36と彩蛋の間1──────────────────
こぼれ落ちる手を掴み取る。
目の前の白髪の男は、今まで見送ってきた大切な人々と同く真っ白な顔をしていた。
──────騙された。
なぜ気付かなかったのか、怒りに震える前にやらなくてはいけないことがある。
恐らく全てが嘘ではないはずだ。確か、全て破壊されてから再構築されると…ならば、目の前の男も先程の自分と似たような状態のはずではないか?それであれば同じ様してに気を送れば戻ってくるのでは?
手を握りしめ、気を送る。送りながら考えた。このまま気を送り続ければ、恐らく自分が事切れる。ふたりで逝くのならそれも悪くはないが、立場が入れ代わっただけでうっかり師弟だけ残ってみろ…後始末が大変そうだ。
全ての気を送るのではどちらかが逝くことになるのか?ならば半分送ろうか?駄目だ、先程は相手の気を全て注がれたからこそ内傷が癒え五感が戻ったのだ。今ある全てを注がなければ男が目覚める可能性は低いもかしれない。
一人しか生き残れないのか?
ならば、このまま二人で逝こうか……
けれど、全てをかけて繋がれた命を自分の手で絶てるだろうか…
二人とも助かる方法は何かないのだろうか…
「ふたつ」だと考えなければいいのではないか?
掴んだ手に更に力を込めた。
「ひとつ」しか救えないのなら、ふたりの体をひとつとして循環をさせれば、切り抜けられないだろうか。
持てる気をかなり送ってしまい、少し眩暈がする。相手に意識があれば送ったものを此方に戻して貰えるが、今は無理な話だ。
相手から気を吸い取ることなどしたことがないが、やるしかなかった。
ゆっくりと息を吸いながら、相手に巡る気を探る。蛭が血を吸う様に手のひらから相手の気を吸い上げることに意識を集中させた。何度が繰り返せば、温かいものが徐々に手首、肘と伝わってきて、先程感じた眩暈が薄らぐのを感じた。再び自分に巡った気をもう一度相手に注ぐ。
送っては吸い込む事を繰り返し、慣れてきたら、片方の手から気を送り、もう一方から吸い込み、気の流れをふたつの体で循環させた。
「老温」
息を吐き出すように口に出た。
必死だった。循環させてからもうどのくらいの時が過ぎたのかわからない。この行為が成功なのか、失敗しているのか、いつまで自分は続けるつもりなのか検討もつかない。ただ、止める気にはならなかった。
「老温」
名を呼び続ける。もうこの言葉しか知らない様な気分だ。
出会いは随分昔だったが、この名で呼び始めたの最近のことなのに一体どのくらい呼んだのだろう。そう考えていた時、掴んだ手に微かに動いた様に感じた。
「老温」
名を呼んでも、白髪の男を見ても反応はない。
気のせいだったのか、そうだとしてもやめなければいいだけの話だ。
ふたりとも生きられるのかはわからず、ここは太陽の光が届かない暗闇だ、けれど俺がまだ名前を呼べるのだから何度だって繰り返せばいい。
「老温…」
手のなかの指が弾かれたように動いた。指先が今度はしっかりと確かに動いた。
「!」
白い頭が持ち上がり、睫毛が揺れ、ゆっくりと瞳が開かれる。
「阿、絮…」
「老温!」
掴んだ手を強く握る。
巡る気で白髪を揺らし、ぼんやりと開かれた瞳は少し微笑みかけ……途端に限界まで見開かれた。
「阿絮!何してるんだ!」
掴んでいた両手を弾かれ、勢いよく振りほどかれた。
「バカか!手を離すな!施術の途中だ!」
「は?なにを言ってる?バカは阿絮だろ!私に力を送るなんてっ!」
循環していた気が断たれてしまった。
だが、俺も老温も動けているということは、成功したのだろうか。成功とはなんだ?今、自分達がどの様な状態にあるのかが全くわからない。何か、何か手掛かりになるものは……
「老温、話は後だ!陰陽の書はどこにやった?」
「は?さっき君に渡したろ?そんなこ…」
「陰陽の書と…あと何か医学か経脈に関する物を探せ!今すぐだ!」
「阿絮…」
「俺を死なせたくないなら探せ。」
「っ!」
白髪が少しふらつきながら、直ぐさま動き出した。
何が起こっている?
