冴が来た(6) 昼が過ぎた頃になって、冴が制止の声を上げる。
「オーバーワークだ。休め」
結局一本も取れなかった世一はくっそ~と悪態を突きながら、滝のように流れる汗を拭う。近くの自動販売機でスポーツ飲料を購入し、世一に投げ渡した。
「あれ?そういえば吉良君は?」
「知らね」
冴の中ではどうでもいいモブキャラとなっているので、どこにいようが逃げようが心底どうでもよくなっていた。
「腹減ったし飯行くぞ」
「う~ん、腹減った~!」
冴はほとんど汗をかかなかったが、世一はかなり汗を分泌したので、体温を確保できる場所を探すついでに腹を満たす。選んだのはラーメン屋であった。日本に帰ってきたというのに日本飯食ってねえなって思い立っていたら、世一のラーメン食べたいの一言で決定した。
腹を満たし終えて、食後の軽い運動と兼ねた観光が始まって直ぐ、世一が冴に言葉を贈った。
「冴」
「あ?」
「今日はありがと」
世一の顔は朝とは打って変わって輝いている。つい見入りそうになったのを、顔ごと逸らした。
「もう二度とこんな面倒くせえことに巻き込むんじゃねえぞ」
「ごめんって」
「次は絶対に一人で悩むな。俺を頼れ。凛にも必ず言え」
「う、うん…?何で凛?」
「俺がいない間、お前の傍にいられるのは、凛しかいねえだろ」
冴は知っている。見たのだ。あの雪の夜、自分の前から去っていった世一を、駅に向かう途中で引き返して追いかけた先、絶望で泣き崩れる凛を守るように抱擁する世一の光景を。あの瞬間、凛の感情がはっきりと定まったのを、冴は感じ取った。
欲深い冴は、世界一になることしか頭に無い。それ以外のものは排除してきた。それはこれからも変わらない。世一の想いに応えることは出来ない。
「お前はもっと他人を頼れ。以上だ」
世一の頭のてっぺんにある枝分かれした癖毛を押しつぶすように撫でる。身体に染みついた行動であった。年頃になって最近は嫌がるようになった世一であるが、ふふふと笑いを噛みしめた。
「冴は変わってない…安心したよ」
ねえ、冴。世一は真っすぐした目で、冴を見上げる。世一の瞳の奥にある輝きが眩しく映った。
「冴にとっては迷惑だってことは充分わかってる。けど、今日ので改めてわかった………冴が好き」
ふにゃりと、世一は柔らかく笑んだ。冴に向ける世一の全てが、冴の心臓から全身に至るまで衝撃を与える。
「やっぱり好き。迷惑にならないようにする。だから…これからも、冴のこと、好きでいていい?」
冴の脳裏に記憶が蘇った。確かあれは、冴が六歳、世一と凛が四歳だった筈。潔家が糸師家に遊びにきていて、こどもスペースで世一と凛が遊んでいるのを肴に、両家の両親が談話していて、冴は父親のとなりに座ってせんべえを黙々と食べていたところ、突然凛が世一に告白した。
――――おおきくなったらよっちゃんとけっこんしてやる。
けっこんする、ではなく、けっこんしてやるときたもんだ。上から目線の求婚の後、世一の頬にキスをした。なんてことはない、幼い子供の児戯である。世一もにこにこと笑っていいよと返事をし。両親も面白がる始末だ。
あらあら~。凛くん、将来世っちゃんをお嫁さんにしてくれるの~?ありがとう~。良かったな、世っちゃん~。凛は世っちゃんが大好きねえ。これで安心だなぁ凛。
和やかに見守る中で、冴だけがぴきいっと固まった。凛がキスをしたのも、世一が笑っているのも、両親も何故かその気でいるのも、全部が冴には衝撃でしかなかった。このままではいけないと、幼い頭でそう思ったのは確かで、でもここで凛を叩いてしまったら怒られるのは自分だし凛に釣られて世一も泣く。それだけは嫌だったので、昼寝の時間を狙って行動を起こした。
よっちゃん。凛と一緒に寝ていた世一を揺り動かして起こした。ん~…完全に寝ぼけていた世一の手を引っ張って、凛を起こさないように連れ出した。押し入れから白いシーツを引っ張ると、船を漕いでいた世一の頭に被せた。
さえちゃん…なにしてるの…?
