あなたと海の底でダンスを遠い夏の日。
きらきらと光る水辺で小さな手の持ち主と内緒話しをした。
その時はまだ僕のほうが背が高くて、小さな両手で丸を作った口元に身をかがめた。
膝まで浸かった水がちゃぷりと鳴って、足元はひんやりと冷たいのに背中はじりじりと焼かれてとても影が濃かったことを覚えている。
ひみつだよ、と言われたあの日から僕は彼の手綱になった。
あなたと海の底でダンスを
さらりとした乾いた風が吹いていく。
山から下りた春風は通りの桜並木を撫でてマツバの部屋までたくさんの花びらを運んできていた。
カントー地方は春。
萌黄が芽吹き息吹が噴出す季節。
マツバは自室に寝転がりながら裏手にあるやしろの森の気配がさざめいているのを夢うつつに聞いていた。
みんな浮かれているのだ。
「さらわれないように…」
口の中でふわりと呟き薄目を開ける。
十畳ほどの畳敷きの自室はもので溢れかえっていた。
主には紙の山、それから山歩きの道具と大きな本体を持ったデスクトップ型パソコンとその周辺機器にLD、CDにコンポ、何かよくわからない拾い物もらい物、手持ちの子たちが持ち帰る数々のお土産。
それらに埋め尽くされるように敷いた真ん中の万年床のような布団からよいしょ、と身を起こすと同時に廊下に面した障子が勢いよく開け放たれた。
「マツバー!海に行こう!」
いつも通りの紫色のタキシードに赤い蝶ネクタイ、白い手袋にきちっとセットした髪型。
古い付き合いになるミナキだった。
「…ねえ、僕は君に会うの三ヶ月振りな気がするのだけど?」
「わたしもだぜマツバ!」
腰に手を当てたミナキが仁王立ちでにこにこと笑っている。
マツバは「あかん、頭に花咲いとる…」とひとりごちるととりあえず、と言った風に立ち上がってミナキに手を差し出した。
「おお、マツバ!」
嬉しげに握手と抱擁のために差し出したミナキの腕を取ると半歩とターンできれいに背後に回り、締めた。
「いっ!?いだだだだだだっ!!??」
「半年振りに会う友人に、挨拶もせずいきなり海行こうとは相変わらず君は言葉と思考の途中式が抜け落ちている、ねっ」
さらにもう片方の手も後ろに取って背中を軽く足で押してみる。
「いたいいたいいたい!!??マツバやめるんだぜ!!??」
「ただいまは?」
「いたいいたいたいっった、ただいまマツバ!久しぶりすぎて抜け出し方を忘れたから放してッ、放せバカマツバ!!」
ぱ、とマツバが手を開放するとミナキはよろよろと畳に膝を着き、両肩をぷるぷるさすっている。
「マツバ、ほんと、無茶…っ」
「んー三ヶ月も、音沙汰なかったミナキくんが、三ヶ月振りに来て、三ヶ月振りの言葉が『海に行こう』で、三ヶ月振りの衝撃に見舞われただけだよ」
まだ突っ張っているらしい背中をさすさすとマツバも撫でながらふんわりと笑顔を浮かべた。
「………悪かった」
「いーえ。お元気そうでよかったわ。おかえりやすミナキくん」
ふんわり笑顔をちらりと盗み見たミナキが冷や汗と一緒にひくついた笑顔を浮かべる。
いつぞやはジャーマンスープレックスをかまされて目を回したことをミナキは思い出した。
このふわふわとした笑みは相手を油断させる擬態だ、とミナキは改めて再認識する。
マツバはマツバで似たようなことを思っているので似たもの同士の二人である。
「で、海がどうしたのさ」
「ああ!そうだった!海に行こうマツバ!」
くるりと振り返ったミナキの顔がぱあっと輝いている。
「泳ぎたいんだ!」
にこっと至近距離で見せ付けられた笑みは見慣れたものではあったがそれはそれは端正な全開笑顔でマツバの思考を一瞬止めさせる。
が直後、きれいな額を思いっきり中指で弾いた。
でこピンに修行の成果も何もあったものではないがミナキは「うぎゃっ」と短く叫ぶと顔面を両手で押さえて再度ぷるぷるとうずくまった。
「海開きはまだまだ先だ。ばかミナキめ」
先ほどの「ばか」と言う言葉がさも気に食わないという様子で強調するとマツバは深いふかいため息を付いた。
