい曲調がコンミスっぽくない?」
     あの曲も比較的素直な音運びだし、映える曲だし気に入っている。何よりコンミスに似合いそうだし。
     笹塚に懇願の意味も込めて小首をかしげて見せたが、黒縁の眼鏡の奥は、はっきりと、ノーと言っていた。
    「……だめか?」
    「難しいな」
     検討の余地もなく跳ね返されて、コンミスと二人でがっくりと肩を落としていると、笹塚はこれみよがしに大きなため息をついてコンミスを見た。
    「スタオケのコンミスとして依頼が来てるんだから、ゴリゴリのクラシック。ヴァイオリンソナタがいいだろ。有名どころがいいんじゃないか。ベートヴェンのスプリングソナタとかクロイツェルとか。あんた、弾けるだろ」
     どちらも超有名な曲なのでコンミスも心得があるようで、はい、とすぐに頷いた。
    「……ベートヴェンが気分なの?」
     圧倒的にバッハ好きな笹塚にしては珍しいなと思いつつ尋ねると、笹塚は直前まで合っていた視線をふいとそらした。
    「そういうわけじゃない。ブラームスでもモーツァルトでも歓迎だけど」
    「? 意外と節操ないな……。まぁ、いずれにしろある程度は練習必要になってくるよな? オケの方もあるけど……」
     譜読みはできている曲だから合わせるだけとは言えど、普段とは違う立場で合わせる二人がすぐに曲を完成に持っていけるとも思えない。
    「じゃあ、スプリングソナタにすればいい。主題のかけ合いも見どころだし、ヴァイオリンもピアノも難易度は低いだろ」
     笹塚の提案はもっともにも思えた。
    「……コンミス、いいの?」
    「私は問題ないです。難易度的にも無理はないですし、好きな曲ですし。でも他にも……」
    「練習期間が短めでいけて、あんたの音で映えそうな曲をあんた用につくる。それでいい?」
     コンミスが言いづらそうに遠慮して言いよどんだことを、珍しく笹塚が察して先回りした。一応、さっきの罪滅ぼしの気持ちはあるのかもしれないなと思う。
     笹塚の提案に、出だしからずっと浮かない表情続きだったコンミスの顔にぱっといつもの笑顔が戻った。
    「笹塚さん本当に作ってくださるんですか?  贅沢! 本当にいいんですか?」
     ものすごく楽しみです! とコンミスは一転してやる気に満ち溢れていて、そのくるくる変わる表情が、まるで幼い子どものように可愛らしくて思わず目を細める。
    「良かったね、コンミス」
     笹塚が作る曲を演奏できる特別感と高揚感は、俺にもすごく分かるところだからコンミスに人一倍同調してしまう。
     コンミスと二人でひとしきり喜んでから笹塚をふと見ると、もう曲作りのことを考えているのか、ヘッドホンをつけてタブレットをいじり始めていた。
     