けっこんごっこ。
なあに…?。
よっちゃんはりんじゃなくて、おれとけっこんするんだ。
いいな?釘を刺すと、世一は夢うつつ状態でふにゃりと笑った。いいよぉ。間延びした寝ぼけ声に満足して、冴は凛がしたのと反対の頬にキスをした。世一は限界がきて床に寝っ転がって、冴も世一にぴったりと引っ付いてそのまま寝た。二人がいなくて寂しがった凛が泣き出したことで、二人は昼寝から覚めることとなる。
思い出した瞬間、冴は落ちていたものを認識した。今、その笑顔で落ちたのではない。もう既に落ちていたのだ。冴自身が気付かなかっただけで。
世一とこっそり結婚の約束をしたあの時、どうして凛がいない隙をぬぐったのか、何であの時あんな約束を取り付けたのか……答えはあの時から出ていたのだ。否、もっと前からだ。もっと前から、冴は、ずっと、欲していた。
「冴?」
食い入るように凝視する冴の視線に、世一が小首を傾げる。無意識であろうが、その動作ですら冴の胸の内を擽る。
欲深い冴は、一度自覚したものを手放す気にはなれない。
「潔。よく聞け」
「え、うん…」
潔の両肩をがっしりと掴み、真剣に目と目を合わせた。
「合コンや交流会の類は今後は全部断れ。多少交友関係に傷がついても構わねえ。どうしてもの時は“好きな相手がいる”じゃなくて、“付き合ってる相手がいる”で断れよ」
いいな?と圧をかければ、はへ?と間抜けた反応が返ってきた。目をぱちくりさせる世一の肩を引き寄せれば、スマホのカメラ機能を使って引っ付き合う二人の写真を撮影する。これ何?何が起きてるの?と困惑する世一の顔がばっちり撮れた。
これじゃあ真実味が足りねえ。冴はそう考えた。距離はそのままに、世一の頬に唇を寄せた。カシャとシャッターを押す。
「……………」
「よし。これなら疑わねえだろ。送ってやるからホーム画面にしろよ」
世一からの反応は無である。
「おいどうした?」
魂が口から抜けたように突っ立っている世一の頬を軽く叩く。間を置いて、足のつま先から頭のてっぺんまでみるみると真っ赤になっていき、目をぐるぐる回し始めた。
「っ!おい!」
頭から大量の煙を出して、後ろ向きに倒れかけたところを反射で止めた。数秒後に世一はなんとか覚醒するが、しばらく呂律が回らず、あばばば、やら、ふわあ、やら、ひいいぃ、とか人語じゃない声をひたすら繰り返していた。
「落ち着け。いいな?」
デートに行くぞと、世一の手を握って先を歩く。昔もこうやって凛がいないところで、世一を引っ張ってやったものだ。世一と二人きりになれる時間が、冴の欲しかったもの。足元が羽が生えたみたいに軽かった。今ならスキップして帰れそうだ。絶対にしないが。心が浮足立っている証拠だった。冴の顔はどこからどう見ても能面であるが、感情が出にくいだけで、その心の内は天にも昇るぐらいに舞い上がっていたのだ。
歩いて数十分もいかない内に、世一が冴の手を引いたので、思わず足を止めて振り返る。
「冴…」
世一は、頬に朱を散りばめて、目の奥まで震わせながら、冴を見上げていた。ひどく煽情的に見えた。心臓がぐしゃとつぶれた。
「ほんとうに、付き合うで、いいの?ほんとに?夢じゃない?」
戸惑っている様子で、解ってないようだったので、解らせてやることにした。
世一の頤に指を引っかけて、顔の角度を変えて、唇に唇を押し当てた。軽く音を立てながら吸って離れる。世一とのキスは甘い。
世一は気絶した。