サウナ!サウナ!サウナ! とある晩、一緒に酒を飲んでいるときにネロが取り出したのは一枚のチラシであった。
――堂々開店、本格サウナ付き浴場!!
「サウナ?」
チラシを見て、ファウストは小首をかしげた。
「そう。王都に新しく出来たらしくてさ、行ってみたいんだ。よかったらあんたもどう? 結構ちゃんとしてるみたいで気になるんだよ」
「サウナ? 好きなの?」
「ああ。昔よく行った。北の国は寒いから、たまのサウナが癒やしだったんだよな」
くう、思い出すだけであの高温多湿の室内に入りたくなってくる。サウナへ行きたい気持ちが疼き出す。
「なるほどな」
ファウストは薄く微笑み、顎に手を当てる。
「僕はサウナは馴染みがない。北の国に居た時にも入ったことがないんだ」
「そう……」
ファウストもサウナ経験者とばかり思っていたのであてが外れた。仕方ない。引きこもりのファウストは、サウナなんて暑くて裸の人だらけでプライバシーの欠片もないところは好きじゃないだろうから、俺一人で行くことにしよう。と、諦めかけたところで、ファウストが意外にも興味を示した。
「行ってみたいな」
「なんで!?」
「行ったことはないけど、君と一緒なら……と……思って……」
恥ずかしそうに、ものすごく歯切れ悪くもじもじしながら言ってくる。
「いや、そういうことなら是非」
「ああ。ただし、サウナのマナーだとか、僕は全く知らないから君が教えてくれよ」
ファウストは謎の決意を込めた、真剣な表情で言うので笑ってしまう。
「難しいルールなんてねえよ、真面目なあんたなら大丈夫。俺の好きな入り方なら教えてあげられるけど」
そう返すと、ファウストはためつすがめつうなずいた。
***
「ここ、暑すぎないか? 大丈夫なのか?」
オープン直後の混雑が落ち着いたであろう時期を見計らって俺とファウストは二人でサウナに来た。木のかぐわしい香りのするサウナ室の中段に腰掛けながら、ファウストは浮いた額の汗を手の甲で拭った。俺にとっては懐かしく心地いい暑さなのだが、初めて体験するファウストにとっては暑かろう。
「大丈夫、10分くらい過ぎたら一旦出て、水風呂に入ってから休憩するんだ」
「水風呂……?」
水風呂って何? そう顔に書いてある。
「水の風呂だよ。サウナで温まった体を冷ますためにある」
「大丈夫なのか……?」
「大丈夫。むしろ入るとあったかく感じて気持ちいい」
「あったかく……?」
ファウストは怪訝な顔をしたが、そうとしか言えない。
「休憩してクールダウンしたら、またサウナに入る」
「何故!?」
ファウストはこめかみから汗を垂らしながら不思議でたまらないと言いたげな顔をしている。
「なんでって聞かれるとわからない。でも俺はそうやって入るかな。汗かいて、休んで、を繰り返すとめちゃくちゃ気持ちいいんだよ」
「そういうものか……」
帰る、と言い出すのではないかとちょっと焦ったが、ファウストはじっとすることにしたらしかった。
「我慢大会じゃないからしんどくなったら言えよ」
「既に僕にとっては我慢大会なんだが……」
ファウストは困った顔をしたが、思い直したように微笑んだ。
「でもありがとう、限界を感じたら言うよ」
そして、恥ずかしそうにこちらを見ながら、そっと掌を俺の手の甲に一瞬だけ重ねた。思わぬタイミングで親愛を示されて大いに照れる。
「ファウスト……」
ファウストはしたたるほど汗をかいてもピンと背筋を伸ばして優しそうに笑っていた。
ファウストとはほんの最近、友人から恋人になった。俺としてはものすごく久しぶりの恋人だ。全く意識せず友達からスタートしたものだから、恋人なんて過去に何人もいたはずなのになんでもかんでもいちいちどぎまぎしてしまう。それに、恋人なんていりません、みたいな顔をしたファウストが甘い微笑みを向けてくれるのはどうしようもなく嬉しい。ファウストはいつもつとめて陰気な顔をしているが、笑うとたいへんかわいいのだ。
ファウストが暑いというのでサウナから出た。一回目の水風呂である。
「最初はちょっとかけるだけでいいから、無理すんなよ」
俺は慣れているので水風呂に肩までつかる。ちょっと手先をつけてその冷たさに全身の毛が逆立つほど驚いたファウストは、信じられないものを見る目でこちらをみた。
「ちょっと待ってて、すぐ出るから」
水風呂から上がると、バスローブを羽織って休憩室に置いてあるカウチに並んで横になる。
「そんで、ちょっと休憩したらまたサウナ。サウナ、水風呂、休憩。これを一サイクルとして何回か繰り返すんだ」
