きみはコットンキャンディー「またな」
「さようなら」
まだまだ賑わう夜の繁華街で、僕らはごく何気なく手を振り別々の方向へつま先を向けた。また明日があるかのように。
今朝、魔法舎の共同生活が終了した。僕は魔法舎に留まる理由はなかったので自宅に戻ることに決めていた。通り道だったこともあって、なんとなくネロと雨の街まで一緒に帰ってきて飲み屋で飲んだ。次の晩酌はいつかな、なんて軽口を叩きながら。そう、そこまではよかったのだ。そこまでは。しかし、最高のチャンスがすぐそこまで訪れていたというのに、僕はさっさと帰ってきてしまった。
嵐の谷の自宅にたどり着いた時には日付が変わっていた。投げやりな気持ちになって、身支度もそこそこにベッドに横になって目を閉じる。今日もネロと楽しく酒を飲んだ。別れ際、ほんの少しくらいは名残惜しそうな顔をしてくれていたと思う。しかし、僕はそれをすげなく振り切って帰ってきてしまった。『またな』に『さようなら』はないだろう。『明日は雨の街の動物園に行きたい』とかなんとか言ってネロの家に泊めてくれるよう頼めば良かった。家まで行けば、ふたりきりで過ごせるし、ネロのことをもっと知ることができたかもしれないのに。だけど臆病な僕は、恥ずかしいし呆れられてしまうような気がして、どうしてもできなかったのである。
数時間前の出来事を反芻するとため息しか出ない。眠ろうと思うのに、後悔ばかりが湧いてきてうまく眠れそうにない。そのうちに意識を失い、気付くと翌日の太陽が嘲笑うかのようにてっぺんから僕を見下ろしていた。
水を一杯飲んだ後、一人きりの静かな家でのろのろと荷解きに取り掛かる。体が重い。この荷物を解くと、魔法舎での生活もほどけてばらばらになってしまいそうで気が進まなかった。
もうお気づきだろう。そう。つまり、僕はネロに恋をしているのである。
いつからかなんて覚えていない。気付いた時には恋に落ちていた。ネロはかっこいいのに可愛いし、笑った顔が見られるだけで嬉しくて、一緒に過ごす時間が本当に楽しかった。感情をうまく言葉にして伝えることはできなかったけれど、少しの期間でも好きな相手と一緒に暮らすことができて良かったと思う。
ため息をつきながら鞄を開けて服や呪具を取り出していると、すみに見慣れないものが入っていることに気がついた。不思議に思って取り出すと、それは小さなぬいぐるみであった。人の形を模したぬいぐるみで、手のひらほどの大きさだろうか。フェルトでできた髪は水色で、くりくりと大きい瞳は黄色で刺繍されている。その色合いが彼に似ている気がして顔が自然とほころんだ。よく見てみると、ぬいぐるみが着ている服はネロのそれにそっくりだ。白いシェフシャツに腰に巻くエプロン、黒いズボン。
「ネロみたい」
思わず口に出ていた。すると、僕の手の中でぬいぐるみがもごもごと動き出すではないか。
「ね!」
「えっ!?」
鳴いた。ぬいぐるみが鳴いた。びっくりしていると、ネロのようなぬいぐるみ――便宜上ここから『ネロぬい』と呼ぶことにする――は僕の手からぴょんと机の上に飛び降りて、机の上に置いてあった空の朝食プレートを指さした。
「ね……」
そして、しょんぼりとした仕草でお腹をさする。
「お腹が減ってるのか?」
僕が尋ねると、ネロぬいは頭を揺すって頷いた。
「クッキー食べるか? ネロが焼いてくれたんだ。絶対に美味しい」
昨日飲み屋で渡してくれたクッキーが外套のポケットに入っているので取り出して見せる。しかし、ネロぬいはふるふると頭を横に振った。
「違うの? クッキーは食べられない?」
尋ねてみると、ネロぬいはこくりと頷いた。
「飲み物は?」
ノー。
「パンや卵は?」
ノー。
「綿や布は?」
ノー。
「魔法使いのシュガーは?」
ネロぬいはぴょこんと跳ねて、『ね!』と可愛い声で鳴いた。
「少し待って」
僕も魔法使いなので、シュガーを作るのは得意である。しゅるしゅる、とふたつみっつこしらえて小皿に載せてやると、ネロぬいはぴょんぴょんと跳ねて嬉しそうに僕の手にまとわりついた。
「ふふ、どういたしまして」
どうやって食べるのかはわからないがネロぬいはさっそくシュガーを抱えていた。今気付いたが、刺繍の口が少し空いていて、ぽんやりした表情なのがなんだか癒される。
