今日貰うもの、奪うもの ガシャン、と煩い機械の音と共にサイレンが響く。
たった2人。残った仲間を逃して地面に倒れ込む。
「ごめんなさいね、お誕生日なのに」
ヴィオレッタはせめても、と優しく繭に包んでくれた。血と土に汚れた顔で最後の力で礼の代わりに微笑めば、彼女は包み終わった手をばいばい、と振った。
今日は誕生日。これは本日最後のゲーム。帰ればパーティー。それなのに。
まだ、恋人には会っていない。
ゲームが終わり、ナワーブは自室のベッドに腰をかけてぼうっと扉を見つめていた。
ナワーブには悩みがある。ここ最近の話ではない。
殺人鬼から愛の告白を受けて半年ほど越した。彼に特別な感情を抱いていないままYesと答えたのは、単に彼の示す愛に興味があったからだ。それを隠して冷静でいたつもりだったのに、隣にいるのが心地良くなり、気が付けば彼に好意を抱いていた。
彼は紳士的だったが、恋人ともなれば相手とより深く触れ合いたいと思うものだろう。
それなのに、彼はまだナワーブに手を出さなかった。互いの部屋で晩酌をしたりそのまま眠ることだってあったのに。ベッドでわざと彼に背を向けて様子を伺っても、何もしない。酔ったふりをしてもたれ掛かっても、暑いと言って胸元をはだけさせても、頬を染めてキスをしてベッドに押し倒しても。
『かわいらしいひとだ』
そう言って髪を撫でて、軽いキスを返して、おしまい。仮面を外しもしない。
自分のことが嫌いになったのだろうか?
興味が失せたのだろうか?
飽きてしまった?
先に好きになったのはお前のほうなのに。
思い出して、少し俯く。
よく考えればそうかもしれない。もう飽きられているのかもしれない。柄にも無く、付き合って1ヶ月の記念にと羞恥心を押し殺しながらワインを持って行った時だって。
『ああ……そうか、そうですね』
驚いた顔を隠していた。
この男ならそういう事を気にすると確信していたのに、きっと彼は忘れていた。今日だって朝から会っていない。
かち、かち。時計の音が責めるようで机に伏せさせる。
部屋の扉を見つめる。自室にいるのは誕生日パーティーは呼ばれるまで部屋で待機、という暗黙のルールを守っているだけじゃない。
パーティーの前にリッパーが現れて、自分を祝ってくれるのではないかと待っているのに。コンコン、と響いたノック音は彼のものではなかった。
大きなケーキを切って、肉を盛り付けて。賑やかで煌びやかなパーティー。何度も会場を見回した。歩き回って隅々まで探した。それでも恋人の姿はなかった。
「もう、終わり、なんだな」
ワインを煽ってグラスを机に音を立てて置く。それに起きる仲間はおらず、それを横目に席を立つ。酔いたいのに上手く酔えなくて、変に気持ち悪い。身体は火照っているのに心の底が冷えていく。震える手を壁に付いて自室の前まで歩いた。ふと、床に紙切れが落ちているのが見えた。拾えばそれは封筒で、美しい封蝋をしている。あまりにも綺麗だから、丁寧に開封して中を取り出した。
内容は、自分の部屋へ来るように。右下のサインはJ。
「これで、さいご………」
折角丁寧に開けた封筒を手紙諸共握り潰した。もう何もかもがどうでも良くなって、はは、と乾いた笑い声が落ちる。それが自分の耳に届いて泣きそうになる。
彼の部屋の扉までがやけに早かった。手前で止まる。フードを被ってから扉を見据える。ノックをすればすぐに扉が開いた。
「こんばんは」
仮面をしたままのリッパーが部屋へと招く。開きかけた口を噤んで彼の後へ続く。ベッドサイドに置かれたテーブルへ辿り着くと椅子を引かれた。それに腰は掛けなかった。意を決して、息を吸う。
「お前の言いたいことは、分かっている」
声が少し震えている。情けなくて嫌だ。
リッパーは振り返って此方を見ている。表情は分からない。そのはずだ。彼の素顔を見たことなんて、無いじゃないか。恋人なのに。
「もう飽きたのなら、この関係はやめよう。元々俺も好意を持っていた訳ではなかった。悪く思う必要も、ない、から」
声が萎んでいく。
本当はもっと隣にいたい。共に時間を過ごしたい。
自分は何をしているのだろう。自分の想いくらい主張すればいい。この感情を言ってしまおうかと戦慄く唇を律する。みっともなく泣いて縋ろうか。しかしそうすれば面倒臭い男になる。それは嫌だった。
彼の心は決まっているのだ。恋人の誕生日に顔を合わせないのだから。
「今まで、あり、がとう……お前といるのは、たのしかった」
