冴が来た(1) 一度書き換えた夢を貫くには大きな代償を背負わなければならない。が、MFというポジションは冴と相性が良かった。
その分、ストライカーに対して厳しくなっていた。自分よりも得点力の低いストライカーは決して認めなかったし、パスをくれてやる権利も無い。その傲岸不遜さはチームメイトの心象を悪化させたが、他人の評判なんて歯牙にもかけなかったし、プレーを見せつけて認めさせた。
冴は一年ぶりに日本に戻った。パスポートの期限が近づいてきており、スペインでプレーを続けるつもりでいたので、更新のため一旦帰国する必要があった。そのついでに日本での仕事がいくつか冴の元に舞い降りており、一週間は東京で仕事をこなし、残りの一週間は実家に戻るというスケジュールになっている。
これを両親に伝えた時、予想だにしなかった提案が母から入り、自分の知らないところでとんとん拍子で進められていたことに、未だに遺憾を抱いているが、数時間もすればどうでもよくなったし、気が早いが浮き足立つ気分になった。
日本は変わらず空気からしてぬるい。そう感じたのは島国特有の高い湿度に加え、あちこちで引っ張りだこにされている自分のポスターやら宣伝やらのせいである。パスポートの更新で帰国しただけなのにマスコミというのは耳が早くて必要以上に話題に持ち上げようとする。客寄せパンダにされているようで大変気分を害してならない。今すぐにでもスペインに戻りたい気分だ。マネージャーは急降下する冴の機嫌がいつ爆発するかでやきもきしていた。
パスポートの更新手続きを終わらせた後、日本フットボール連合でインタビュー記事の取材が始まるわけだが…………この日ばかりはいつも以上に気持ちが忙しなかった。
日本代表の招集に応えるおつもりですか?取材人が冴の地雷を踏みにじってきたので、辟易しながらとっとと終わらせた。
「知らねえ。勝手に書いてろ。以上」
空気が凍ったと言っても過言ではない。取材は十分もかからず終了した。口を半開きにしてアホ面で固まる取材人を置き去りに、冴は勝手に応接間を出た。悠々と歩く冴の後を青い顔でマネージャーが続く。
「ちょっと冴ちゃんっ。さすがにあれは…」
「どうでもいいよ、あんなゴミ」
いつも以上に口の悪さに拍車がかかっている様子に、マネージャーはそれ以上口を割かないと決意する。冴が何を急いでいるのか、マネージャーは察している。
「冴ちゃん、その、本当に大丈夫なの?その知り合いの家って」
「下手なホテルより全然マシ」
マネージャーはしつこく食い下がってきたが、得意の毒舌で黙らせて、一人建物から外に出る。タクシーで駅まで行った後は、五年ぶりに電車に乗り込んだ。相変わらず雑多な構内で電車を待っている間、直近の世一からのメッセージを振り返っていた。
世一は変わらず男子チームでプレーをしている。女子でありながらも有象無象を退いてスタメンFWの座を維持しているらしい。先月の県大会決勝戦であと一歩というところで負けて悔しさいっぱいのメッセージの後に二回…数十分挟んで、三時間近くの通話履歴がある。それはメッセージを読んで直ぐに冴が通話に切り替えたものだ。何故ならその時、世一が泣いてる気配を感じ取ったからである。
通話してみると、思っていた通り、世一はしくしく泣いた。たかが県大会で負けてくやしくて泣くとかまじでこいつガキだなと思った。
その前には凛とのツーショット写真が送られている。埼玉スタジアムの試合観戦時の写真だ。にっこり笑顔の世一の横で能面の凛が映っている。あの雪の夜から凛はしばらく低迷していたが、世一がずっと凛を励ましたお陰で、少しずつ調子を取り戻してきているらしい、と母からの情報だ。
電車に乗り込んで埼玉に到着するまで、冴はずっとスマホから目を離さなかった。心が浮ついている。一年ぶりに世一に会うからかもしれない。
埼玉に到着しタクシーを拾うと、潔から送られた住所を伝えて発進させる。住宅街の一軒家の手前で降りた。インターホンを押すと、ぱたぱたと軽い足音が聞こえて、控え目に扉が内から開いた。
「あらあらあら~冴くん、また大きくなったわねえ~」
出て来たのは世一の母だった。皺は増えているが、穏やかで柔和な雰囲気は全く変わってない。この人はきっと一生こうなんだろう。
「お久しぶりです。これ、土産です」
「まあ、ご丁寧にありがとう~。冴くんも大人になったのねえ~!」