はあ、そういうもの? ファウストはよくわからない、という顔をしながらも頷く。一度懐に入れた相手には甘いのだろう。もちろん危険があるわけではないが、あのファウストが俺に言われるがままに後をついてくるのか可愛らしく、なんともくすぐったい気持ちになる。
サウナで雑談を交わしながら、ファウストの横顔を盗み見た。漠然と整っている、とだけ思っていた顔は、今となっては世界で一番美しく愛らしい顔である。面と向かって凝視できないくらいに。
ファウストの線の細さは服の上からもわかったが、実際かなり痩せていた。肌はほんの少し俺よりは色が濃いけれど、体の年齢が俺よりも若いせいか肌自体が薄そうで滑らかだ。
ファウストの体を見るのは悪いことをしているような気がした。サウナに誘った以上、体を見せ合うことになるのは百も承知だったが、不躾な視線を向けることなど到底できない。いつかは触れてみたいと思うが、それはこの胸の高鳴りがもう少し収まってからになるだろう。少年に戻ってしまったのかと思うくらい、顔も見られないし手も繋げない自分がおかしかった。
「君はきれいだね」
横に並んで座っているファウストが、正面を向いたまま言った。
「何が?」
「筋肉。きれいについてて羨ましい。体を使って料理をするからだ」
あんた、俺の方全然見てねえじゃん。でも俺も盗み見るだけなのでお互い様なのだった。俺たちは似たもの同士だ。
「先生もきれいだよ。白くてすべすべしてる」
「君みたいに筋肉があれば良かったかもね」
「俺としてはもうちょっと太ってほしいかな。心配になっちまう」
「……善処するよ」
「そろそろ出よっか。もう時間だし」
「うん」
それはほんの少し甘えた声色で。時たま甘えるように言葉をかけられるとどきんと胸が高鳴る。そんな声も出すのかよ。きゅっと胸が締め付けられて、嬉しく苦しい気持ちになる。それは、サウナの暑さに耐えることに似ているかもしれなかった。
二度目の水風呂は、ファウストもほんの一瞬肩まで浸かることができた。休憩、サウナ、水風呂、そして、最後は長めに休憩。
カウチで並んで横になっていると、ファウストがぼんやりとしていた。
「大丈夫?」
一応、具合が悪いのかどうか確認する。
「大丈夫。ちょっとぼんやりしただけ」
「ああ。存分にぼんやりしてて。俺もぼんやりするから」
「ん……」
それだけ返すと、ファウストは目を閉じてしまった。
いわゆるサウナハイというやつである。通はこれを『ととのう』と言ったりもする。俺はこのサウナハイのためにサウナに来ていると言っても過言ではない。何度かサイクルを繰り返した後、水風呂から出てカウチで体を休めていると頭の中がどんどん静かになって、一種の瞑想に近い状態になることがある。
この瞑想状態がどうにも心地よく、やみつきになるのだ。体がとろりととけていくような、水の中をゆらゆらたゆたうような。
しばらくして目を開けたファウストは、頬を染めて、サウナって気持ちいいね、としきりに感動していた。ファウストがサウナの良さを知ってくれて嬉しい。となれば、さらに魅力的なお誘いをするべきだろう。
一種の堕落かもしれないが、無上の快楽への誘い。抗えない誘惑。
「ファウスト、ロビーには食堂がある」
「あったな。喉が乾いたしお茶でもして帰る?」
「いいや。もっといいことしよう」
「なに」
「行きがけに見たんだけど、ビールがあるぜ。しかもキンキンに冷えてるらしい」
北の天然氷で冷やしてあるんだとか。耳打ちすると、ファウストの面構えがスッと変わった。
「ビールだと……?」
「そう。この乾いた体に」
「……ビール!」
サウナハイにとろけていたファウストの瞳がぎらぎらと輝きはじめる。酒好きなら当然そうなるだろう。俺も同じ気持ちだ。今、乾き切った体に、冷えたビール。絶対に美味い。最高の休日はまだまだこれからだ。
***
数時間後、俺とファウストはホクホク顔で魔法舎に帰還した。サウナで気持ちよくなって、昼間だというのに美味い酒まで飲んだ。この後素知らぬ顔で晩飯も食べるが、既に酒を飲んでいる。普段子どもたちの前では絶対出来ないことで、二人でデートに行ってちょっとはしゃいでしまったのもまたいい。
「ネロ、今日はありがとう。その……はじめてだったけど、すごく……すごく気持ちよかったよ」
魔法舎のロビーに差し掛かった所でファウストは足を止めた。俺はこのままキッチンへ向かうのでここでお別れだからだ。
