My Lovely Heart in a Raincoat ソファに身を預け、気怠げにネクタイを緩めた。鞄は床に放置。雨の日というのはどうも疲れて嫌になる。それに明日は土曜なのに出勤だ。気分が沈んで仕方がない。
天井を見ながらぼーっとしていると、外からがちゃんと音がした。誰かが自転車をマンションの駐輪場に停めたのだろう。聞き慣れた音に恋人かもしれない、という希望は持たなかった。急な雨の中、連絡もなしに自転車で来るはずがないのだ。
会いたい。でも明日も出勤。憂鬱だ。
ピンポーン。
こんな日に誰だ。インターネットで何か頼んでいただろうか?変な勧誘でなければいいけれど。
無視しようかと思ったが、雨の日に待たせて風邪でも引かれたら此方も気分が悪い、と重い身体を起こして扉を開けた。
「ジャック!」
「……ナワー、ブ…?」
現れたのは会いたいと願った恋人だ。パッと気分が晴れると同時に驚きに固まり彼を見た。頭から爪先までびしょ濡れ。額には乱れた髪の毛が張り付いている。それなのに何も気にせず此方を見上げる瞳と切羽詰まった声にジャックは少し焦った。
「どうしました、こんなに濡れて息まで切らして、急ぎの用でも…あ、この前忘れていった上着ですか?」
「……お、…………」
「お…?」
先程の威勢の良さは何処へやら、ぱっと顔を伏せて発した声は雨音に負けた。全く先の予想がつかない音しか聞こえなくて思わず聞き返す。
「…お、まえに、会いたかった…だけ」
会いたかった。ただそれだけ。
彼はゆっくりと顔を上げる。その恐る恐るといった上目遣いがいじらしくて、その健気さに今すぐ応えたくて、手を伸ばして頬へ触れた。濡れた髪を整えてやると思わず、と目を細める様が可愛らしい。
「私も会いたかった。丁度恋しく思っていたところです。来てくれて本当に…本当に嬉しい。でもどうしてこんな…傘は?」
「大学の帰り…自転車なのに、急に降ってきたから」
「そのまま来たんですか?」
「………今すぐ、会いたかったんだ」
あの音はナワーブの自転車のものだったらしい。
照れたように言って、ナワーブは今更濡れてる事を気にして足元を見たり袖を見たり、玄関が濡れないよう気遣い始めた。
決して弱くはない雨。それでも心を止めるには至らなかった。感情を抑えられなかった。顔を見たいと、ただその一心で此処へ来た。
そんなの、嬉しいに決まってる。
顔がだらしなくなるのを必死に抑えて平常を装い大人としての矜持を保つ。しかし喜びを隠す必要はない。友人でも両親でもなく、たった一人、自分に会いたかったのだ。背の低い恋人に合わせて少し膝を曲げ、腕に優しく抱き込んで愛おしさを伝えた。きっと全速力でこいで来たのに、濡れた服の下の身体は冷たい。
「さあ、風邪引かないように、一緒にお風呂入っちゃいましょう。まだ夕方ですし、夕食もどうですか?帰りは…大きいでしょうが私の服とレインコートも貸しますから」
「うん……ぁ、あの、さ」
どうせすぐに洗濯機行きだからと水浸しの恋人を姫抱きにして扉を閉めると、ぎこちない仕草で胸元のシャツを引っ張られた。
「明日俺、大学休みで…」
「…すみません、ナワーブ。明日は仕事で、君との時間を作れそうにない…」
なんて事だ、彼からのデートの誘いに応えられないなんて!
小さな声で、勇気を振り絞って出した言葉だろうに、私には断ることしかできない。こんなの恋人失格だ、と頭の中で後悔が廻る。
何故私は明日に有給を取らなかったのだろう!