チームメイトからは我が儘暴君と呼ばれているのを知っていた冴であるが、人を疑うことを知らないこの天然な性格の前では、冴の傲岸不遜ぶりは鳴りを潜めてしまう。
荷物を客間に置かせてもらった後、スマホをもう一度確認する。世一からの連絡はない。
「おばさん、潔は?」
「世っちゃんはいつも帰るのが遅いのよ。時間ぎりぎりまでいっぱいサッカーやってるんだって」
時間は既に六時を過ぎている。日本の冬は太陽が沈むのが早いので、外はもう真っ暗だ。いくら比較的治安のいい場所だとしても、この暗さの中で女子一人は危険だ。
「潔迎えに行きます」
「学校の場所わかる?」
「マップ使うんで」
「世っちゃん喜ぶわあ。ゆっくり帰ってきておいで」
今日の夕飯はカレーらしい。世一の母は冴を喜んで見送った。ほんとに変わらねえなあこの人、父親の方も変わってねえんだろうなあ、と耽りながら冴は歩いた。
日本の夜は冷え込んでいて、小さく息を吐けば白い煙となって空気に溶け込んだ。こんな寒い中でもサッカーしてるのかと思うと、つくづくサッカー馬鹿だなと皮肉も言いたくもなる。とかいう冴も他人のことが言えないことを自覚している。
ここか。地図アプリが示した場所に容易にたどり着く。半開きの校門をくぐると直ぐにグラウンドが見えた。
ゴールを独占し、ひたすらボールを打ち込む小さな影が見えた。世一である。チームメイトはみんな帰っている。暗くて寒い中、たった一人でサッカーに打ち込む姿は寂しそうに映った。
息を切らして、顎に伝う汗を手の甲で拭っていた世一の顔がゆっくりと振り返ってきた。大人でも見逃す小さな虫をも捉えていた視覚が、何メートルも離れていた冴をしっかりと知覚した。
引き締めた顔がふわりと緩んで、ふにゃりと笑う。手を降りながら駆け寄る世一に、冴はゆっくりとした歩幅で距離を詰めた。
「よっ!日本の至宝!」
「やめろ」
「スター扱いされて浮かれてたらもっと馬鹿にしてやるところだった」
生意気に歯を見せて笑う顔の、真ん中の鼻をつまむと、間抜けた声が漏れた。
「鼻が赤けえ。何時間外にいやがった?」
「ずっと練習だったんだよ。でも今日はもう止める!着替えてくるからちょっと待ってて」
急いで片付けを始める世一に慌てんな転ぶぞーって声をかけると、子供扱いすんな!と生意気な声が返ってきた。あの大人しくて引っ込み思案で泣き虫が随分と成長したものだ。とはいえ、今の世一も可愛がりたいと思うぐらいには気に入っているのも確かだ。本人には絶対に言わないが。
冴の母が言うには、潔世一との関係は記憶以上に古く長いらしい。
その昔、鎌倉市営の児童福祉施設に、生まれてまだ三か月の世一が両親に連れられてやってきた。五感が異様に鋭かった赤ん坊の世一はたくさんの人の気配で火が噴いたように泣いた。少しでも他の子供に慣れさせておきたかった両親は一向に泣き止まない我が子に困り果てて帰ろうとしたところ、一歳の乳幼児がとてとてとやってきた。
乳幼児は母親の腕の中で泣きわめく世一をじいっと凝視した。乳幼児らしからぬ能面の顔をする一歳児に、父親と母親は不審がるどころかにこにこと笑って、はいどうぞと我が子の顔を見せた。わんわん泣いて真っ赤になっていたその顔に、紅葉のような小さな手がぺちゃぺちゃと叩くと、世一は波が引いたように泣き止んだ。
「あらあらまあ」
「わあ、世っちゃんが泣き止んだ。すごいねえ。ありがとうねえ」
そこへ一歳児の両親が駆けつけた。その一歳児こそが、糸師冴である。
冴の母親は弟の凛の出産間近であり、弟が生まれてくるのよ、冴はおにいちゃんになるのよ、という母親の言葉をずっと言い聞かせられてきたからか、それとも冴が年齢の割に早熟していたからか、噴火を起こす世一に反応してものの見事に泣き止ませた……これが世一と冴の初対面である。
互いの子供の年齢が近いというのもあって、糸師家と潔家の交流がそれをきっかけに始まった。世一が泣いていると冴がすっ飛んで泣き止ませるのが通例となった。やがて世一の首がすわり一人座りができるようになると、世一を守るように冴がぎゅうっと抱きしめる。一度抱きしめてしまったらずっと離さない。無理に離そうとすると腕の力を強めて抵抗する。冴は滅多に泣かない子だったのでギャン泣きはしなかったが、絶対に世一を離さないという強い意志を目に乗せて睨んでくるので、糸師両親の方が心配になるほどだった。
