like a FISH in water#3
昼下がりの練習室に、ヴァイオリンの耳慣れない旋律が流れる。耳慣れないも何も、初めて聴く曲なのだから当たり前なのだけれど。
譜面に目を落としながら、目の前で流れる曲に耳を傾ける。
普段ならばネオンフィッシュの曲として笹塚から渡される新曲は、新鮮な驚きの中にも、ああ笹塚の曲だなと思うような要素が多くある。もちろん、今目の前で演奏されている曲にその要素がまったくないとは言わないけれど、かなり珍しいタイプのアプローチの曲だ。そのメロディラインに聴き慣れたコンミスの音色が乗る。
アップテンポで軽快で、おもちゃ箱を開けたみたいな可愛らしい曲だ。短いけれど、曲の表情が豊かで満足度も高い。
譜読みの難易度が低くて、聴き映えがする曲。笹塚がコンミスの希望にきっちりと答えた曲だ。ピアノ演奏もコンミスの演奏ととても合っていて心地良い。
笹塚の曲も、笹塚が奏でるピアノも好きだし、コンミスのヴァイオリンも好きだ。これを、曲作りのこの段階から聴けるのは役得だなと思って思わず顔がにやけそうになるのを止められないまま、二人の演奏を見守った。
客観的に聴いてほしいというコンミスからのリクエストで、片手に楽譜、動画も撮りながらビジネスライクに聴いていても、無意識に楽しくなる仕上がりの曲だった。演奏が終わると、客観的に聴くという与えられたミッションなどすっかり忘れて、思わず心の底から拍手を送ってしまった。
「いいんじゃない。さすがコンミス」
作曲も譜読みも合わせも、急拵えとは思えないほどの仕上がりだ。なんだかんだできっちりと間に合わせてくるのが二人らしいし、笹塚がこうして俺意外の誰かと素直に組んで、デュオが成り立っていることも感慨深く思ってしまう。
「息もぴったりだし、完成度高いんじゃない。よく間に合わせたね。すごい、朝日奈さん」
手放しでほめると、コンミスは嬉しそうに「やった! ありがとうございます」と笑った後、でも――と小さく苦笑した。その視線の先は、まだピアノの前に座ったまま、難しい顔で譜面に何か書き込みをしている笹塚に向いている。
「これ、私向けにかなり手加減された曲だというのは分かります」
そもそもは私が難易度低めを希望したんですけどね、とコンミスが肩をすくめる。まあ、たしかに妥当なラインで作ったなという感じはするが、でもそれでいてコンミスの音にぴったりと合うのだから、笹塚の仕事ぶりはさすがとしか言いようがない。
「でも、なんか面白おかしくて可愛らしい感じの曲だよね。いいんじゃないかな、こういうテイスト」
彼女の言う手加減のくだりは脇に置いてコンミスに笑いかけると、彼女は手元の譜面を眺めながらしみじみと言った。
「笹塚さんが私をどう見ているかよくわかる曲ですよね」
「はは、そうだね」
素直なメロディラインで、跳ねるような軽やかさ。スピッカートが多用されていて、明るく元気な印象の曲。普段の笹塚の曲とは全く違う印象だ。当て書きというか、コンミスのためだからできあがったタイプの曲だろう。
そんな風に思っていると、俺が手にした楽譜を指さしてコンミスが笑った。
「今回、この曲を笹塚さんにもらって。弾いてみたから分かったんですけどね」
彼女の少し意味ありげな切り出し方に、何を言うのかと目を合わせたまま首を傾げると、コンミスは内緒話でもするかのようにそっと一歩こちらへ近づいた。
「笹塚さん、ネオンフィッシュの曲と仁科さんの音をものすごく大事にしてるんだなって実感しました。すごく特別なんだなって伝わってきました。気軽にお借りしたいなんて言ってしまったこと、よく考えてみて反省しました。ごめんなさい。そりゃ笹塚さんも怒りますよね」
「え……」
申し訳なさそうに深々と頭を下げるコンミスのまるい後頭部を眺めながら、思わず目を見開く。笹塚が怒っていた理由に気が付いていたなんて、コンミスは俺よりもよほど笹塚のことを分かっているのかもしれない。
呆けたままコンミスを見つめていると、彼女は手あそびのように、今弾いたばかりの新曲の主題のメロディーをピチカートで軽くなぞった。
「これ、本当に素敵な曲ですけど。これは、笹塚さんの曲だけど、絶対にネオンフィッシュの曲じゃありえないなって思います。どちらかというと、笹塚さんがスタオケのために作る曲に近いと思いました」
「うん……そうかもね」
彼女が言うその感覚は、仕上がった譜面を見た時から俺にも分かるところだったから、その是非はともかく、ひとまず頷いてみる。
けれどコンミスは、俺のそんな曖昧な相槌を打ち消すかのようになぜか語気を強めた。
