さばくのくに 憂鬱の青の住む森は賑やかだ。
採れた果物を籠に入れて運んでいると、遠くの広場に人混みが見えた。その中央にいるのは朗らかで頼りになる性格の森の人気者の明瞭、青の憧れだ。何の取り柄もない青にも分け隔て無く接してくれる。しかし青には自分から駆け寄る勇気も無く、遠目で見ているだけ。
そうして見惚れていると、手元が疎かになり積んだ果物を落としてしまった。明瞭ならこんなドジは踏まない。馬鹿な奴だなと自分を叱りながら手を伸ばすも、足元の小石に体勢を崩し後ろに大きく仰け反る。木の葉の隙間から覗く太陽が顔を照らした。
「ッ、まぶし──────」
そう、青は森に暮らしていた。はずだった。
「曲者だ!囲め囲め!!」
青は訳も分からず疾走する。
気が付けば尻餅をついた先は砂で、落とした果物も、生い茂るような緑も何処にもない。燦々と輝く太陽の下、中庭のような場所にポツンとひとりいた。それを見つけた数人が叫び声を上げて人を呼びこの始末。何を言っているかは勿論、なぜ追われているのか、自分が何処を走っているのかも分からない。ずっと続く石壁の迷路を駆けていると、到頭行き止まりに出てしまった。同じ服装の人々は容赦なく青を捕らえ、抵抗虚しく引き摺られることとなった。
「ファラオ!」
「会議を何と心得る。騒がしいぞ」
兵士に放られ、青は人々の集まる広間の中央に倒れ込む。
「なんだ」
「侵入者でございます。宮殿内に忍んでおりました」
侵入者!と辺りが驚き騒めき出す。
青は顔を上げた。数段上には装飾の美しい椅子があり、そこに男が座っていた。目元は威厳ある化粧に包まれ上から見下ろしている。あまりの圧迫感に目が逸らせない。
きれいで、おそろしい。
「無礼者!顔を下げろ!」
「っあ、ぐ」
頭を石床に叩きつけられる。抵抗しようとすると周りから槍を突きつけられ恐怖に慄いた。のしかかったまま脅すかのように肌を掠めて布を裂く。
広間の人々は声は大きくなる。
「なんて奴だ」
「服を見てみろ、異国の者だぞ」
「牢に入れるまでもない。打ち首だ」
「無礼者を殺せ!」
それも男が席を立つと静まった。ゆっくり此方に近づき、青を立たせるよう指示すれば衛兵が両脇を抱えて粗雑に拘束する。
青は顔を真正面から見た。いや、正確には少し見上げるくらいか。
「お前、何処から来た?」
「……なに…何言ってるのか、わからない…!」
「なんだ……聞いたことのない言葉、」
「ここどこなんだよっ…!一体、」
「無礼だぞ!」
「いや、良い」
話を遮った青を咎めようと槍を掲げた兵を男が御する。その様子に何もかもコイツのせいだろうと睨みつける。
この偉そうな奴のせいで、追われて、額を打ちつけられて、槍で脅されて。きっと、この地に来てしまったのだって!
こんな時、明瞭なら。
青は怯えを振り払い目の前の男へ精一杯威嚇した。
「………気に入った」
「、んむ」
王はむんずと片手で青の頬を鷲掴んで口角を上げた。青はその顔の近さに驚きながらも目の前いっぱいに広がるその表情に目を見張る。
なんだか、すごく、楽しそう。
コツン、と広間に音が響き渡る。皆が一斉に王の座っていた椅子の隣を見上げたが、男の影にいる青には何も分からない。背の低い白髭の老人が杖を手に口を開く。
「王。聞き覚えのない言語、不可思議な服。未知の勢力の間者やも知れませぬぞ」
「だとして、ただ殺すというのは惜しいと思わないか?」
「態と呆けて何も知らぬように演じていると、その可能性もありまする」
「分かっている。逃さねば良い話だ。この細腕では私には敵うまい。気難しい猫のようで面白い。……此奴を晩餐に連れる」
「承知致しました」
「ほっほ…珍しい。普段は他人に目もくれないのに」
自分の目の前で、自分の知らない言葉で、自分の話が進んでいる気がする。集会は解散らしく、1番偉そうな男は青の頬から手を放して広間を出て行った。そうして開けた視界の遠くに見える老人は目元を細めてさぞ嬉しそうに笑っていた。
青は衛兵達に部屋に押し込まれ、室内にいる女性達に服を脱がされそうになった。混乱しつつも精一杯抵抗しているとあの男が入ってきて、何か言うと彼女らは頭を下げて青を解放する。
チャンスだ!