やがて凛が生まれると、凛、冴、世一と並ぶようになった。凛は冴にべったりで、世一も冴が大好きで、真ん中の冴が二人の手綱を引っ張っている状態であった。両家のアルバムに三人の写真が埋め尽くされるようになったのも無理は無い。
冴と凛、世一は兄弟のように育った。家も近く、両親公認なものだから、生まれた時からずっと一緒だった。冴がサッカーを始めた数年後に世一も始めて、冴と世一でサッカーをして遊ぶようになってから数年後に凛も混ざった。天才サッカー少年と頭角を現していた冴は世一と凛とするサッカーが嫌いではなかったし、世一もサッカーに熱中だったし、凛は大好きな兄と幼馴染とするサッカーが楽しくて仕方がなかった。
冴の記憶では、凛と世一はつねに一緒だった気がする。世一は冴よりも凛と一緒に遊ぶことが多かったし、冴が絡まなければ二人は隙が無いぐらいに仲が良かった、と思う。おっとりの世一とは真逆に凛は癇癪持ちで、特に冴が大好きで自分を差し置いて冴と世一が仲良くしようものなら怒って世一に手を出す。世一は何度も凛に泣かされた筈だけど、寝てしまえば忘れてしまう良い性格をしていたので、凛がどんなに手を上げたとしても根に持つような子ではなかったのが幸いだった。かといって毎度世一が家に帰る時間になると、かえっちゃやだー!と凛が駄々泣きして、つられて世一も、もっとりんくんとあそぶー!と泣いてた。冴は、よっちゃんまたあしたーと冷めていた。
世一が小学校に上がる前に、突然別れがやってきた。潔家の引っ越しだ。春から一家は埼玉で暮らすことになっていた。世一は、冴と同じ小学校ではなく、埼玉の学校に通うのだ。
別れの当日、両親と凛と一緒に見送りに行った。凛はずっと泣きじゃくっていた。よっちゃんとはなれたくない~!ずっといっしょにいるんだ~!世一の手を決して離さないとするので苦労した。世一はずっとにこにこしていて、おてがみだすね、と呑気だ。てっきり泣くんじゃないかと予測していた冴は小首を傾げる。車に乗り込むまで、世一はにこにこと笑っていた。手を振る潔家に、冴も手を振る。凛は母の首にしがみついて一向に泣き止まない。
「大丈夫よ凛。お休みに入ったらまた会えるからね」
母のこの言葉通り、夏と冬の長期休暇に入ると必ず潔家は鎌倉に遊びにきていた。しかし当時の凛は感情が大爆発していて理解するどころじゃなかった。
車が発進した直後、最後まで冷静であった冴だったが。突然勘が働いた。
世一はよく泣く子だった。些末なことですらも泣いてばかりだった。世一が泣き出すと、冴はいつも世一を宥めて収まらせた。それがやがて身体に染みついてしまって、世一が泣き出す気配を敏感に察知するようになったのだ。
なのでこの時も冴は察知したのだ。
「世っちゃん泣いてる」
冴は走り出した。走り出す車を短い脚で追いかけたのだ。両親がぎょっとして、冴と呼ぶも、冴は止まらない。しかし、いくら天才サッカー少年であったとしても、一小学生が車に追いつくことなんて出来やしない。
と、思われていたが、徐行していた車が停車した。助手席から世一の母が出てきて、後部座席のドアを開けた。すると、後部座席に座っていた世一が自分で降りて、弾丸のように冴に向かって走った。
「さえちゃああああ~~~~~~ん」
世一は泣いていた。滂沱の涙を垂れす小さい身体を冴は受け止めた。別れが悲しかったのは凛だけではなかった。前日までずっと泣き腫らしていたらしいが、悲しいお別れだと悲しいままだから最後は笑顔でばいばいしようねという両親の言葉通りに振る舞っていただけのことだった。
冴の服を涙と鼻水で汚す世一の頭をぽんぽんと撫でていると、凛もまたぎゃんぎゃん泣きながら駆け寄って来て、冴の背中に張り付いた。オイなんで俺だ、世っちゃんにいけよ。と言いつけてもぎゃあぎゃあ泣きわめいて聞こえていない。結局、別れの出立は大幅に遅れたし、世一も凛も最後までずっと泣いていた。
お別れといってもこのご時世、スマホがあればいつでも連絡できる時代である。鎌倉と埼玉と別れ別れになってしまったが、親のスマホを通して世一とはずっと繋がっていた。小さな画面で潔母と一緒に写る世一が、さえちゃんりんくんと手を振ると、冴よりも凛が嬉しそうに反応して、よっちゃんだあ!とはしゃいで破顔する。また母親伝手に世一がサッカーで活躍していることも知ったし、『泣き虫世っちゃん』という汚名も返上したという情報も得た。