考えたってどうしようもないことで過去の自分を責めた。
「外せない会議があるんです。…ああ会社なんて潰れてしまえばいいのに」
「いや、それでいいんだ。っあ、……えっと、その…」
心からの叫びに彼は意外な返答をした。言い淀む恋人を抱いたまま、それでいい、とはどういう意味かと続きを待つ。言うつもりの無かった言葉が出たようで、少し慌てた後たっぷりの沈黙を置いて口を開いた。
「………いってらっしゃいの、キス…したくて」
真っ赤な顔を隠すように強くシャツを引かれる。予想外の言葉を飲み込むには時間がかかった。
キス。キスしたい。いってらっしゃい、の。明日の朝、自分が家から出る時、彼は家に残って、送り出すために、キスしたい。
デートのお誘いじゃない。これは、
「ッあの、お前が嫌じゃ…迷惑じゃ、なければ、で、」
「…明日は一日、何も無いんですか」
「う、うん」
「潰しても構わない日ですか」
「へ……?」
「ベッドから出られなくても、平気ですか」
静かな室内、密かな雨音の中、無意識に抱く腕に力がこもる。
「君を、私のものにして、いいんですか」
「…………!!」
ナワーブは顔を真っ赤にして目を見開き此方を見上げた。それにしまった、と内心舌打ちする。
これは他意のないお泊まりのお誘いだったか。
かといって、抑えられるはずがない。散々手を出さぬように自制してきたのに、隣に恋人がいて冷静に寝ろと?まだキスにさえ頬を赤くする関係。長年連れ添った恋人ではない。健全な幸福感だけを感じろというのは無理な話だ。
しかし、こんなに初々しいお誘いを疾しい方面に取ったことはかなり申し訳ない。
「すみません、意味を取り違えました。ですが、君の願いがそのまま実現する程……私は大人じゃない。私は君にそういう感情を抱いている男だという事を、どうか忘れないで」
恋人をゆっくりと足元から下ろす。
泊まるなら、その先が伴う。
そう提示しなければ、純粋な青年を騙した悪い大人になるという確信があった。自分からは帰せない。帰したくない。だから脅しを突きつけて帰宅を選択させるのだ。
こんなにも大人げない私をどうか許して。
「…………いい、よ」
「………は、」
「お前のものに、して」
「…断っても、私の愛は変わらない」
「違う。情けとか、妥協とかじゃない………ほ、ほんとう、は、……っずっと、前から…」
濡れた腕を伸ばして抱きつかれる。その遠慮がちな力加減に、宿泊とキスのみを望んだ理由がわかった気がした。少し不安に感じていたのかもしれない。身体の関係を受け入れてくれるのか。そこまで踏み込んだ関係になれるのか。
もしかしたら大人の私にとって自分はお遊びかもしれない、と。
だから段階を踏もうと思ったのだろう。手を出さなかった事でそう思わせていたのなら反省せねばなるまい。それともただ、羞恥心が勝っていただけだろうか。
「お前に、…ぁ……あ、あいして、ほしい」
「っ、どこで、そんな言葉を覚えてくるんです」
「お前が思ってるより、俺もお前の事が好きだって……それだけ」
「嬉しい事を言ってくれますね……明日本当に動けなくしてしまいそうだ」
「…?なんでだ?」
「腰が痛くなる」
沢山使うから、と耳元で囁く。
優しくするけど自信なんてない。愛をぶつければこの小さな身体は、きっと動けなくなる。
何も知らない無垢な青年はそれを想像してか、みるみる頬を紅く染めていく。困ったように不自然に口を開き羞恥する姿が愛おしい。
この可愛らしさ、本当に大学生なのだろうか。自分に滅多にない庇護欲が湧く様に小動物を連想させられる。いや、もしそうならば、彼に欲情する私はかなりの変態なのでは。そう思って自分の為にも思考を止めた。
腰を撫でればひく、と小さな尻が跳ねる。図らずも艶かしく舐めるような手つきになった。こんなに自分の理性が信用ならないのは初めてだ。
「ッ、うん、大丈夫」
「私は大丈夫じゃないんですがね。疲弊した君を1人置いて行くなんて。やはり会社なんて消えればいい」
「駄目だって。いってらっしゃいしたいのは本当だから。ただ無性に会いたくなって来ただけなのに、欲が出た。……思いがけず、その先も叶う事になったけど」
はにかむ表情の奥には僅かな、でも確かな期待が揺れる。
顔が見たい、からいつの間にか夜を共にする、に変わった。それら全て、恋人が望むものである事が嬉しくてたまらない。果たして朝までに彼を離すことはできるだろうか。
「待ってるから。…帰ってくるまでずっと…家にいても、いいか?……おかえりなさいの、キスも…したい……」
「…本当ですか」
「お前が、良ければ、で、」
「勿論です。明日も頑張れそうだ。なるべく早く帰ってき、」
くしゅん!!
「………お風呂入りましょうか」
「……うん」
話に夢中であろうことか恋人が濡れ鼠であることをすっかり忘れていた。風邪をひかせてしまう、と風呂場へ向かおうとして声がかかる。
「…別々で、いい?」
「……そうですね。お先にどうぞ」
「あ、ありがと…」
彼はか細い声で礼を言ってから小走りで風呂場へ消えた。この後を考えると恥ずかしさでどうにかなりそうなのだろう。
此方としても嬉しい申し出だ。
散々一緒に入ったけれど、今日ほど愛しい恋人と共に入りたくないと思ったことはない。
絶対に、風呂場で襲うから。