とはいえ、どこから紛れ込んだかもわからない人の形をしたものには警戒を禁じ得ない。僕を油断させる罠かもしれず、ネロぬいの食事中にそっと集中して探索してみることにした。シュガーはネロぬいの口のあたりで吸収されていくので、これ幸いとばかりに吸収された僕の魔力を媒介に内部を探る。ところが、いくら調べてもネロぬいからは僕とネロの魔力の気配がするだけで特に悪しきものの気配はしなかった。つまり、ネロぬいは僕とネロの魔力の気配をまとったかわいらしいぬいぐるみなのである。
しかも、ネロの魔力の気配はするものの、昨晩飲んだ時既に鞄の中にネロぬいがいたのであれば、ネロから魔力が移っていても不思議ではなく、なんとも言えなかった。
もしかしたらクロエが餞別の品としてくれたのかもしれない。説明がなかったのは解せないが、西の魔法使いらしくサプライズプレゼントである可能性は否定できなかった。
*
僕とネロぬいの同居生活が始まった。最初は多少怪しんでいたが、特に何も起こらなかったのですぐに警戒はとけた。というか、それまで魔法舎で賑やかな生活を送っていたので急に訪れた静かな生活はほんの少しばかり物足りなかった。ネロぬいは仕草も可愛らしく、僕にもよく懐いたので、物足りなさをかなり忘れさせてくれた。
同居をはじめて最初にしたことは、ネロぬいの巣作りだった。僕はエルダーフラワーを詰む時に使うカゴを出してきて、クッションになりそうな布を何枚か敷いてやった。そして、昔、ネロが贈ってくれた僕への誕生日プレゼントにくっついていた稲穂が密かに取ってあったので、かごの側面に紐で括り付けて飾った。僕は執念深いのである。それにはネロぬいもかなりご満悦のようで、嬉しそうにカゴの周りでしばらく踊っていた。ネロぬいは完成した素敵な巣にもぐりこんで、ごろごろしながら窓の外なんかを眺めてリラックスしている。そういえば、ネロはよく昼寝をしていたな。思い出すとまた頬が緩む。
ネロぬいはネロと同じくよく気がついて、しばしばおてつだいをしてくれる。僕が料理をしていると、塩の瓶を僕の方に一生懸命押してくれるたり、僕が畑仕事をしていると一緒に来て細かい雑草を抜いてくれたりした。お昼寝から目覚めて僕の姿が見えないと、おろおろしながら一生懸命歩いて探しにきてくれる。一度野外で鳥に攫われそうになった時は焦って、無事鳥を追い払った後、冷や汗をかきながらぎゅうと抱きしめた。どんぐりをくり抜いておわんやコップを作ってやると、しばらく大事そうに抱えていてとても可愛かった。
また、ネロぬいは足が短いので基本的に僕の肩に載せたり服のポケットに入れて一緒に移動するが、森に散歩に行って休憩する時などは地面に降ろしてやる。降ろすとネロぬいはとことことしばらくあたりを歩き回り、必ず草花を数本摘んで僕に渡してくれるのだ。
「くれるの?」
「ね!」
「ありがとう」
お礼を言うと、ネロぬいは僕の手にぎゅうと抱きついてくる。健気でなんて可愛いのだろう。
なんやかんやでふた月ほど一緒に暮らしたが、僕はすっかりネロぬいにめろめろだ。
一緒に生活をしているとどうしても汚れてしまうので、2、3日に一度は一緒にお風呂に入る。そして、夜は僕のベッドで一緒に眠った。
「おやすみ、ネロ」
僕が声をかけると、僕の枕元あたりにいたネロぬいは掛け布団のタオルからもごもごと出てきて、僕に頬擦りをしてくれた。本当に可愛い。あまりの可愛さに、僕は思わずネロぬいにおやすみのキスをした。
「ふふ、僕のファーストキスだよ」
おどけて言うと、ネロぬいはこんな顔(><)になりながら、しばらくシーツの上をころんころんと恥ずかしそうに転がった。
「可愛い」
ネロぬいは、意を決したようにそっと僕の布団に入ってきて、僕の隣に横になった。これまでは同じベッドの上でも掛け布団は別であったが、今日からは完全に一つの布団で寝ることとなった。その様子がなんだかおかしくて、ネロぬいのほっぺを突くと、恥ずかしそうに僕に背を向ける。きっとネロも同じような反応をするのだろう。可愛い。
「ネロ」
呼びかけると、ネロぬいは渋々といった仕草でこちらを振り向いた。可愛い。
「呼んだだけ。おやすみ」
もう一度おやすみのキスをしてから、仰向けになって目を閉じた。ネロぬいは布団の中をころんころんと転がっていた。ああ、可愛い。