     #2


     笹塚がカタカタとパソコンのキーボードを打ち込む音が心地よく鳴り響く。
     ここが札幌のアジトだったら、これにアクアリウムの水槽から聴こえるエアレーションのポンプ音が混じっていて、静けさの中に混じり合うその二つの音が何ともいえないほど好きなのだけれども、ここは横浜で菩提樹寮の笹塚の部屋だから、他に聴こえてくる音は寮の誰かの話し声や生活音、複数の人の気配だ。それに時折、誰かが楽器を奏でる音が混じる。
     そのうち、コンミスのスプリングソナタの練習も聴こえてくるんだろうなと思うと、自然と笑みがこぼれた。笹塚のピアノと、コンミスのヴァイオリン。二人が奏でるスプリングソナタも新曲も楽しみだよなと思いながら、スマホのスケジュールにコンサートの予定を入力する。
     札幌でもそうであるように、菩提樹寮でも笹塚が作曲をしているとき、特に自分の用事がなければ笹塚の部屋にいることが多い。 何をするわけではないけれど、なんとなくそれが自然で、たまに笹塚がコーヒーを飲みたいなどと言えばすぐに世話を焼いてやるくらいの役には立っているはずだ。
     様子を見守っていると作曲は順調なようだった。キーボードを打つ音は止まることなく、淀みない。そんな中、笹塚がデスクの傍らのペットボトルに手を伸ばし、水を呷り一息をつくタイミングで、「そういえば笹塚」と背後から声を掛けた。
    「忘れないうちに言っておこうと思ってさ」
     呼びかけると、なに、と作業中にも関わらずわりとしっかりとした声で返事が返ってきた。
    「さっきのコンミスへの言い方。もうちょっと優しくしてやれよ。いくら打たれ強い人間でも、傷つかないわけじゃないんだからな」
    「……分かってる。でもお前がフォローしてくれるだろ」
     そりゃそうだけどさ、俺のフォローを前提にするなよと苦笑してしまう。
     でも、どうしてあんなに頑なにネオンフィッシュの楽曲を貸すことを拒んだのかと、少し首を傾げてしまう。だからこそ今、予定にない作曲に急遽手を付け始めているのだけれど。天才の思考回路は本当に理解が難しい。
    「あと今更だけど、突然曲作るなんて無茶引き受けて大丈夫だったのか? 練習だってするんだろ」
     そう言うと、笹塚の眉間に少し皺が寄った気がした。一応、忙しい相方を心配をしているわけで決して小言を言いたい訳ではないのだから、その態度はどうなんだと思ってしまうが。笹塚は、こちらの思いも知らずか小さくため息をついた。
    「あの曲なら練習なんてたいして必要ない。曲だってすぐ作る。問題ないだろ」
    「まあ、コンミスがものすごく喜んでたからいいけどさ」
     そう言うと、眼鏡の奥の笹塚の目つきがまた一段と悪くなった。
    「仁科」
     そう低い声で呼びかけて、笹塚がパソコンの前から立ち上がる。
     曲を作っているときに席を立ってまで中断するのは珍しいななどと思っていると、笹塚にぐいと腕を引っ張られ、ベッドサイドに連れていかれる。寮は札幌の部屋のように広くはないし、ソファもないから部屋にいる時はベッドがソファ代わりのようなものでもあった。笹塚がどかりと腰を下ろした隣に座るように促され、そのまま隣に腰かけた。笹塚にしては珍しい行動だけれど、最近、横浜で二人できちんと話をしようとするときにたまにあることだった。
     何を言われるのかと身構えた瞬間、笹塚の視線がまっすぐにこちらへ向く。顔が近い。その間近にある強い視線から逃れられなくて、思わずたじろぐ。
     笹塚はいつもよりも低い声で、実に深刻な様子で告げた。
    「――俺は。お前があんなにも簡単に俺たちの曲を朝日奈に弾かせようとしたことが心外なんだけど」
    「……え」
     これは怒ってるなと思いつつ、でも笹塚がここまで感情を表に出すその理由を分かったふりをするのも良くないと思ったから、このまま自分の意見を述べてみることにする。
    「でも他でもないコンミスが弾くなら、笹塚だってちょっと聴いてみたい気がしない?」
     すると、笹塚の眉間にまたさらに皺が寄った――と思ったら、盛大に呆れ果てたような吐息が笹塚の口許からこぼれた。
    「ネオンフィッシュのヴァイオリニストは、お前一人だけだろ」
    「そりゃ、そうなんだけど……」
     たしかに突発的な企画とはいえ、笹塚とのデュオといういつもの自分の立ち位置に、誰か他のヴァイオリニストが入る怖さというのはもちろんある。実力がある人間なら尚更だ。自分の足元が揺らぎやしないかと怖くなる。でも、コンミスの場合はそういうのではなくて。かわいい妹に希望通り少し世話を焼いてやるくらいの感じで。