「そう? 先生が気に入ってくれたなら俺も嬉しいよ」
ファウストが楽しんでくれたと思うと思わず笑みがもれる。
「最初はちょっと恥ずかしかったけどね。君は色々詳しいんだな」
「それほどでも……」
そこでふと顔を上げると、階段から降りてきた、ものすごい憤怒の顔をしたフィガロと目があった。
し、しまった…………! とんでもない部分だけ聞かれてしまった……。
足音がしたのでファウストも口をつぐみ、フィガロの方に向き直る。
「おかえり。石鹸のいい匂いをぷんぷんさせてるじゃない?」
どうなるかと思っていたら、フィガロが表面上はにこやかに声をかけてきた。もちろん、これは『ラブホテルに行ったのはわかっている。恥を知れ。俺の可愛い弟子に変なことをしたら石にする』という意味である。言われなくてもわかる。顔に書いてある。
ところが、何もやっていないのである。
俺の背中を冷たい汗が伝う。正確にはまだしていないだけなのだが、うまく隠そうと思っていた。こういう方向からバレるとは思いもしなかったので焦りまくる。
「僕とネロが何をしようと、お前には関係ないだろう」
ことが飲み込めていないファウストが早急に火に油を注ぐではないか。
「関係なくなんてないよ。君に変な虫がつくんじゃないかって俺は心配なんだ」
人を変な虫扱いするとは失礼にも程があるが、殺傷能力の差が尋常ではないので何も言い返せない。
「風呂に這入ったんだぞ。変な虫なんてついてない。僕らは風呂が好きなんだ」
目眩がした。火に油どころかガソリンである。
ファウストがちょっとぷんすか怒りながら言うのを、ああかわいいなとぼんやり見つめる。事実、比喩抜きに風呂が好きなのだが、フィガロにしたら逆に何を言っているのかさっぱりわからないはずだ。刺々しい雰囲気は悪化するばかりであり、俺の冷や汗は止まらない。
「いや本当にサウナに行っただけなんだよ。な? ファウスト?」
「そうだとさっきから言っている」
「サウナ? 本当に?」
フィガロは腕を組み、訝しげにじろじろとこちらを見た。
「ほんと。ほんとだって」
「ふうん……? じゃあ今度俺も一緒に行っていい?」
良いわけがないだろうが。なんでデートにあんたがついてくるんだよ。とは言えず、俺は必死で頷いた。俺もまだ命は惜しい。
「嫌なんだが」
ファウストは言ったが、誰も返事をしなかった。
「フィガロがついてきたら嫌なんだが!」
後日、気まずすぎる地獄のサウナ会は開催された。
なんでこんな目に。そう思いながら、静かに汗を流す。今日はビールはなしだな。俺は嘘は苦手なので、酔っ払ってファウストと手を繋いだりしちまうかもしれないし。この間部屋で手を繋いで触れるだけのキスをした。つまり軽いスキンシップが解禁になったので、正直めちゃくちゃ浮かれている。危ない。全くリラックス出来ないままカウチに3度目に横になった時、隣でフィガロが深く、細く長い息を吐いたのが聞こえた。
***
「いやあ……俺も好きではあったんだよ? でもさ、あんなに気持ちいいやり方があるなんて思わないよね」
「だろう、ネロはすごい」
「そうでもねえよ」
俺は困惑した。フィガロがサウナハイを知らないとは……。
勝手に何度も命の危険を感じながらサウナに入浴し、やっとのことで魔法舎に帰り着いた時には、フィガロもファウストもすっかりご機嫌だった。
「本当に最高だったよ。またよかったら三人で気持ちよくなろう?」
生きた心地がしないので二度目は勘弁願いたいが、どうしてもというなら断るのも悪い気がする。それに、これをきっかけにファウストとの関係を多少なりともフィガロが認めてくれるならそれも悪くないという打算もあった。
「はは、ぜひまた」
「僕は嫌だけど」
「でも気持ちよかったろ?」
「それはそうだが……」
フィガロに説得されそうになるのがファウストらしい。俺たちは二人して押しに弱いのだ。
「じゃあまたあんたも誘うよ。楽しんでくれたみたいで何より。汗かいたから水分取れよ」
もう夕飯の時間だった。食堂に着いたので、フィガロと別れ別々のテーブルにつく。なにはともあれ、ご機嫌で帰ってくれて良かった。ほっと胸を撫で下ろし、食事の後ファウストと部屋でいちゃいちゃできたらという期待で頭がいっぱいになる。そのせいで、俺は後方のテーブルでブラッドリーがフライドチキンをかじっていることには気付かなかった。
「ネロ、あいつ、フィガロと呪い屋とで3Pしてやがんのか……?」
またしてもあらぬ誤解を招いているのだが、それはまた別の話である。