……まあ、お恥ずかしい限りだが、間違いなくこれは巷でいうところのノイローゼである。自分でもわかっている。多分、なんていうか、自覚はないのだがこれは全部僕の自作自演である。下手したら、ネロぬいと言う存在自体が幻覚なのかもしれない。ぬいぐるみが動くわけがないだろうが。ネロぬいってなんだよ。ネロが恋しいからってこれはないだろう。
恋って怖い。本当に馬鹿になる。なんて恐ろしいものに手を出してしまったのだろうかと僕は恐怖に震えた。
起きればネロぬいは昨日と同じようにそこにいたし、相変わらずとても可愛らしく僕に笑いかけてくれた。シュガーをねだられたので、いくつか作ってやる。ネロぬいが喜ぶので、ねこの形やウサギの形も作れるようになった。ねこのシュガーを作ってやると、とてとて、と僕に近づいてきて、ネロぬいは心底嬉しそうに僕の右手の薬指にキスをしてくれた。
「う……っ」
正直、こんなことをされると僕もすごく嬉しい。まんざらじゃない。なんていうか、昨晩と言っていることは真逆だが、もう、幻覚でも良いのかもしれないと思った。ネロがそこにいない事実を受け止められるようになるまでなら。
もはや、僕がネロぬいにとってあまりに大きいことが悔やまれた。僕の大きさに難儀しているネロぬいを見ると申し訳なく感じる。ネロぬいと同じくらいの背丈なら、ぎゅーっと抱き合うこともできるのだろう。それを試してしまうと後戻りができない領域に足を踏み入れてしまう気がするのでやらないが。
ネロぬいの食事を眺めていると、玄関扉を叩く音がした。ここに来る者といえば呪い屋の依頼だろう。よし、居留守を使おう。僕は瞬時に決心した。今はもっと大変なものの相手をしているので余裕がない。喪失とやり場のない恋心を飼い慣らすのにはもうしばらくかかる。
しかし、もう一度ドアはノックされた。ややあってからもう一度。コン、コン、コン、コン。僕ははっと顔を上げた。4回ノックは晩酌の時のネロの合図だったからだ。
急いで立ち上がり、駆け寄って玄関のドアを開ける。そこには、予想通りの相手が立っていた。
「ネロ!」
「先生……来ちゃった。悪いな、予告もなしに」
ネロは灰青の髪を揺らした。ばつが悪そうな顔をしながらも『飲みたくねえ?』と言わんばかりに手土産のワインを掲げて僕に見せつけるのがちょっとずるい彼らしい。
「帰れなんて言わない。入って」
「そうなの? 緊張して損したよ」
ネロはやっと表情を和らげて、控えめな、僕が大好きな笑顔を浮かべた。嬉しい。会いたかった。そろそろ会いに行こうかな、けれど、会ってしまったら辛くなるかもしれないと迷っていたところだった。ネロの方から来てくれるとは思わず、涙が出そうになる。
「何もないんだけど、ゆっくりして行って」
僕が振り返ると、ネロぬいがテーブルの上でぽかんとした顔をしてネロを見つめていた。
「ね……」
「は……?」
ネロもぽかんとした顔でネロぬいを見つめている。それから、ばっと僕の顔を凝視してものいいたげに口をもごもごと動かす。
「あ……っ」
(まずい……! 見られてしまった……!)
テーブルの上のカゴは、ネロぬいをすごく可愛がっていることがありありとわかるし、ネロぬいは明らかに僕製のねこのシュガーを大事そうに抱えている。もう、完全に言い逃れができない状態だった。何これ? どういうこと? キモいんだけど。ネロはそう思っていることだろう。今すぐ野外に飛び出したい衝動に駆られたが、そういうわけにはいかない。困惑したネロを放って逃げるのは忍びなさすぎる。
「あ……あの……す、座って……?」
僕がしどろもどろになりながら話しかけると、ネロの胸ポケットから、何かが覗いているのが目に入った。
「ふぁ!」
「あ……!! ちょ、ちょっと……出てくんなって言ったじゃん……?」
なぜかネロもしどろもどろになった。
「ふぁ! ふぁ!」
しかし、胸ポケットの何かは、ネロの静止などこれっぽっちも聞きやしない。ネロはまいったな、と言わんばかりに胸ポケットの主が主張するがままにテーブルに近づくと、大事そうな手つきで主をそっとテーブルに下ろしてやっていた。
ポケットから出てきたソレをよく見ると、ソレもまたぬいぐるみであった。ネロぬいと同じく人の形をしていて、少しウェーブした茶色い髪に紫の瞳、サングラスをかけて帽子をかぶり、黒い服を着ている。
(僕……?)