     もちろん、見ず知らずのヴァイオリニストにみすみすネオンフィッシュの曲を自分の立場を譲ってまで演奏させてやる義理はないし、笹塚が俺ではない他のヴァイオリニストを指名したら、決して心は穏やかではないだろう。
     でも、笹塚はそうはしない。それは、今の俺が笹塚に対して抱いている「信頼」だ。
     たとえ信じることが怖くても、俺が信じなければならないこと。あの日から俺に向けて思いを言葉にしてくれる、笹塚を信じることだ。だから、コンミスがネオンフィッシュの曲を弾きたいと言っても、今の自分は心が波立つようなことはなかった。
     それはオートキャンプ場で一緒に星空を眺めたあの日を経て、そして自分たちが恋人という名前のある関係性を得て、ようやくほんの少しだけ自信が持てるようになった部分ではあるのだけれど。だからこそ、こうして大きく構えて居られる部分もあるのだと訴えたいのだけれど。
     けれど――。
     笹塚の表情を見ていれば、俺の思いとは裏腹にそう単純なことでもないらしい。
    「笹塚?」
    「本当に……意識して言葉にしてみたって、仁科には肝心なこと、何も伝わってないんだなと思って驚愕してるところ」
    「え?」
     まるでこちらが空気を読めない人間のような扱いを受けたことに驚いてしまう。しかも、あの笹塚に。
    「だって、そうだろ。ネオンフィッシュの曲はお前の音があることを前提に作っているから、朝日奈がどんなに素晴らしく弾いたところでネオンフィッシュの曲にはならない。なりようもない。なら、朝日奈に弾かせる意味もない。お前だけが弾くためだけの曲だから」
    「……」
     だから、コンミスに対してそういう強い言い方をするのをやめろって言ってるんだって、と頭の片隅で思うものの、それが言葉にはなることはなかった。
     それ以上に、その後に続いた笹塚の言葉に衝撃を受けたから。『お前が弾くためだけの曲』――笹塚の言っている意味が分かるようで、でも信じられない。とんでもないことを言われているような気がして一瞬、固まった。
    「いやいや、何言ってんだよ。俺しか弾けない曲なんて、あり得ない。せっかくの曲がもったいないだろ」
     でも、そういえばこれまで、ネオンフィッシュのための楽曲を俺ではない誰かがそのまま奏でたことは一度もなかった。それは偶然じゃなくて、おそらく笹塚に意図されてのことだったのだ。俺は、基本的に笹塚が選ばない仕事は取らないから、きっとそういうことだったのだろう。
    「俺はそのつもりで作ってる。お前の音色でしか奏でられない前提だ」
    「待て待て、……俺の音色なんて」
     自信がなさすぎるのも考え物だと自分でも自覚するところだが、それでも一般的なアマチュアヴァイオリニストよりは弾けるくらいのレベルで稀代の天才にここまで言ってもらうことが申し訳ないように思ってしまう。
     けれど、笹塚はここまで一度も俺から目を逸らさなかった。もともと自分の興味関心があることに対しての目の輝きや真剣さは段違いだから、もちろん、本気も本気なのだろう。
    「最初から特別だ、俺にとって。お前の音は」
     笹塚が、言い聞かせるように丁寧に告げる。
     それでも、笹塚にとってはそうなんだなと思うくらいで、たしかな実感は湧かなかった。
    「俺の音……お前にはどんなふうに聴こえてるんだろうな」
     呟いたのは、答えがほしかったわけではない。自分のことが信じられないからだ。けれど、笹塚は少しの迷いもなく俺の目を見た。
    「水みたいな色の音」
    「……え」
     返されたその答えは突飛でもなくて、笹塚にはあまりにも似合わない詩的な表現に、それがまったく想像がつかなくて少し笑ってしまった。
    「はは、なんだよそれ。色無しか。透明じゃん」
    「透明だよ」
     笹塚がそうきっぱりと言い切った声音が、あまりにも真摯で吃驚した。笹塚がまっすぐに、こちらを見つめてくる。見つめるなんて表現では生易しい。射貫かれる、と思った。動けなくなるくらいに強い視線だった。どうしたらいいか分からなくて、視線が泳いだ。
    「……あ」
     俺のわずかな怯みに対して、逃さないとでも言うように笹塚が一歩近づき迫ってくる。左の手首を掴まれた。
