🍃🌹 リビングに漂う香ばしいバターの香りと砂糖をちょっと焦がした甘ったるい匂い、ポンポンと弾けるような軽快な音。そしてキッチンから聞こえてくるご機嫌な鼻歌。どうやら今日はポップコーンパーティーが開催されるようだ。
キッチンを覗くと、そこには予想どおり、フライパンを揺すりながら器用に鍋でキャラメルを作るマリオンの後ろ姿があった。誰に聴かせるでもない鼻歌に合わせ、片足でパタパタとリズムを取っているマリオンは絵に描いたような上機嫌で、そんな年相応の姿をガストはたまらなく愛おしく思う。
「いい匂いだな」
そう言って、ガストはマリオンの背後から鍋を覗き込んだ。とろりと甘く溶けたキャラメルを火から下ろし、今まさに味見をしようとしていたマリオンは、ポップコーン作りに水を差されて少し眉を顰めた。心なしか頬がうっすらと色付いているのは、鍋から甘く立ち上る湯気のせいか、それともひとり口ずさんでいた鼻歌をガストに聴かれたためだろうか。
「火傷するだろ」
「邪魔はしないようにするって」
マリオンはふい、と顔を逸らしてキャラメルをスプーンに掬い、おもむろにガストの口元に突きつけた。
「味見しろ」
「いや、それこそ火傷するだろ、見るからに熱そうじゃねぇか」
「ただ突っ立っているだけなら邪魔だからあっち行け」
「喜んで味見させていただきます」
ガストが口を開くと、マリオンは満足そうな笑みを浮かべ、スプーンをガストの口に差し込んだ。ただ口の中にキャラメルを流し込めばそれでいいのに、いたずらにスプーンで舌をなぞっていくからタチが悪い。ガストは堪らずマリオンの腰に手を回そうとしたが、華奢なくせに力でガストに勝る腕に押しやられてそれは叶わなかった。
「上手くできているだろ?」
「そうだな、甘くてうまかったよ」
「相変わらずオマエは食べ物の感想になると幼児以下の語彙力だな」
マリオンが軽くフライパンを揺らしながら言った。呆れたような口ぶりとは裏腹に、マリオンは楽しそうな笑みを口元に浮かべている。
先ほどまではポップコーンが飛び跳ねる音はまばらに聞こえていたが、今は途切れることなく弾ける音が続き、蓋の隙間から食欲をそそる香ばしい匂いが溢れてきた。
「今日はどんな映画を見るんだ?」
ガストが弾ける音に負けないようにマリオンの耳元に顔を寄せてそう言うと、マリオンはくすぐったそうに少し身を捩って答えた。
「ジャクリーンが見たがっていたやつだ。女優と本屋のラブストーリーで、もう何回か観たことがあるから内容は全部覚えてしまったけど曲がいい」
それでマリオンは先ほど上機嫌に鼻歌を口ずさんでいたのだろうか。どこかで聴いたことがある曲のような気がしたが、もしかしたらガストもマリオンとその家族との団欒に招かれてその映画を観たことがあったのかもしれない。甘いラブストーリーを観ながら甘ったるいキャラメルポップコーンを食べるなんて、どこまでもあの家族は甘党だ。しばらくするとポップコーンが弾ける音がだんだんと静かになり、マリオンがフライパンの蓋を開けると、濃厚なバターの香りがキッチンに広がった。ガストはポップコーンはしょっぱい出来立てのやつが一番うまいと思うのに、あのポップコーンは溺れそうに甘いキャラメルと絡められてしまうんだろう。
フライパンが空になると、マリオンがまたポップコーン用のとうもろこしをさらさらと入れてバターをひとかけら落とした。
「また作るのか?」
「オマエは甘いポップコーンは好きじゃないんだろ?」
なんと今日のポップコーンパーティーにはガストも招待してもらえるらしい。ガストはマリオンの頬にキスをした。
「塩とバターだけもいいけどチェダーチーズも好きだぜ」
「調子に乗るな、自分でやれ」
「甘いラブストーリーを観る時は味の濃いポップコーンがうまいって知ったんだよ。ジャクリーンが好みのやつは幸せなハッピーエンドになる恋の話が多いからな」
