凛と一緒(18)終 試合に勝とうが負けようが(負けたことは無いが)、試合が終われば凛が潔の家に直行するのは当たり前のことで、潔が凛と一緒に帰るのは語るまでもなく当たり前となっている。
帰りの道中、自転車を押しながら、潔は強い後悔の念に駆られていた。
「ああああああああ……」
「さっきからうるせえ」
生きる屍のような呻き声を合間合間に上げる潔に、凛が容赦なくぶった切る。公衆の面前で凛にしがみついて大泣きした行動を取った潔はとてつもない羞恥心と後悔の嵐に挟まれていた。
「思いっきり泣いちゃった…思いっきり叫んじゃった…だれか殺して…」
念仏のように繰り返し口ずさむ潔など、凛はどこ吹く風のように素通りを一貫している。仮にも彼女が泣いているというのに、その態度は酷過ぎやしないかと、第三者がいたら突っ込んでいたところだ。
帰路を辿っていた途中で、突然止まった凛が、潔の腕を掴んだ。地面を向いていた顔をのろのろと上げて、泣いた痕が濃厚に残った目で凛を見上げた。
凛が見ていた。視線が交差する。静謐をたたえる双眸が何かを言いたがっているのを、潔は読み取った。自転車を押す手を止めて、凛の言葉を待つ。二人の間に時間が少しだけ流れた。
「…………俺は、サッカーで世界一になる」
沈黙を、凛が破る。寡黙で無愛想な声音で告げた。
「兄貴を超えて、世界を獲る。それが俺の人生だ。俺はこれからもずっとピッチの上で戦いつづける」
凛の双眸は潔を捉える。潔の双眸を見つめる凛のそれは、絶対に離さないという強い意志を宿していた。
「だから潔―――――お前は一生、俺のすぐ近くで、俺が世界一になるのを見届けろ」
息が一瞬止まりかける。胸がじわじわと侵略するように熱くなる。
今日が最後と思っていた隣は、これからもずっといろというその言葉は、果たして。
「それはお前の“エゴ”か?」
「無論、異論は認めねえ」
「出たよそれ…」
これからも必要としてくれているのだと、隣でプレーしていていいのだと、全部が許されている気がして……ぽっかりと空いた穴が埋まっていく感覚に、目頭が熱くなる。
「私のサッカーは今年で終わるよ…それでもいいのか?」
「お前がこんなんで終わるわけねえだろ、タコ」
「それ励ましてんの?」
「お前も俺も世界杯に出て、オリンピックにも出て、優勝すんだよ。だが、世界一になるのはお前じゃなくて俺だ潔」
誰もが笑い飛ばすような夢を、誰かに話したことはない。
思い返せば凛は何も言わずとも知っていた。潔の夢を手に取るように理解していた。出会った当初から度々口にしていた世界一という言葉は、潔がその夢を追ってがむしゃらにプレーしていることを知ってのことだった。
なんで凛は知っていたのか。それは凛もまた、潔と同じ夢を見ていたからだ。
潔はついに諸手を上げて、泣きそうな顔のまま微笑んだ。
「分かったよ。わかった…」
でもな、凛!夕焼けの中、潔は胸を張った。
「世界一になるのは俺だ!」
凛から見れば、純粋であどけない子供のような輝いた目をしていた。
凛は笑わない。受けて立つと、表情で物言っている。潔はそれをくみ取った。
「じゃあ、どっちが先に世界一になるか勝負だな!絶対に負けないからな、凛!」
「精々吠え面をかく準備でもしてろ、潔」
粗暴で礼儀もかけた無遠慮さで応える凛に、潔は久しぶりに笑った。凛の方がスタートは早いが、絶対に追いついてやるからな。心に熱く決めた訳だが、次の瞬間。
「潔」
「ん?」
「結婚するぞ」
おう。と反射的に答えようとしたのを、ぴたっと止めた。
「………………………………ん?」
凛に腕を掴まれたまま、潔は目を丸くした。いま、こいつは、なにいった…?