    「透明な水。どんな色にでも変われる。『仁科諒介』が奏でる音はそういう音だよ。お前自身が器用すぎて、どうにでもできて、少しも自分の音に執着しないところも含めて、それがお前の音の魅力。変な癖もない。これみよがしな主張もしない。だから、俺が無限に色を変えてみたくなった。いつも同じ色じゃつまらないだろ。お前の音は無限に変われる音。そう思ってるから」
    「…………」
     話があまりにも壮大すぎて、すぐには頭に入ってこない。けれど、ラザルス文系上位常連の威信にかけて、笹塚の言葉を咀嚼しようと試みる。
    「……曲の色を邪魔しないし、どんなに色にもなれる可能性があるみたいな?」
    「言ってみれば、そう」
     笹塚が頷く。思いを汲めたことにほっとしたけれど、だからといってすんなりと受け入れられるかは別の話だ。
    「そんな大層なものとは思えないけどな……」
     掴まれていた手首に力が籠められる。笹塚の手のひらの熱が伝わってくる。熱かった。体温も、言葉も。
    「俺が言ってるんだから、信じろ。音楽に惰性や定石なんていらない。面白い音だけを追いかけていたい。だから、俺の音楽にはお前の音がほしいと思ったし、俺の曲なら、お前の音をいくらでも色づけられると思ってる。朝日奈みたいに良くも悪くも強烈な個性の奏者が弾けば、ネオンフィッシュの曲は濁る。相性が悪い。朝日奈には朝日奈向きの曲がある」
    「……完璧に美しい色でライティングされたアクアリウムの水槽の中にわざわざ色のついた水をぶちこむみたいな? 水は透明であってほしいということ?」
     水と言われて、まず思い浮かぶのが札幌のアジトで笹塚が丁寧に世話をしているアクアリウムの水槽だったからそんな表現になったけれど、笹塚の顔を見ればあながち間違ってもいないようだった。
    「分かるような、分からないような……」
    「分かるだろ」
     はぁ、と残念そうにこれみよがしなため息をつかれる。
    「仁科じゃない他の奏者が弾くんじゃ、同じ旋律をなぞったってネオンフィッシュの曲は奏でられない。ネオンフィッシュの曲を弾けるのは仁科だけ。俺の作曲とお前のヴァイオリンでしかネオンフィッシュの曲は完成しない。だから、何度も言うけど。朝日奈が弾くのは違う」
    「……楽曲提供なんていくらでもしてるのに?」
     笹塚の頭の中の明確な線引きは少しずつ見え始めていたけれど、それでも訊いてしまうのは臆病な性分だからだ。
    「お前が弾く前提の曲とそうでない曲は、アウトプットされるものが根本的に全く違う。ネオンフィッシュの楽曲はお前の存在込みで作ってる曲だから。お前の音を想像すれば、俺が一番作りたいものを自由に作れる。お前がいなきゃ成立しない」
    「……」 
     とどめを刺すような、あまりにも熱烈な告白に言葉をなくした。
     あの日から、笹塚は考えや思いの内をできるだけ言葉にしてくれるようになったけれど、日常の中で数少なくとも発される言葉は、毎回あまりにも熱量が大きすぎて、どうしたらいいのか時折、戸惑う。
     それは欲しいとずっと願っていたもののはずなのに、いざ手に入れば受け止めきれないまま熱量に溺れるような感覚だ。嬉しいのに、どうしてか怖いくらいに。
     一瞬俺が考え込んだその間すら惜しんだのか、笹塚の顔が近づいてきて、耳元で低い声が鼓膜を揺らす。
    「聞いてるのか、仁科。お前がいれば、俺はどこまでも自由に泳げる。お前にだってそうであってほしいって、思ってるんだけど」
     力強い言葉とともに、自由だった右の手首も奪うように掴まれる。ああこれで、逃げ場はないなと思った。まあ、元より逃げる気なんて微塵もないのだけれど。
     笹塚が、熱のこもった視線でまっすぐに見つめてくる。眼鏡の奥の瞳は、少しも揺らぐことなく熱い。このまっすぐさ、明快さは自分にはないもので、憧れだ。笹塚の作る曲や才能だけではなくて、笹塚の自分にはない生き方に惹かれて止まない。
    「俺も……。俺もだよ、笹塚。そうでありたい」
     お前のようにはなれないけれど。お前に必要とされる存在になることはできる。
     相変わらず、言葉には弱気な心がどうしても見え隠れしてしまうけれど。懸命にそう告げると、笹塚は唇の両角をほんの少し持ち上げて嬉しそうに笑みを浮かべた。俺ではない、他の人間だったら判別がつかないだろうくらいの僅かな笑みと感情の表出だけれど、俺にはどうしてもそれが甘ったるく感じてしまうのは、きっと互いが特別だからなのだろう。