温かい春の風が新たな桜の花びらを運んできていた。
そうして今マツバの前には春の日差しを受けてきらきらと輝く海辺。
マツバの言葉をよそにこの辺りの海はすでにマリンスポーツのシーズンに頭を突っ込んでいるらしかった。
着いた早々に海に駆け出していくミナキの首根っこを掴んで先に送っておいた荷物の整理を言い渡す。
海まで3分。
木の生い茂る小道を抜けて坂をちょっと上がったところにあるコテージのデッキから海を眺めながらマツバはため息を吐いた。
ナナシマのひとつに二人は来ていた。
「何でやろね…」
素足に感じるウッドデッキの感触を心地よく思いながらマツバの心は黄昏ていた。
突撃毎度のミナキくんから二日後である。
ヨネコさんがよく許可を出してくれたものである。
まったく本当にジムの面々はミナキくんに弱いとマツバはひっそりとため息を吐く。
孫が遊びにきたかのようにお茶やお菓子が振舞われる。
いつの間にあんなに馴染んだのだろうか。
それでもタエコさんからは「気をつけなせぇ」と背中の真ん中を叩かれたし、タケさんは「お土産はまんじゅうでよいぞ」何ていいながら一体いつのまに買ってきたのか三つ角を曲がったところにある神社のお守りをくれた。
「確かに、閑散期だったけどね」
ざざんと潮騒の音とともにからりと晴れた空気がマツバの頬をなでる。
日差しは温かく、少ないながら海に入っているのもウェットスーツを着たボーダーやヨットを繰る人達が大半である。
それでも波打ち際で遊んでいるカップルや友人同士で遊びに来たのであろう散歩している人達がちらほら見受けられた。
まったく何が悲しくてこんなリゾート地に男二人で来ているのだか、と再びため息モードに入ったマツバに後ろから声がかかった。
「マツバ、こらっお前わたしに荷物押し付けておいて何遊んでいるんだ。見ろ、ゲンガーのほうが余程働き者だぞ」
後ろを見るとミナキにつけてもらったのか白いタオルはちまきをちょこんと載せたゲンガーがモップをもって部屋をとことこ歩いているところだった。
確かに普段から竹箒を持って境内を散歩しているのを見かけるが、モップをさばく足取りが何となく嬉しそうである。
「ごめん。わかった。…片付けたら浜辺散歩しようか…」
マツバはぐったりと気が抜けていくのを感じた。
さくりさくりと足元に鳴る砂がおもしろいのか先ほどからスリープがじーっと足元を見ながらもちもちと歩いている。
海を見るのは初めてなのだろう、ミナキが泳いで行った方向をじーっと見てはまた足元の砂を見てもっちもっちとマツバの周りをぐるぐる歩いている。
興味深そうに波を見てはいるが近寄らないのは慎重なのか怖いのか、表情の読めないコである。
「君のご主人はもう少し遊んでいると思うよ」
そう言ってマツバは砂浜に敷いたカラフルなシートの上に寝転がり、盛大な伸びをした。
とりあえずまだ水は冷たいと忠告はしたが『ウェットスーツがあるから大丈夫なんだぜっ』といつもの訳の分からないハイテンションでボードを抱えて飛び出して行ってしまった。
いつの間にボードなんて出来るようになったのかと思いきや綱をつけてゴーストとマルマインに引っ張ってもらっている。
今日はまだ波が静かでよかった、とさすがに普段の服装から薄手の上下に着替えたマツバはのんびりと手持ちのポケモンを砂浜に遊ばせて荷物番をする行楽の父親よろしくシートの番をしていた。
と、遠くから聞きなれた叫び声が聞こえて来た。
何事かと海岸線を見るとミナキが吹き飛ばされていた。
きれいに弧を描いてボードを引っ張っていたゴーストごとぽーんと飛ばされて海にどばちゃとダイブする。
「え…」
水面から丸いものが突き出て沈んでいくのが見えた。
大きな水色の尾がつるりとひるがえって重い水しぶきの音が届く。
ホエルオーらしい。
「は…?」
この辺にホエルオーなんていたっけ?しかもこんな浜辺近く、座礁しない?