自分も探しつつ、何か手掛かりになることはないか、先程の六合心法の書を読み返えす。見落とした点はないか、もしかしたら何か隠された暗号などはないか隅々まで見渡す。
紙に細工などされていないか撫でようとした時、急に手から書物が滑り落ちた。
「え……」
手先が小刻みに痙攣し始めていた。
膝に力が入らず、崩れ落ちる。震えが止まらない。
「阿絮、陰陽の書ちゃんと保管しておいてって言っただろ?やっと見つけ……阿絮?!」
書を持った白髪が驚き駆け寄って来る。しかしそのまま、地面に沈むのが見えた。
「え…何だこれっ…力が入らな……阿、絮…」
視界が狭まりよく見えないが、どうやらあの男も同じ状況に襲われているようだった。
────あぁ、ここまでか…
力がはいらず、地べたに転がった。
絶対に…これは絶対にアイツのせいだ。気の循環を断ったのがいけない。俺のバカな師弟はどこまで面倒を掛ける気なんだ。
「阿絮っ…」
視界はぼやけているが白い物が此方に向かい近づいて来る。
這って来る気配を朧げに感じた。
「老温…地獄の鍋の中で説教だ…」
ここまでか…
成嶺を驚かせてやりたかった…
結局あのちいさな背中に多くを背負わせてしまったがあの子なら大丈夫だと確信はある。成嶺は武功はまだまだだがどこか師父に似ていた。きっと人として強くなる。信頼できる者もそばにいてくれる…
許されるなら……地獄からでも見守ることは出来るだろうか。ふたりで。
「阿…絮……」
薄暗いせいか近付いてきた白が光に見えた。
視界がかすみ、目蓋が降りてくるのをとめられない……
遠ざかる意識の中、指先に何かが触れた。
**************
暗い。
音もしない。
地獄は案外静かなのだろうか。
断末魔が響き渡り、血生臭い場所だと思っていたが、何の音もせず、埃っぽい空気だけが漂っていた。
体を起こし回りを見渡せば、転がっている白髪の男が指先に触れていた。そこだけが温かい。
「老温、起きろ。」
指先を今ある力で精一杯握り潰す。
「痛ぁっ!阿絮!何するんだっ!もっと優しく起こしてよ。」
「ここは…どこだ?」
「………武庫だと思う。」
「そうだよな。俺達は生きてるのか?」
「さぁ…」
まだあまり力は戻ってこないが震えは治まった。
「阿絮、何が起こってるんだ?」
「………。」
「あー……ご、ごめん。」
「…お前はいったい何回俺の前で死ぬ気なんだ?」
「………ごめん。」
何をしたのか事の詳細を話す。相手からも一体何があったのかようやく聞き出せた。その間、ずっと手を握っていた。
掴んでる手が熱いのは互いの気が往き来しているからだろう。
「そんなこと出来たの?」
「おそらくふたつの体を巡る経路を作ることが出来たのだと思う。推測だけどな。」
「…流石です。」
「でも不思議なことがある。『お前が』手を払って気の流れは断たれたんだ。けれど俺達はしばらく動けたじゃないか。」
短い時間ではあるが離れて行動することが出来ていた。結局は倒れてしまったが、あの時間は何だったのだろう。
「うーん。血流も止めたとしても、そこがすぐ腐る訳ではないから、ある程度なら気が止まった状態でも動けるってことじやない?さっきみたいに時間に制限はあるけれど…」
繋いでいた手を離し、自分の指を強く握って血の流れを止めた指をこちらに見せてくる。
「ほら」
「そうか…どちらかというと切断に近い気もするが。」
「そうかぁ、わからないことが多いなぁ。」
「先輩が…六合神功を受け渡す時に何か手を加えたんだろうか…」
「だとしたらあの老怪物、なんで教えなかったんだよ。」
自分の指をから手を離し、またこちらの手を握り、親指で手の甲を撫でてくる。
俺を残して逝こうとしたくせにニヤニヤと口元を緩ませて、何て顔をしているんだ。
「お前が聞き逃したんじゃないか?」
「信用ないな~。」
「信用できるか?」
「う……」
「ま、取りあえず少しでも触れていればそこから気の流れが作られることはわかった。後はこれから調べていくしかない。」
「意識が飛ぶ前に触った僕のお手柄じゃないか!」
褒めて欲しいのか、許して欲しいのか、上目遣いで顔を覗き込まれる。
それで済むと思っているのか?まったく調子がいいやつだ。
「……老温、俺を殺したくないなら俺の側から離れるなよ。」
「うわぁ~…阿絮それって…。」
にやけ顔が更に緩み、頬を紅くした。紅くなる…生きているのだなとようやく感じることが出来て肩から力が抜けた。
「そっかぁ…ずっと離れられないなら、もう僕達、喧嘩も出来ないなぁ。」
「それは出来るだろ?」
「え…うわぁ何?!」
手を払い、顔に頭に腹に取り敢えず殴れそうな場所を叩きまくった。
「触ればいいんだ。殴るのだってつねるのだって抱き締めるのだって触ることに変わりはないっ。」
「痛っ!ちょっと阿絮!……待って、今ものスゴいこと言わなかった?痛っ!」
「さぁな、急に腹が立ってきた。お前、酷すぎるだろっ!」
「だから悪かったってっ!もう気が済むまで殴っていいよ!たけど後で……」
「うるさい!」
俺が老温を叩く音と、幸せそうな老温の叫びだけが武庫に響いていた。
了。