     笑みを形どった唇が近づいてきて、吐息が顎先にかかる。そこから二つの唇が重ねられるまでの時間は一瞬だった。捕らえられていた両方の手首が解放されるや否や、顎を掬われ、そのまま頬を包み込むようにして、抗えないままに長いキスを施される。
     日頃、自分は常にこの瞬間を待ち焦がれているのではないかと思ってしまうほどに、ひとたびこうなれば、自分で自分をコントロールなんてできなくて、あっという間にこの熱と空気に溺れてしまう。
     力が抜けていきそうになり、どうにか抗おうと笹塚の首にしがみつくように腕を回せば、背筋から腰を幾度も弄るように撫でられる。同時に下唇を物言いたげに食まれて、素直に応じて口を開くと、堂々と入り込んでくる舌を受け入れた。笹塚は、いつも息継ぎをする間すら惜しむようなキスをする。その強引さはひどく荒っぽくも感じるのに、その切実で真摯な熱に絆されて、溶かされて、全て許したくなってしまうから不思議だった。
     ここが皆で生活をする寮だということをすっかり忘れてしまったのではないかと思うようなふるまいをする笹塚に思い切り抗議したい気持ちもあるのに、いつも札幌で二人きりの時にされているように、舌先を絡めて何度も甘く吸われると、くらくらと頭の芯が痺れるような酩酊した感覚に思考が支配されてしまって、まるで使い物にならない。
     結局は、こうしていつもされるがままだ。でも、「されるがまま」が、きっと俺が笹塚にしたいことなのかもしれないとも思う。その思いは、こんなときにでもついにじみ出る。
     溶けそうに熱を持った舌と唇とがもどかしく絡み合う音が、静まり返った部屋の中に響いていた。
     熱い。溺れる。
     笹塚創という男に溺れていく。それは、本望だ。
     笹塚の作る音楽、一つひとつがたまらなく好きだ。焦がれている。苦しくなるくらい。生まれたばかりのまばらな一つひとつの音のかけらが、彩り豊かに色づいて、命を分け与えられていくその様はあまりにも美しい。それを紡ぎ出せる存在。
     唯一無二の存在。
     だから、笹塚にはどこまでも何からも、誰のしがらみからも自由でいてほしい。それは俺自身の存在も含めて例外ではなくて。俺の存在が笹塚を縛るものなのであれば、いつだって自分を笹塚の目の前から消し去ることができるとすら思う。きっと、それは笹塚は望んでいない、あまりにも我儘で独りよがりな願いなのだろうけれども。
     でもーー。
    お前がいればどこまでも自由に泳げると、笹塚はそう言った。言ってくれた。
     俺がいなければ、笹塚が思うがままの曲を自由に書けなくなるというのなら、いつかこの身体がヴァイオリンを弾けなくなるその日までこいつの傍にいなくちゃな、なんて。そんな幸福な束縛がある未来を思う。