マツバの頭は真っ白になる。
ボートやサーフボードをしていた人達も何事かと海岸線をのぞいている。
「ラプラス!」
ぱっとマツバは立ち上がると腰のモンスターボールに手をかけパシュンとボールを開放する。
ふんわりと飛び出て嬉しそうに水に飛び込んだラプラスはぷるぷると水色の長い首を振った。
「ゲンガーお留守番しててっ、ラプラス、乗せて!」
かぶっていたパーカーを放り投げるとマツバはばしゃばしゃと勢いよく水に飛び込む。
冷たさにさっと鳥肌が立ち指の間に砂の冷たさと重さを感じる。
ミナキが溺れるとは思わないがホエルオーの巨体に投げ飛ばされて無事でいるとも思えない。
胸まで海水に浸かったところでざぶんとラプラスに海中から救い上げられて波の上を滑るように勢いよく走りだした。
硬い甲羅に乗りながら風を切り、冷たい水しぶきを上げてサーファー達の間を一気に抜けてホエルオーの頭が見えた辺りに目を凝らす。
突然のホエルオーの出現に驚いたのだろうか、慌てた水系ポケモンが浅瀬へとはねるように逃げてきていた。
穏やかなはずの波間にミナキの姿を捉えられない。
「急いでラプラスっ」
そう言うか言わないかの間に前方左方向の海が黒くなった。
「ラプラス!!」
突き上げるような衝動。
海面を引き上げるような勢いでホエルオーが再び跳ねた。
目の前が陰った間延びしたような一瞬の後。
凄まじい轟音とともに目の前が真っ白になる。
砲弾のような水しぶきをまともにくらってくわん、と意識が遠のきかける。
痛いというより重い。
今海中に投げ出されたらホエルオーの起こした海流に巻き込まれて海底までまっしぐらだ。
腕で顔をおおっても塩辛い水が鼻と目に染みて目が開けられないし息もできない。
大波に揺られて必死にしがみ付くラプラスも短い悲鳴を上げて進路を大きく変えた。
波を受けたラプラスがマツバを放り出して海中に逃げなかったのはさすが、と胸中で歓声を上げたが、ウォッチングの名所はここじゃないんだぞっとマツバはようやく開いた目で前方をにらむ。
大きく旋回したところでマツバはごほりと咳をひとつすると呼吸を整えた。
「ミナキー!どこだー!!」
鍛えた大音声で呼びまわると「きゅい」とラプラスが短く鳴き後ろを振り向いた。
波間にきらりと光るものが見える。
マツバの心情とは一転して穏やかな日差しの中手をかざして光ったものをにらみつける。
そしてそこから一直線にこちらに向かって飛んでくるゴーストの姿。
「ゴースト!!」
べふんと顔に飛びついてぴーぴー鳴くゴーストをマツバは手馴れた仕草でべりっと掴んで引き剥がした。
「ミナキくんは!?」
べいっとはがされたことではっとした顔になったゴーストは慌てて今来た方向に飛んでいく。
「追ってラプラス!」
ポケモンはほんとうにマスターに似る、とマツバは場違いなことを考えながらまだ荒い波から目を守るように手で顔を拭った。
跳ねるような波を滑り抜け、ぐるぐるとゴーストが旋回した真下にいたのはサーフボードにつかまってぷかぷかと浮いているミナキだった。
「ミナキくん!無事!?」
手を降るミナキへ手を差し出したところでマツバは逆に腕を握られる。
「見ての通りだ。マツバ、わたしを引き上げる前にあのホエルオーを何とかしたい」
「…モンスターボールもないし捕獲はちょっと厳しいよ。…ねえ、まさか君が沖に連れていくとか言わないよね?」
後ろに何か見えそうな黒いオーラを重く出現させたマツバに一瞬笑顔をフリーズさせたミナキだったが慌てたようには腰の後ろにつけていたホルダーからボールを取り出した。
「スターミー!」
海中から思い切りよく開放ボタンを押し、スターミーを海に放す。
ぱしゃりと静かな音を上げて飛び込んだあと、ふんわり浮上したスターミーは甘えるようにミナキに擦り寄ったあとラプラスとゴーストにも挨拶をするようにくるくると回って見せた。
「スターミー!あのホエルオーをもっと深いところまで連れていってくれないか。君なら海流を抜けていけるだろう」
「それならぼくも協力できるね…。ブルンゲル!マンタイン!」
同じように腰に付けたホルスターから流れるような軌跡を描いて2体の手持ちを波間に放った。
ざばんと水しぶきを上げてマンタインが飛び跳ねゆらりと水の感触を楽しむようにブルンゲルがくるくる回りながら浮かびあがる。
「お前たち、あのホエルオーを沖のほうへ連れていってくれ。迷子らしいんだ」
ラプラスの上から手を差し伸べたマツバの手にすりつくようにした2体はスターミーの後を追って勢いよく海にもぐっていった。
「あのな、さすがのわたしもそこまでの無茶はしないぞ?」
「でも少しは考えたでしょ?」
ざばん、と来た波を乗り越えマツバがちくりと刺す。
「君に怒られるのがわかっているからな」
よいせ、とラプラスの上に乗りあがったミナキはくしゃりと笑って見せた。
「まったく、よく言う」
きっと他に手がなければ自身を危険にさらすことなどいとわない癖に。
マツバは己がこの浮雲のように自由な友人の重しになっていればいいと、ゆるりと笑うついでにでこぴんして見せた。