「ファぬい」
ネロはそれを『ファぬい』と呼んだ。したがって、ここからはネロの持ってきたぬいぐるみを『ファぬい』と呼ぶこととする。
「ね……」
ネロぬいは、初めて出会ったファぬいを、信じられないものでも見るような目でじっと見つめて、呆然と立ち尽くしていた。
「ふぁ……」
ファぬいも、そわそわと落ち着かない様子だ。
「ネロ……君も……?」
「ああ……なあ……これって……」
「「夢じゃないよな?」」
僕らはお互いの顔を見合わせて、デュエットした。
「あ〜……俺の妄想的なものかと思ってたんだけど……」
「僕も……。まあ、違うみたいで良かったというか」
「良くはないんだけど……。てことは、こいつらは仕立て屋君が作ってくれたのかな」
「どうだろう……何も痕跡がないからわからないな……」
「まあな……」
単なる針仕事なら魔力の痕跡は残らないだろうから、真相はわからない。僕らは、巣で二人(二匹?)寄り添って座るネロぬいとファぬいを眺めながら、相変わらずしどろもどろで近況報告をした。
「ね」
「ふぁ!」
「ね……ね! ね!」
「ふぁ……!」
僕らをよそに、ネロぬいとファぬいは、先ほどから見つめあって熱心に僕らにはわからない会話を交わしている。
「なんていうか……」
「ん……」
ネロがこちらを伺う。
「だめだよ。あんたがいないと、調子狂うっていうかさ」
「そうだね、僕も、そうかも」
話していてもそわそわと落ち着かない。恋焦がれていたネロに会えたこともそうだが、幻覚だと思っていたネロぬいは幻覚ではなかったし、なんならネロはファぬいを連れていた。意味がわからない。ワンルームだと思っていた混沌が2LDKになってしまった。
「帰ったら鞄の中から出てきたからびっくりした」
「ね……」
「ふぁ……ふぁ……」
「僕も同じ。どうしてた? 最近はどう?」
「ね……ね……」
「ふぁ……」
「店再開した。まあまあ客も入ってるよ」
「ね……」
「ふぁ……」
「そっか。それは何より」
「先生……あ、いや、ファウストは?」
「僕? ぼ、僕は……」
「ふぁ!」
僕が話す内容も考えないまま口を開いたところで、ファぬいが何かを思いついたらしくネロの持ってきたバスケットにもぐりこんだ。もごもごと中を漁っている。
「ね……ね……」
ネロぬいが呼びかけると、ファぬいがひょこっと顔を出した。さきほどの黒い装束ではなく、ふわふわでもこもこのねこの着ぐるみを身に着けて。
「おわっ!!! ちょ……よせって……」
ネロは恥ずかしそうに目を白黒させている。
「かわいい! どうしたの? これ、君が作ったの?」
「ふぁ!」
ファぬいは嬉しそうにネロぬいに近付いて、ネロぬいの前でくるりと一回転した。
「あ、いや、店によく来る婆さんがいてさ。たまたまファぬいを見られて、やばいって焦ったんだけど、裁縫が得意らしくて作ってくれた」
ネロは苦々しい顔をして言った。
「へえ。服を作るなんて考えもしなかった」
「俺もだよ。でもできてみると案外可愛いよな。猫なのはたまたまだけど、あんたも喜ぶかなって思った」
「かわいがってくれてるんだね」
なんだか僕まで嬉しくなる。ネロが少し寂しかったらもっと嬉しいけれど。
「まあね。思い切りが変にいいところがあんたに似てるよ」
「そう」
「ね……♡」
ネロぬいも、ファぬいがかわいらしいらしく、フードの耳にふれたり、ぎゅっと抱きついたりしている。
「ふぁ……♡」
ファぬいも特に嫌がるそぶりもなく、ぎゅうぎゅう抱き返して応じていた。
「う……」
先程までほっこりしていたが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。僕らっぽいぬいぐるみがイチャイチャしてるのを見ていると平静ではいられない。
「えっと……」
困ってネロの顔を見ると、ネロの頬がほんのり赤く染まっていた。
「あのさ……本当にあんたに会いたかった。あれでお別れになったらどうしようかと」
「ネロ……」
「ぬいは俺の仕業じゃない。でも、あんたと一緒にあんたの家に帰れたら……とは思ったよ」
みるみるうちにネロの顔は真っ赤に染まっていって、僕は、ネロが僕と同じ気持ちであったことを知った。
「僕も……もっと君と一緒にいたいって思ってた」