ポップコーンがまた勢いよく弾けはじめた。
「……なぁ、マリオンの初恋って誰……とかって聞いてもいいか?」
コーンが小さな爆発を繰り返す騒がしい音に紛れて、ひとりごととして湯気みたいに消えてしまったっていいと思って呟いただけだった。けれどもマリオンは耳聡くそれを拾って、怪訝そうな表情で振り返りガストを見やる。
「いや!マリオンに他に誰か初恋の人がいても俺は気にしないし、ちょっと気になっただけっていうか、俺は過去にマリオンに他に好きな人がいたって気にしないんだけどさ!俺だけ初恋が誰なのかがわかってるのってなんか……ちょっと……いや、なんでもない、忘れてくれ……」
「知りたいか?ボクの初恋の相手が誰か」
マリオンがまっすぐガストの目を見て尋ねる。ガストは小さく息を飲んで口を開いた。
「い、いつ頃……その人と……」
「出会ったか?まだ小さな頃」
「っ……歳上?それとも歳下……?」
「そうだな、歳上だった」
ポップコーンはいよいよクライマックスとばかりにフライパンの蓋の下で暴れ回り、ガストの心臓も同じくらい騒がしくばくばくと音を立てて、耳の奥を轟々と血が流れる音が聴こえるような気がした。
「身長はボクより高かった。髪の毛は今のオマエよりは短いかも。他に聞きたいことは?」
「……好き、だったんだな」
「ずっと小さな世界で生きていたボクに外の世界を教えてくれた、大切なひとだ。まだこの話続けるのか?もうポップコーンができあがるケド」
マリオンがIHヒーターを止めて、ポップコーンが温かいうちに塩をまぶそうと棚に手を伸ばす。けれども伸ばしたその手を背後に立つガストが絡め取り、後ろからぐっと抱き寄せて、マリオンを腕の中に閉じ込めた。マリオンが「苦しい」と言ってガストの腕を叩くが、本当に嫌だったらとっくに張り倒されているはずと、ガストは更に腕に力を込める。
「でもマリオンが今好きなのは俺だし、俺たち付き合ってるよな」
マリオンはひとつため息をつくと、肩に顔を埋めるガストに頬擦りをするように頭を傾けた。
「付き合ってるとか恋とかがなんなのかやっぱりボクにはよくわからないけど、こんなことされてもイヤじゃないし心地いいって思う相手はオマエだけだ。安心したなら離せ、ポップコーンが冷める」
「好きだ、マリオン」
「ボクも」
ガストが腕の力を緩めると、マリオンがするりと抜け出して冷蔵庫のドアを開けた。少しだけ背伸びをして冷蔵庫を漁るマリオンの上半身がドアの向こうに隠れ、ガストはきっととんでもなく情けない顔をしているであろう自分の顔面を両手で覆う。
(こっちはマリオンにだけずっと恋してるのに、惚れたもん負けだよな、ほんと)
ガストの心を掻き乱すたったひとりのその相手が、鼻歌を唄いながら冷蔵庫のドアから顔を覗かせた。
「ボクの初恋かもしれない相手だけど、オマエもよく知ってるひとだ。チャーミングで行動力があって、自分が決めた道に真っ直ぐ向き合う気高い女性で、ヨーロッパのどこかの国の王女様」
してやったりという顔で心底楽しそうにくすくすと笑うマリオンの様子に、ガストは頭を抱えるしかなかった。マリオンが手にチーズの塊を持っていなかったら、今すぐきつく抱きしめて、キスをして、小さな口の中を好き勝手荒らして、ご機嫌に笑う彼を黙らせてやりたい。
「ポップコーンパーティーの後、覚悟してろよ」
「ふぅん、ボクより弱いクセに偉そうだな。でも、楽しみにしてる」
チェダーチーズポップコーンによく合う香りのいいビールが冷蔵庫にあったはずだが今日はおあずけにしよう、いろいろと、念のために。ジンジャーエールと甘くてしょっぱいポップコーン、それに生意気で愛おしい恋人と見る映画。最高の夜が始まる予感にガストの胸は期待で膨らんだ、まるで弾けるポップコーンのように。