安らかなれ、マイ・レディ③ブラックフェン村の闘い ブラックフェン村に、昼を告げる教会の鐘が鳴る。冷え切った石畳の上を、小さな影がヒタヒタと進んでいく。
――ああ、ケイト…。
あの陽だまりにも、同じように鐘は鳴っていた。まるで陽射しのようにあったかく笑う、ケイト。少し大きくなった頃、編み物をするママの足元で遊んでいたっけ。
ママの膝の上の編み目が長く長く広がり、編み針が柔らかな音を立てる。ころりと落ちた毛糸玉を、ケイトの小さな手が掴まえた。
「あらあら、ダメよ、ケイト」
小さな手から取り返そうと、ふんわりした毛糸玉をちょっと引っ張る。弾けるように笑いだすケイトの笑顔が、眩しくて、嬉しくて――…
時は流れてーーヒタヒタと、影が石畳を横切る。足を止めた先は、教会の裏の小さな墓地だった。こんな田舎の墓地では、美しい大理石など使わない。泥の中に埋もれるような墓石たちが苔むして並んでいる。背の曲がった黒衣の老婆が小さく小さく身を屈めて、祈っている。
――ケイト。可哀想なケイト。
影は、石畳の角を曲がり、うねる小道を辿って、枯れ蔦の中で静まり返った門扉をくぐった。
ここが、今のダックワース家。草木が好き放題に石畳を割り、枯れた根っこが水辺で腐臭を放っていた。霧の中で鈍く濡れ輝く石壁を見上げる。目を凝らすと、窓にボッと燐色の灯りがついた。
――あれは…貴女の目印。貴女の痕跡。
「ニャアアアアア――…」
細い獣の声が霧の中に響く。
――誰か、来て…気づいて…
伊黒と不死川が寂れた無人駅に降り立つと、列車の車輪が重々しい鉄の軋みを上げた。まるで、2人を置き去るように、ゆっくりと走り出し、速度を上げて霧の中に消えていく。
駅から、通りがかりの郵便馬車に乗せてもらって1時間。ブラックフェン村に着いたのは昼過ぎだった。すでに陽射しは弱り、雲影が空をうねっている。冷たい霧が2人の手足にまとわりつくように流れている。
「この村には、シャワーと暖炉とブランケットと紅茶が必要だな」
伊黒が軽くため息をついた。スリザリン寮だって陰気さは大したものだったが、ブラックフェン村はそれ以上だ。
「ワガママすぎ。でも、暖炉ならパブにでも行くかァ。村人から話でも聞こうぜ」
午後を知らせる教会の鐘が鳴る。細く続く道はうねり、寒村の奥へと2人を連れて行く。伊黒がコートの襟を立てた。
「…誰も通らんな」
伊黒が呟いた。
霧は深く、人影も見えない。濡れた石畳がかすかに光り、2人の足音と、遠くに近くに響く教会の鐘だけが聞こえる。
「気持ち悪りィ…鼻も効かねェ」
不死川が、狼の鼻をひくつかせるが、腐泥と黴の匂いばかりが鼻につく。
やがて、石畳の先に古びた看板が見つかった。左に曲がって、3軒目が村唯一のパブだった。
軋むドアを開けると、薄暗がりの中で赤い暖炉が燃えている。溢れ出してくる酒と煙草の匂いは、ようやく出会えた生者の匂いのように思われた。赤々とした暖炉の灯りの中から、男達の視線がじっとりと来訪者を捉えた。
「…エールを」
伊黒が、カウンターに静かにコインを置く。不死川は、周囲を警戒しながらスツールに腰掛けた。
水紋のように広がるざわめき。その中に、かすかに、しかし明らかに「よそ者」という言葉が聞こえた。
伊黒が、フッと息を吐いて、カウンター内のオヤジに向き直る。
「ダックワース家のことについて聞きたいのだが」
低く落ち着いた声音に、オヤジは振り向きもしない。
「…ないよ、そんな家」
「ああ、昔のお屋敷さ。登記所じゃ確かにこの村の住所だったぜ。後見人だって会って確かめてきた。トム・ダックワース。知ってるだろ?」
不死川が言葉を添える。
「トム…トム?話したくもないね」
「おい!オヤジさん!」
あまりの陰気さに、不死川が立ち上がってカウンターに詰め寄る。
その時…
「嘘よ!みんな、知ってることを話してよ!」
「ケイティ嬢!?」