「かも、じゃなくて、そうですよ! 思うに、ネオンフィッシュの曲というか……『ネオンフィッシュ』には、遠慮なく、ふんだんに笹塚さんの『特別』と
『好き』が全部詰め込まれてるんだなって思いましたよ。仁科さんとだから思い通りの曲も作れるし、思い通りの演奏もできるんだなって。それってすごい信頼ですよね!」
「……ええ?」
真剣に、やけに熱っぽくそう語るコンミスに面食らう。けれど、さらに続けられた言葉に耳を疑った――というか、慌てた。いろんな意味で。
「相思相愛ですよね。仁科さんも、笹塚さんの曲が大好きだし、笹塚さんの大ファンだし! すっごく素敵だなって思いました」
「えっ」
普段心掛けている外面も体裁も瞬発的に微塵も纏えず、ただただ驚いて絶句することしかできなかった。
俺が、笹塚の大ファンで。笹塚も俺のことが好きで。相思相愛で。なにそれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。いつもだったら何を言われてもさらりと流せるはずなのに、笹塚のことで不意に核心をつかれようものなら、このざまだ。
俺が笹塚の大ファンだなんて日々公言しているわけではないけれど、コンミスに伝わっている――どころかみんなに伝わってるわけ? しかも相思相愛って、どうなのその表現と驚愕の事実に頭を抱える。冷静に考えれば、互いの音楽が好きでも無ければユニットなんて組めるはずはないから、そこは流すところ――だったはずだ。
自分がコンミスの言葉に、思いのほか戸惑っていることに戸惑う。
それは、自分の笹塚の音楽への執着を悟られたくない――もし、自分が見限られる日が来たら怖い――という不器用な自己防衛なのかもしれないし、ユニットのメンバー以上の感情を表出させてはならないという自己制御なのかもしれない。けれど、いずれにしろ他者の目から見える自分たちの関係性について、こうして核心を突かれると、お粗末なほどにいつも通りの対応ができなかった。
コンミスは、普段はほとんど見せることのない、言葉を途切れさせた仁科諒介が物珍しかったのか、それとも、どうしてこんな反応をされるのか分からないといった顔なのか、目を大げさにぱちくりと瞬かせている。
さて、どう話を継いだらいいのだろうかと思考をめぐらせようとしていると、突然ふっと隣に慣れ親しんだ気配が並んだ。
「仁科が好きなのは、俺の音楽だけじゃないぞ」
「……は?」
いつのまにか真横に笹塚が居て、さも当たり前かのようにそう言った。会話が成り立っているということは、いつから話を聴いていたのかと問い質したい気持ちにもなったが、今はそれどころではない。放っておいたら余計なことを言い出しかねない笹塚を肘鉄をくらわせ、黙らせる。
が、俺たちのそんなやりとりを目にしながら、コンミスは何か得たりというように頷いて、からりと笑った。
「ああ……! 音楽だけじゃないのも分かります。大事な相棒なんですよね」
「相棒ってだけにも止まらない」
あくまで表情一つ変えずにそう言い放つ笹塚に、軽く視線で物申す。
「おい、笹塚」
けれどやはり笹塚はそんな牽制なんてどこ吹く風の表情で、これはだめだと思わずため息をつきそうになると、あろうことかコンミスが笹塚に向かって謎に勢いよく同意を示した。
「それ、分かります!」
「えっ、分かる?」
まさかのコンミスの元気の良い笹塚への賛同に目を見張らざるを得なかった。えーと、それはそれで問題なんだけど、という心情だけどそれも口に出すことはもちろん憚られる。まあでも、笹塚とコンミス、感覚が独特なもの同士もしかしたら思考に何かしら通じ合うところがあるのかもしれない。こう、数学的に例えるのなら、二つの部分集合同士が重なり合うわずかな部分が掠っているというか。
コンミスは自分の頭の中に浮かんでいる言葉を探るかのように口を開いた。
「なんというか……、相棒という言葉よりも、もっと、レベル的には必要不可欠というか。魚が水がないと生きられないみたいな。お二人はそんな感じじゃないですか?」
「ああ、いいな。そんな感じ。水を得た魚」
コンミスの表現に、笹塚は少し口端を上げてどこか満足げに頷いた。笹塚が誰かの意見をこんな風に素直に嬉しそうに肯定するなんて、まず珍しいことのような気がしてしまう。
「よかった! 分かります? しかもアクアリウムの熱帯魚みたいなイメージですね」
まあ、ネオンフィッシュなんて、ネオンテトラみたいなユニット名だし、彼女の中ではそんな印象なんだなと思って耳を傾けていると、笹塚は顎に手を当ててまだ嬉しそうに目を細めていた。