「結婚するぞ」
固まる潔にわかりやすいように、端的に、明確に、明瞭に、凛は言い放つ。
潔の中で時間が止まった。とっても長く感じた。
凛の言葉をかみ砕いて、嚥下して、ぐるぐると回転する思考が止まらず、熱暴走を起こした。
「はえ…?」
「んだよ、みっともねえ声出してんじゃねえ」
いやだってお前。なんの冗談だよそれ。いやそれ冗談なのか?冗談だよな?そう言ってくれよ凛。熱暴走を起こしまくっていたせいで言葉が頭の中に浮かんでは消えて浮かんでは消えてを繰り返して、あ、う、は、え、と言葉にならない声ばかりが震える唇の間から漏れるばかりだ。
「明日…いや、今日行くぞ」
腕を掴んだまま潔家とは正反対の方向に向かおうとした凛を、我に帰った潔は足底に力を精いっぱい入れて抵抗した。
「ちょいちょいちょいちょいちょい待て待て待て待て」
「異論は認めねえ」
「そういうことじゃないのよお前意味わかって言ってる」
「うるせえ黙れ殺すぞ」
プロポーズ直後なのに殺害予告された。いやそれは良いとして。良くは無いけど。
「今からどこ行くんだよ」
「役所に決まってんだろ馬鹿」
「なんで」
「結婚届貰いに行くんだよタコ!」
「だからなんで」
「結婚する為に決まってんだろクソ潔ぃ」
突拍子もなく凛がキレた。意味わからない。いきなりのプロポーズも意味わからない。凛がたまに意味わからない。てかなんでプロポーズした相手にキレてるのかも罵倒してるのかも意味わからない。
言えるのはただ一つ。
「せめて私の意志は聞いて頼むから」
『泣き虫世っちゃん』と呼ばれていた時分に母に尋ねたことがある。ママはどうしてパパとけっこんしたの?と。母はまだ何も知らない純粋無垢な我が子にこう答えた。パパと会った時に、パパのこと好きなんだな~って思ったから結婚したのよ~。結婚はね、好きな人同士でするものなのよ~。
確かに好きだけど。好き同士だけど。だからといってこんな急に決まって性急に事を進めるべきではないことは、流石に理解している。
「お前が俺と一緒にいたいっつったんだろうが」
「それはサッカーの話な人生とは言ってねえよ」
「どうせお前も俺も人生イコールサッカーだろ」
「いやそうだけどそうなんだけど流石にこれはちょっと違うってことは私だってわかるんだけど」
「一生サッカーしたいっつっただろ」
「一生とは言ってねえずっとだ」
「同じだろうが」
「都合のいい自己解釈してんじゃねえ」
「ああ人をその気にさせといて今更無しにしてくださいって逃げんのか」
「逃げる逃げないじゃなくててかまじでまじでほんとに、いきなりはやめろよお前は私をどうしたいんだよ心臓がいくらあっても足りないんだけど私を殺す気か」
夏休みのプール帰りの小学生三人が激しく口論している潔と凛を遠巻きに怯えているのだが、そんなことに気付いていない。人生の大事な話で言い争うというのもおかしな話だが。なんでこうなった。
痛む額を抑えて潔は深呼吸をして、少しだけ落ち着く。
「あのさ、凛…」
「あ?」
「まずはお前。結婚したいって思うぐらいに、私のこと好きなん?」
凛が口を噤んだ。無反応。
「お前…勢いで言って良いことと悪いことがあんだろ…」
凛のことを深く理解している潔だからこそ怒りはしないけど。もし潔ではなかったら今頃平手打ちが飛んでいたとこだし、たちまち修羅場になっていたところだ。
「勢い、じゃ、ねえ…」
凛からの声に、潔は目を見開いて顔を上げた。
「いまさら…お前以外のやつなんか…そばにおけるかよ…」
凛は顔を俯かせていた。前髪が長いせいで表情が隠れている。逆光はあるもの、髪を上げれば顔が見れることだろう。それでもって、声がやけに上ずっている。
そういえばさっきなんと言ってたっけ?その気にさせといて?結婚届?そういえばその前になんか言ってなかったっけ?――――お前は一生、俺のすぐ近くで、俺が世界一になるのを見届けろ――――まさかさっきのあれは宣言ではなく。宣言は宣言でももっと別の――――プロポーズだったのか…。
いやわかりづらい。わかりづらいぞそれは。わかんねえって。もっとわかりやすく言ってくれよ頼むから。
責めるべきなのは自分に向けられる他者からの感情に無自覚鈍感の潔でもなく、コミュニケーション能力最低値言葉足らずの凛でもない。あえていうなら、自分の言葉がどれほど他者に影響力を与えるのかを全く理解していない潔の無自覚さと、自分の知らないところで男を誑かす潔まじでどうしてくれようという凛の確信的思考と、さっさと潔と結婚して俺と親を安心させろよ愚弟と何かにつけて言いつける冴の言動である。
「あのなあ、凛…」
俯いてばかりでこっちを見ようとしないエゴイスト凛に、潔は半ば諦観したように言い紡いだ。
「まずな、結婚届じゃねえ。正しくは“婚姻届け”だ。それから日本では女子は十六歳から、男子は十八歳から結婚できる」
潔は十七歳なので結婚可能年齢であるが、凛はまだ十六歳なので達していない。いくら本人が望もうと法律の名の下では何もできないのが無情の現状なのである。梅干しを食べた時みたいにかちんと固まった凛の反応を見て…潔はため息を一つこぼした。
「とりま。結婚の前に婚約だな。順序はきちんと踏もうぜ、凛」
弾かれたように凛が顔を上げた。目を見開いている顔は、驚愕していると顕にしている。初めて見た顔に、やっと仕返しができたと清算した気持ちで小さく笑う。
凛と出会った時点で、きっとこうなることは、決定事項だったのかもしれない。
願うことなら、これからも、これから先も、ずっと――――凛と一緒にいたい。
さあ、母さんたちが待ってるぞ。手を引けば、生気が抜けきったような、人生分の勇気と胆力を使い果たしたような、口から魂が抜けたみたいな顔をしていたのが視界に映ってしまったので噴き出すと、脳天を思いっきり叩かれた。これこそ糸師凛である。
そしてそんな横暴にして天才と、ずっと共に歩むことを望むのが、潔世一である。
帰宅後、潔と凛を待っていたのは、W杯日本代表強化合宿責任者と名乗る男であり、潔と凛はその男によって世界への切符を渡されることになる。潔はドイツ、凛はフランスに渡り、研鑽を積む。
さらに数年後にはW杯が開催。スタンディングメンバーに糸師冴が招集され、糸師凛も出場する。
また女子W杯も開催される。厳格な審査の元に選出によって、潔世一の入団が決まる。
それからまもなく、日本を優勝に導いた二人の立役者の報告記者会談が開かれるわけだが、それまた別の話である。