僕も顔が真っ赤だった。
つまり、二匹のぬいぐるみ達は僕らの気持ちが無意識に形になったものなのだろうか。そう思うと、色々なことが腑に落ちるようには思える。
「良かったら、二、三日泊まっていってくれ」
僕は、やっと言うべき言葉を言えたと思う。ネロにずっと言いたかったし、言うべきだった。君が恋しいと。
しかし、ネロは悲しみに顔を歪めて申し訳なさそうな顔をした。
「あ……いや、今日はごめん。明日朝一番に予約が入ってるんだ。こんなことになると思わなくて。顔見れたらいいやって思って来ただけで、色々中途半端で来たからさ。ほんとごめん……」
ネロは一回り小さくなったのではないかというほどしょげている。
「いや、気にしないで。仕事ならしょうがない」
「ごめんな」
そんなに謝られると困るし、ネロもわたわたと慌てていた。
「じゃあさ……」
僕は恐る恐る口を開く。
「迷惑でなければ、次の休みに僕が君の家に行ってもいい? 雨の街の動物園に行ってみたくて」
「ああ……! うん……うん。そうだな」
ネロは顔を輝かせ、瞳をうるうると潤ませた。
「是非来て。家片付けとくからさ」
ネロは恥ずかしそうに微笑み、僕の顔を熱っぽい瞳でじっと見つめた。
「初めてのデートじゃん」
ネロは期待を滲ませた視線をこちらに投げかけてくる。
――ど、どうしよう。どうしたらいいかわからない。デート。確かにそうなんだが、そんなつもりじゃなかったから何て返したらいいのかわからない。しかも、デートなんて言われると俄然心臓がドキドキしてきた。デートか……。そうか……。
「……お、お茶でも入れるね」
申し訳ないのだがもう僕にはこれくらいしか言うことが思いつかなかった。色々あったとはいえ、今の今までお茶すら出ていないのは客人に対して失礼であることに今ふと気付いた。ガタガタと椅子に躓きながら立ち上がると、ネロも焦ったように一緒に立ち上がる。
「ファウスト……!」
「へ!?」
「ごめん、茶化すつもりじゃなくて……悪い」
「ああ、いや……大丈夫。デートだと思ったら……なんて言っていいかわからなかっただけ」
「そっか」
ネロは安堵の表情を浮かべると、僕の肩に軽く触れて自分の方に向かせた。そして、慎重すぎて不器用と言っていい動きで僕の両手を握り、泣きそうに瞳をゆらゆら揺らしながら、切なく微笑む。
「どうして僕らは約束ができないんだろうな」
ネロは薄闇のさした金色の目を見開いた。そこからは言葉はなく、僕らは真っ赤な顔を見合わせながら、そっと体を近づけておそるおそる抱き合った。嬉しい。胸がきゅんとする。やみつきになりそうで怖い。400年以上も生きていて初めての恋には翻弄されっぱなしである。恥ずかしい。でも……やっぱり気持ちが通じたのは心底嬉しい。
様々な柔らかい気持ちが混ざり合って、ふたりの胸は暖かいもので満たされていった。
*
ネロが帰ってからも僕の胸のドキドキはおさまらなかった。久しぶりに過ごしたひとときを思い出すだけで動悸がする。しかも来週はデートか……。たまらないな。どんな服を着て行こうかな。
「ね……」
ネロぬいはテーブルの上に投げ出した僕の腕に乗ってきて、もの寂しげに鳴いた。
「きみも孤独を知ってしまったか」
「ね……」
「その気持ちはよくわかる」
ネロぬいとファぬいはもうすっかり仲良しである。手を繋いでお散歩したり、追いかけっこをしたり、ごっこ遊びをしたり、何か嬉しいことがあるとぎゅうぎゅう抱き合ったりして微笑ましい。
親愛の示し方として、ネロぬいは手を繋いだりなでなでしたり、せいぜいぎゅっとするのが主だった。それは僕がそんな風に接しているからで、僕とネロぬいのコミュニケーションはいつもこうなのだ。そこで気になったのだが、一方、ファぬいはとにかくハグとキスみたいな仕草が多かった。ぎゅっとして、ちゅ。しかも結構ファぬいは積極的でネロぬいはちょっとびっくりしていたほどだ。
つまり……。僕は顔が赤くなった。ネロは、多分、キスが好き。恋人とどうかはわからないけど。
これから僕はどうなってしまうのだろう。色々想像してしまって、胸の高鳴りがいつまでも止まらなかった。ネロぬいをぎゅっと抱きしめると、ネロぬいもなんらかの戸惑いを感じているらしく、「ね……」と切なげに鳴いた。