「そうだな。無いと生きられないという点では」
「……!?」
笹塚の言葉に思わず、ひとり目を見開かずにはいられなかった。何のことはないような淡々とした言い方で、恥ずかしげもなくとんでもないことを言ってのけるものだと思う。
けれどそんな俺の密かな動揺など知る由もなく、コンミスが笹塚の肯定に「ほら、当たりだ!」と楽しそうに笑う。彼女が例えてくれたその表現は、ある意味とても的を射ていたし、笹塚の反応も嬉しい。それに、この会話にまんざらでもなさそうに乗っている笹塚が新鮮でなんだかおかしくて、ちょっとだけかわいくて思わず笑ってしまいそうになる。
コンミスも珍しい笹塚の様子を目にして、きっと嬉しかったのだろう。笹塚に笑いかけて、突如思いがけないことを言った。
「笹塚さんて、すごく素直でまっすぐですよね? 言葉も飾らない分、すごく情熱的ですし」
彼女の言葉は、これはなんとも珍しい笹塚への評価だと思い、驚いて思わず瞠目した。
けれど、笹塚が他者から与えられる評価としては珍しいが、そこはさすが我らがコンミスというべきか、きちんと核心をついているように思えるから見事だと思う。
笹塚はいつも表に出す口数が少ないだけで、考えていることや感じていることは普通の人間の何倍も頭や心の中に存在しているだろうし、それに必要な場面では、思考や感情はストレートに伝えて本心を決して隠したりしない。
俺のように、普通の人の何倍もコミュニケーションに気を遣って口数が多くたって、本当の気持ちや考えを懸命に隠してばかりの人間とは正反対だ。
そんな笹塚のストレートなふるまいが、俺が焦ってフォローしなければならない場面に転じることも間々あるけれど、笹塚の場合は俺がフォロー可能かどうかのラインまできちんと見込んでふるまっている節さえある。そんな自分には到底できない芸当はいっそ羨ましくもあるし、周囲に左右されずに自分の意思や思いを貫ける強さは、純粋に格好良いと日々思う。
でも、当の本人はコンミスの投げかけに何と答えるのだろうと思ってその表情を伺っていると、笹塚は至極真面目な顔つきになって口を開いた。
「意識して口に出したって、自分の思いなんて思うようには伝わらないから最近はそうしてる。素直な気持ちを伝えないで、知らずうちに大事なものをなくすなんて馬鹿げてる。恥をかこうが他人がどう思おうが、自分が思っていることは素直に伝えるべきだろ。好きだって。お前が必要だ、って。どこでだって、いくらでも言ってやる」
「わぁ、男前……! えっ、でも『好き』って? そんな話、今してましたっけ?」
挑むような笹塚の言葉の勢いに、コンミスが一瞬気圧された後、面食う。――いや、本当に。コンミスの戸惑いは無理もないと思う。だって笹塚は、本来は言葉になんて価値を見出す男じゃないのに。それなのに、笹塚が隙あらばこうまで言うその理由が何なのかなんて、分からないわけがない。その理由は、他でもない――俺自身なのだから。むしろ、笹塚はコンミスへの答えを通して、俺へ向けて言っているのは間違いない。
笹塚にここまで言わせていることに申し訳ない気持ちにもなるけれど、ここまで言ってくれることへの幸福感が無いと言えば嘘になる。
「笹塚さんに想われる人って、きっとものすごく幸せですね」
「…………」
今まさに思ったことをコンミスにそう言われた瞬間、すっと引き寄せられるように笹塚の方へ視線が向いてしまった。
それが、失敗だった。
笹塚と目が合った瞬間、それまでどこか勝気にすらみえた琥珀色の瞳の強さがふっと和らいで、眼差しがわずかに絞られた。まるで、視線だけで愛しいとでも告げるかのように。
自分にだけに向けられる、特別な、抱きしめるような眼差しに背が甘く震えた気がして、思わず力が抜けそうになる。
「え、仁科さん? どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
突然、首元から耳まで真っ赤に染まってしまったその理由を。意外と人の心の機微に敏いコンミスに悟られなければいい――そう願いながら、ぱたぱたと手で顔周りを扇ぎながらうつむいた。
「……大丈夫」
辛うじて発した言葉が、いつも通りの自分を保てているかは分からなかった。
なんでもないから二人でこのまま練習続けてて、とほうほうのていでそう言い残し、転がるように練習室を後にした。
練習室を出る前に、もう一度振り返って笹塚を視界に入れると、まっすぐに熱のこもった瞳でこちらを見つめていたから、余計に少し体温が上がった気がした。