「……何故、私が貴方に飽きたと思うのですか」
何ともないように繕っている姿が崩れそうになって踵を返した背中にリッパーの言葉が刺さる。
知っているくせに、言わせるのか。
もう苦しくて答えられない。この顔を見せられない。ここに居たくない。部屋に戻ろうと歩き出そうとした。
不意に引き留めるようにその肩を掴まれる。
大きな手。その手にもっと触れたくて。もっと触れてほしくて。熱を感じたかった。鼓動を知りたかった。その仮面の奥に、口付けたかった。
この気持ちに応えてくれなかったのは、お前だ。
心が決壊する。振り返って叫んだ。
「ッわかっているはずだ…!お前と、ふかく、触れ合いたくて…っ何度も、誘ったのに…一度も、手を出さなかった…!今日だって、ずっと…ッずっと、まって、いたのに…っ!」
もう取り繕えない。言葉と一緒に涙が落ちる。
みっともない。情けない。彼が好いた『傭兵』はこんな自分じゃない。
止めたい涙は止まらない。ボロボロと落ちて目の前が霞んでいく。
「馬鹿、みたいだ…!お前と過ごす今日を…たのしみに、していたのが…っばか、らしい……!」
昨日の夜だって日付を越したら扉が開くかも、と鍵を開けて待っていた。プレゼントはなんだろう、と期待して、薔薇の花束を貰ったらどうしよう、と瓶を用意した。
「キスなんて、返すな…甘い声で話さなくていい……お前がそうするから、俺は……ッ!」
こんなに、こんなにも、人を好きになったのは、愛したのは、はじめてだった。
お前がそうやって俺に優しくするから、諦められなかった。他人に気を割き試行錯誤をするのは初めてだった。
焦りに頭が混乱する。変に入った酒が心を静かにさせない。これ以上酷く泣き喚きそうになるのを唇を噛んで辛うじて止める。頬を水が流れていくのが分かる。顔を見せたくなくて俯く。涙で歪んだ視界に大きな靴が見える。
それが一歩、此方に近付いた。
ずっと震えている指を骨張った手が引く。
「………貴方が、記念日など気にしなければ」
落ち着いた静かな声。手を取られたまま、訳の分からない脳内に彼の言葉が響く。
「貴方が恥じらいもなくベッドへ上がり服を脱ぎ捨てる男なら、すぐにでも抱き潰していたのに」
リッパーは身体を寄せる。フードの被った俯く頭が彼の腹に当たった。
「貴方はそんな男だと思っていた。細かい事に無頓着で羞恥心のない武骨な男だと」
あの時の彼の驚きは1ヶ月の記念日を忘れていたからではない。ナワーブがそれを気にしたことへの驚きだったのだ。
リッパーに合わせて記念日を祝おうとした。その逆で、リッパーは気にしないだろう自分に合わせようとした?
「ナワーブ。貴方は私を『誘った』と言うけれど」
低い声が耳元に吹き込まれる。背筋が粟立った瞬間、グルンと視界が回った。背中に柔らかい感触。開けた視界に彼の仮面。涙で濡れた顔で彼の顔を見上げるしかなかった。
彼の右手が動いて唇に触れる。
「かわいらしいキスしかできない貴方に、どうして簡単に手を出せようか」
「………!…っ、はぁ…っ」
その手は首筋を通って胸から腰を撫でた。その艶かしさに唇が震える。視線が手に釘付けになって離せない。腰から内腿へ。あまりにも扇情的な手つきに頬が上気する。ふる、と顔を振った。
リッパーは爪のない左手をベッドに突いた。
「貴方が記念日を大切に思える性格ならば、この特別な日に、貴方を奪いたかった」
彼が身を乗り出してナワーブに影を落とせば、逃げ出せない檻になる。
「ナワーブ」
低い、掠れた声。自分にしか聞こえない声量の、欲に、掠れた声だ。それだけでぞわぞわする。
「貴方の為に私がどれほど我慢をしたか知らないだろう」
「っん、ふ…!」
リッパーが足の間に膝を入れてベッドに乗り上げる。下腹部を軽くトントンとされてから、焦らすように撫でられる。触れられているだけなのに声が抑えられない。尻の間をなぞられて腰が勝手に揺れて浮く。
それを見たリッパーは仮面から裂けた口角をはみ出して口だけで笑った。
その顔が見たい。
それに気付いてまた口元が裂けていく。
「私の素顔を見たがるお前に何度舌舐めずりしたか」
口調が変わる。
仮面が剥がれていく感覚。本性がその隙間から見える。
リッパーはナワーブの顎を捕まえた。
顔を傾ける。
仮面に手を掛ける。
白い顔が露になる。
紅い舌が蠢く。
ほんとうの口と口が触れ合った。
「誕生日、おめでとう。私のナワーブ」
今夜はまだ、始まったばかり。