     俺は、笹塚が愛でるアクアリウムの一部なのかもしれない。
     それは、ひとりのヴァイオリニストとしては喜ばしいことなのかどうかは分からない。いや、決して正しくはないのかもしれない。けれど、たとえそうだとしても、俺の中に湧きあがる感情はただ――嬉しい――それだけだ。
     有名なプロヴァイオリニストになりたい訳じゃない。願いは、ネオンフィッシュのヴァイオリニストであること。笹塚が作りあげる世界の一部になりたい。
     共依存だとでも言われれば、そうなのかもしれない。それは、あまりにも不健康なバランスなのかもしれない。けれど笹塚が言うように、互いを欠いては成り立たない関係と音楽で、それで互いが一番に求めることを叶えられているのなら。――どこまでも、自由に泳げるのなら。今はそれでいいと思った。
     これからも、そうでありたいと願った。


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    😭😭😭😭😭😭😭💖👏👏👏😭👏👏🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓💖💖💖💖💖🍓😍🙏💕👏🌠🌠🌠🌠🌠🌠🌠☺☺☺🙏🙏🙏🙏💕
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    紫垣🐠

    DONE笹仁/星空のアクアリウムOP.3 展示作品

    スタオケ加入後の二人のお話。ナチュラルに付き合ってます。
    ※R18はつけていないですが、行為が匂わされる表現があったり、甘めだったりするので苦手な方はご注意ください。

    『GRADATIONS』>#0「Colorless Color」#1,#2「Colored Notes」#3「like a FISH in water」から続いている連作です。
    One Identity#4

     素肌の背の下に敷かれた固いシーツに大きく皺が寄った。
     菩提樹寮の笹塚の部屋に備え付けられた簡素なベッドに両手首を押さえつけられ、半身で乗りかかられるような形で、もうどの位の時間が経ったのだろう。西日が射しこみ、夕暮れの赤い光が眩しく室内を満たす中、呼吸まで浚うような長いキスをずっと施され続けていた。
     覆いかぶさった熱。身長は俺と同じはずなのに、がっちりとした恵まれた体格を存分に生かし、その腕の中にいともたやすく全身を閉じ込められてしまう。
     二つの唇と舌が絡み合う湿った音と、せわしない息遣いだけが静まり返った部屋に響く。いくら人の気配が多くて騒がしい寮内とはいえ、声を出すことも、物音を立てることにも細心の注意を払わなければならないのに、ひとたびこうなってしまえばどちらも止めることができなくて、そのまま行為に及んでしまったことは、これまでにも何度かあった。
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    紫垣🐠

    DONE笹仁/星空のアクアリウムOP.2 展示作品

    スタオケ加入後の二人のお話。ナチュラルに付き合ってます。
    ※コンミス出ます
    後日談は近日中に公開予定です。
    『GRADATIONS』
    #0「Colorless Color」から続いています。
    「like a FISH in water」に続きます。
    Colored Notes#1

    「コンミスが俺たち二人に用事ってなんだろうな」
     眠たげな眼で隣をのそりのそりと歩く笹塚に声を掛けると、眼鏡の奥が唐突に思い出したように、剣呑な目つきになった。
    「……むしろ俺はさっきの全体錬の時のカデンツァに対して、朝日奈に言いたいことたくさんあるけど」
    「あのな。それは一ノ瀬先生からも、まずパート練に持ち返るって話になったただろ。蒸し返さずに今はコンミスの話をよく聴けよ?」
    「善処はする」
     スターライトオーケストラに参加することを決めて、笹塚と共に札幌と横浜を行き来するようになって数か月がたち、短期間での長距離移動にもようやく慣れて、週末は横浜で過ごすことが当たり前になってきていた。土曜日の今日も朝から横浜入りをした後、木蓮館での合奏練習を終えて、菩提樹寮へと向かう所だ。首都圏での拠点がスタオケ加入と同時に自動的に確保されたのは、笹塚と俺にとっても有難い話だった。
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    紫垣🐠

