※右手はしばらく死んでいた ──鍾離が頭を強く打った。命に別状はないようだが、お前の名前を連呼しているから会いに来い。
その日タルタリヤに届いたのは、簡潔にまとめれば、そのような内容の連絡だった。
「え、嫌だけど?」
しかしタルタリヤは動かなかった。明らかに面倒ごとの気配がする。加えて鍾離が頭を打っておかしくなる程度の存在なら、元より興味などないのだから──と、届いた連絡を無視して、雑務書類にペンを走らせる。
……まあ、残念ながらタルタリヤの予想は半分当たりで半分外れだった。
「公子殿!」
「うぇえ!?」
いつの間に北国銀行まで乗り込んできたのか、執務室のドアが容赦なく開かれた。目を向けない、という選択肢はさすがにない。けれどすぐ、そちらに視線をやったことを後悔した。
鍾離はキラッキラの笑顔だった。まるで純真無垢な子供が、大好きなおもちゃを見つけた時のような──もっと言えば、ほんの一瞬タルタリヤの保護欲が働いてしまうような。
故に、タルタリヤは鍾離の腕を掴んで窓から放り投げた。
「公子様ぁあ!?」
慈悲はない。部下の悲鳴もなんてことはない、これで死ぬならそこまでだ。ほんの一瞬でも弟のようで可愛いなどと思ってしまった自分の方が異常者な気さえしてくる。
「酷いじゃないか公子殿、凡人は窓から投げ出されたら死ぬぞ」
とはいえもちろん、鍾離はその程度で死ぬ男ではない。先ほどの窓からよっこらせ、と部屋に戻ってきたので、タルタリヤは無言のままもう一度腕を掴み──
「だが……悪くない」
鍾離に全力で抱きしめられた。
「公子野郎、今窓から鍾離が……ッ!?」
そして最悪のタイミングで、旅人とパイモンが登場する。書いていたのが極秘書類じゃなくてよかった、と思うけれど、もちろんそういう問題ではなかった。
そんなこんなで接待のために用意された部屋へと移動する。鍾離は相変わらず、タルタリヤにくっついて離れない。
「ざっくり言うと、鍾離先生が頭を打って……その、色々タガが外れちゃってるみたいなんだよね」
「うわあ迷惑……というかなんで、そんなになるくらい頭打っちゃったんだよ」
「それはオイラが角から突然飛び出したのを、ちょうど避けようとしたみたいで……その、なんというか」
「要するにパイモンのせいだよ」
「ひどいぞ蛍ー! 事実ではあるけどさあ!」
なるほど分かった、と頷きつつ、タルタリヤは座っていたソファもとい鍾離の膝の上から腰を浮かせ……られない。がっちりホールドされている。
「……鍾離先生、甘えられる相手が欲しかったんだろうね」
「今までずっと、色々我慢してたっぽかったもんな」
「……その、相棒たちはこの状況について何も思わないのかい……?」
「正直ドン引きしてる」
「オイラも」
「なら協力してくれてもよくない!?」
だって絵面があまりにもひどい。どちらもそこそこ大柄な男なのだ。今でこそ青い顔をした部下と、旅人とパイモン、鍾離とタルタリヤしかいないものの、このままでは外にも出られないだろう。
「協力、とはなんだ公子殿。お前はこうされるのは嫌か?」
「嫌に決まってるじゃん!?」
甘えるようにすり寄って来る鍾離からどうにか離れたいが、旅人たちは生暖かい目線を向けてくるばかりだ。来客用の菓子を凄まじい勢いで消費しながら、「二人でゆっくり話でもすればいいんじゃないかな」などと。
「ふう、おなかいっぱい。それじゃあ行こうかパイモン、あとそこの人も顔色悪いよ、休憩室行ったらいいと思う」
「そうだぞ! というわけでじゃあなー!」
「え、ちょっ部下連れてくのだけはやめ」
しかし現実は無情。実際部下は仮面越しにも真っ青なのが分かるレベルだから、咎めこそしないものの色々とまずいのは明らかだった。
「……その、鍾離、先生……?」
振り返らずとも分かる。今の鍾離はひどく機嫌がよかった。そして外れた理性というか常識のタガと、なぜか響いた施錠音。何も起こらないはずが——
「……すぅ……」
あった。
「いやそこで寝るな!?」
もちろん期待したわけではないが、この場所に固定されたくもない。加えてやけに幸せそうな顔で寝ているのが余計腹立たしい、殴ってやろうかと固めた拳は数秒の思案ののち——
「ふんッ!」
見事に鍾離の脳天に叩き込まれた。拳骨である。
「……石頭め……」
しかし残念なことに、ダメージを食らったのはタルタリヤの拳の方だった。ずきずき痛むそこを撫でさすっていれば、一応目が覚めたらしい背後の男が両手で包み込んでくる。
「まったくやんちゃだな、公子殿は」
……寒気がした。なんなんだこのノリは。旅人がさっき言っていた「昭和の攻め……」という言葉がなぜか思い起こされる。意味は分からないがおそらく鍾離のことだった。
「……もうちょい強めに殴れば戻るかな」
「む、なぜ俺を殴る」
「あんたが正気じゃないからだよ!」
全身に立つ鳥肌をどうにかいなしながら、見つめた先の瞳はしかし——どこまでも曇りなくタルタリヤを見つめている。
——鍾離先生、甘えられる相手が欲しかったんだろうね。
そしてまた、よぎるのは旅人の呟きだ。タルタリヤからすればかなりの奇行だが、鍾離なりにずっと押し込めてきた感情が発露した結果だというのなら……それに対して、このような対応をするのも気が引ける、とは思う。
思うがどう対応すればいいか、というのは何も分からなかった。眠いのかまた、とろけた瞳が細められる。
……可愛いと、思わなくもないのが悔しかった。
「贅沢なひとだよ、ほんとにさあ」
仕方ない、この時ばかりは抱き枕になっていてやろう。新種の鍛錬だと思えばまあ仕方ないと思える、だから早く眠ってくれ……と。
体の力を抜いた瞬間、ぐるりと視界が天井に向いた。
「……え?」
「あいして、いるんだ」
「え、ちょっ何」
「お前を一目、見た時から」
タルタリヤの顔に影がかかる。形のいい唇をまともに見てしまって思考が止まりかけたけれど、ああキスされそうなんだな、と理解してすぐ体は動いた。
「……ッこのドセクハラアホ真君!」
渾身の右ストレートが決まる。心臓がうるさいのはなぜか、理解が及ばないけれど右手はめちゃくちゃ痛かった。
「すまなかった、公子殿」
「元に戻ったんならいいよ、まったく何してくれてんだか……」
「でも元に戻ってよかったな! 結局殴ったみたいだけど……」
「……はぁ……俺は全部忘れるから、先生も色々なかったことにしてくれよ。あとこれ、ぶっ飛んだソファの修理代請求書。さすがに俺は払わないからね」
請求額を覗き見て、ドン引きするパイモンたちをよそに席を立つ。そんなタルタリヤの耳先がまだ少し赤いのを、旅人は微笑ましく見つめていた。