伊黒と不死川がドアを振り向く。そこには、黒いドレスのケイティが仁王立ちで立っていた。ロンドンで会った時のような上品な口ぶりは消え失せ、大きな瞳を爛々と光らせていた。結い上げた黒髪はほつれて頬に張り付いている。
「話してよ!あのお屋敷で…」
「誰だ!?女!よそ者のくせに…!」
村人の手が、ケイティにつかみかかる。
その瞬間、大きな手が村人の手首を掴んで止めた。
「おい、女に手ェ上げてんじゃねェ」
不死川だ。大柄な体躯で唸ると、村人は一瞬怯んだようだった。が、他の者が逆上の雄叫びを上げる。
「なんだ、テメェ!!」
「お前も、よそ者のくせに…!!」
ビール瓶を叩き割った村人が吠えた。ビール瓶の即席ナイフが、不死川に襲いかかる。
ーーケイティを守る!多少の怪我くらい…
不死川が即席ナイフの前に立ちはだかった。
伊黒が、懐からタロットカードを取り出した。北に突撃力の「戦車」、東に防御力の「力」、西に敵の攻撃を逸らし隙を作る「運命の輪」、南に索敵に長けた「隠者」。四方に配されたカードが回転し、不死川の前方に、強力な力の渦が発生した。
「なんだ、こりゃあ!?」
村人が闇雲にビール瓶を突き出す。「運命の輪」が光る。村人の足元で重力が狂い、ビール瓶が手からすっぽ抜けてカウンター内に飛び込んだ。ぶつかったグラスが派手な音を立てて砕け散る。
「この野郎!おかしな魔術、使いやがって!」
村人が伊黒の背後から棍棒を振り上げた。
「後ろから殴ってんじゃねェ!おらァ!!」
不死川が踏み込んで、棍棒男を殴り飛ばす。さらに、後ろから組みついてきた巨漢の襟を掴んで投げた。スツールが、悲鳴を上げて倒れ崩れる。
カウンターの影にオヤジがしゃがみ込んだ。その瞬間、「隠者」のカードが光った。
伊黒の視界の中で、カウンターが透き通り、オヤジが拳銃を構えるのが視えた。
「不死川ッ!!」
タロットカードが展開される。「力」が空気の渦を作り、「運命の輪」が弾丸を逸らす。新たに取り出された「太陽」が「戦車」の力を増す。「戦車」が鋭く光って空を滑り出した。
「オヤジさんに、何しやがる!!」
若い男が2人、不死川を挟み撃ちにするが、「恋人」のカードが逆さに飛ぶと同時に、お互いの顔に拳をめり込ませて床に沈んだ。
不死川が、脚に力を溜めて、カウンターを飛び越え、オヤジにつかみかかる。次の瞬間、ドォンという轟音と共にオヤジは銃を手放し、床に叩き伏せられていた。
不死川が取り上げた銃をボトムのウエストに挟み、ケイティを庇って拳を固める。その背中合わせに、タロットカードを構えた伊黒が歩み寄った。
「…来るか、貴様ら」
伊黒の静かな一声。不死川が低く唸る。
荒々しい田舎の青年たちの背中に冷たい汗が滑り落ちた。こいつらは、人間じゃない。毎夜、小さく神経を引っ掻くようなあの、“猫の祟り”が、村人の脳裏を疾る。カタカタと膝が震え、戦意は跡形もなく砕け散った。
「ウワァァア!!“祟り”…!!“祟り”だ、こいつら…!!」
残った村人は、悲鳴を上げてパブを飛び出していった。
「大丈夫か!?ケイティ!」
不死川の腕の中で、ケイティは顔面蒼白で震えている。
「…失礼、ケイティ嬢。鎮静術を」
伊黒が「月」のカードを取り出す。
「いらない!!あいつら…あいつら…!」
ケイティが震えていたのは、恐怖ではなかった。それをはるかに凌駕する怒り。だが、小柄な身体に、その激情は大き過ぎた。ケイティの呼吸が荒くなり、黒いドレスに包まれた身体が崩れ落ちる。
「ケイティ嬢は、とりあえず、ロンドンのタウンハウスへ連れて行こう。…不死川」
伊黒に促されて、不死川がケイティを抱き上げる。
伊黒がその背中を眺めながら、思索に耽る。
ーー“よそ者”
村人は確かにケイティを見て、そう言った。咄嗟の一言。嘘だとも思えない。
ーーケイティは…ダックワース家の侍女じゃないのか?いったい、彼女は…?
〈つづく〉