    DONE笹仁/星空のアクアリウムOP.2 展示作品
    本編前(ねつ造)
    笹塚くんが仁科くんの音に初めて出会った日の話

    『GRADATIONS』(5編連作)
    #1『Colored Notes』に続きます…!
    Colorless Color #0

     無色透明。透明な水のようなヴァイオリンの音色だと思った。色のない、とても澄んだ。滔々と流れていく水のような音色。
     まるで、アクアリウムの水槽を満たす水のようだ。色とりどりのライトで照らせば、無限に思い通りに色彩も雰囲気も変えられる水槽の水。
     透明な音。癖のない音。無限に表情を変えられる音。
     個性がないというのとは全く違う。高い技術の奏者にありがちな、変に主張めいた音色の出し方やこれみよがしな自我や癖がない。どこまでもクリアだった。
     音楽以外で例えるのならば、思い通りの色を思い通りに乗せられる上質なキャンバスだ。乗せたい色を損なわない。
     これが、自分がずっと求めていた音だと思った。

    **

     明け方まで一睡もせず集中して作曲を続けていたから、授業に出席はしたものの、朝からずっとやる気が起きずに、ほぼ眠りの世界にいた。それでもいったん学校へ出てきてしまった以上、睡眠のためだけに家へ戻るのも面倒くさくて、午後は校内の人目につかない場所へ移動しようと思いついた。
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    紫垣🐠

    DONE笹仁/星空のアクアリウムOP.3 展示作品

    スタオケ加入後の二人のお話。ナチュラルに付き合ってます。
    ※R18はつけていないですが、行為が匂わされる表現があったり、甘めだったりするので苦手な方はご注意ください。

    『GRADATIONS』>#0「Colorless Color」#1,#2「Colored Notes」#3「like a FISH in water」から続いている連作です。
    One Identity#4

     素肌の背の下に敷かれた固いシーツに大きく皺が寄った。
     菩提樹寮の笹塚の部屋に備え付けられた簡素なベッドに両手首を押さえつけられ、半身で乗りかかられるような形で、もうどの位の時間が経ったのだろう。西日が射しこみ、夕暮れの赤い光が眩しく室内を満たす中、呼吸まで浚うような長いキスをずっと施され続けていた。
     覆いかぶさった熱。身長は俺と同じはずなのに、がっちりとした恵まれた体格を存分に生かし、その腕の中にいともたやすく全身を閉じ込められてしまう。
     二つの唇と舌が絡み合う湿った音と、せわしない息遣いだけが静まり返った部屋に響く。いくら人の気配が多くて騒がしい寮内とはいえ、声を出すことも、物音を立てることにも細心の注意を払わなければならないのに、ひとたびこうなってしまえばどちらも止めることができなくて、そのまま行為に及んでしまったことは、これまでにも何度かあった。
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    紫垣🐠

    DONE笹仁/星空のアクアリウムOP.2 展示作品

    スタオケ加入後の二人のお話。ナチュラルに付き合ってます。
    ※コンミス出ます
    後日談は近日中に公開予定です。
    『GRADATIONS』
    #0「Colorless Color」から続いています。
    「like a FISH in water」に続きます。
    Colored Notes#1

    「コンミスが俺たち二人に用事ってなんだろうな」
     眠たげな眼で隣をのそりのそりと歩く笹塚に声を掛けると、眼鏡の奥が唐突に思い出したように、剣呑な目つきになった。
    「……むしろ俺はさっきの全体錬の時のカデンツァに対して、朝日奈に言いたいことたくさんあるけど」
    「あのな。それは一ノ瀬先生からも、まずパート練に持ち返るって話になったただろ。蒸し返さずに今はコンミスの話をよく聴けよ?」
    「善処はする」
     スターライトオーケストラに参加することを決めて、笹塚と共に札幌と横浜を行き来するようになって数か月がたち、短期間での長距離移動にもようやく慣れて、週末は横浜で過ごすことが当たり前になってきていた。土曜日の今日も朝から横浜入りをした後、木蓮館での合奏練習を終えて、菩提樹寮へと向かう所だ。首都圏での拠点がスタオケ加入と同時に自動的に確保されたのは、笹塚と俺にとっても有難い話だった。
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