と逃げようとするものの叶わず、腕を強く掴まれ部屋を連れ出された。
「離せって!」
「最高級ではないとはいえ、美しいものを用意させたのだが…その服をさぞ気に入っているようだ」
「あぁもう、力つよ…っ!」
2人の後に衛兵達がぞろりと付いてくる。
本当にこの男は位が高いのだろう。その敷地内に入った自分を捕らえ、何故だか構ってくる。
この後豪華な夕食に連れられた。逃げようとするも周りは衛兵、隣はこの男。目の前の皿にアレもコレもと乗せられれば、頑なに手を出さない姿勢も腹の虫に崩される。心底嫌そうに食べたつもりなのに、隣の男は楽しそうに笑っていた。
その後は風呂。また女性達が服を脱がそうとするので自分でできる!と大声で叫ぶと壁で隔たれた隣からあの男の声がした。何か命令だったようでそれからは女性達は好きにさせてくれた。風呂から出てもまた連れ回される。そうしてある部屋に辿り着くとパッと手を離されて外から鍵。何処を見たって抜け出せない。どうしようもないので大きなベッドに寝転がればそのまま眠ってしまった。
「名前は?」
「…生レバー?」
「本当に言葉が分からないのか」
「何言ってんのか………なんでコイツは俺を連れ回すんだろう」
ふたつ、分かったことがある。
まず、彼が自分をここに呼び寄せたのではない事。最初は彼を疑った。不思議な力を使って呼び寄せた、とか、何かおかしな事に巻き込まれたのかと。しかしあからさまに動揺した周囲の人々を見れば明らかかもしれない。
そしてもうひとつ。
彼は王だ。
民達が崇める姿を見た。最高位の人間。
そんな人が政務中も自分を側におく。身体が沈むほどの布を敷き詰めた座椅子らしきものと見た事のない果物の入った籠の置かれた絨毯に座らされた。衛兵がびっしり。無駄だと解りつつ何度か脱走を試みたものの、流石に5回目にもなると痺れを切らした王の命令で柱に足を縛られてしまった。でもやっぱり、どこか楽しそうにしていた。解こうとすれば直ぐ衛兵に止められるので、大人しく果物を齧って地図を広げ討論する王を見ていた。
終わったと思えば懲りもせずよく分からない言語で話しかけられる。全く馴染みのない言葉。どう頑張ったってわかりっこない。この男だって分かっているはずなのに。
「退屈だったか?」
「ただ果物を食べてただけだった……俺を連れて来た意味ってなに…?」
「さあ、気晴らしに行くぞ」
ふわ、と身体が浮く。王は軽々青を姫抱きにした。目を白黒させているとあっという間に縄を解かれ連れて行かれる。それこそ猫を扱う要領で、簡単に。
向かった先は町だった。
抱かれたまま馬で駆けてきたが、その最中は抵抗など出来やしなかった。隣で砂に足を取られた馬が暴れて落馬するさまを見てしまえば恐ろしくて身体が強張る。
天幕に着くと低めのソファのようなものに降ろされ、手の届く所にまた果物の籠を置かれ、片足を縄で縛られる。待っていろ、という意味なのだろう。
天幕は目の前が開けていてほぼ屋外。一時的な拠点のようで少なくとも目視できる範囲に衛兵はいない。黄色い砂と岩と少しの植物が見える。
地理は全く分からない。でも、今なら監視の目が無い。だけど、この先で危険な目に合ったら?しかし、これは最大の好機。でも、でも。
明瞭なら、どうする?
彼なら、未知の場所へも果敢に赴き望みを叶えるはず。格好の機会を前に足踏みなんてしないはず。
この縄さえ解ければ逃げられる。
何重にも硬く結ばれた縄も、時間さえあれば解けないことはない。
「っ、やった…!」
「おっと、何処へ行く気だ?」
長い格闘の末の解放に砂漠へ駆けようとする青の腕がグッと強く引かれ、太い腕に抱き込まれた。見上げれば視察用に姿を隠すフードを被った王の顔が見えた。
「このじゃじゃ馬め。私を困らせるのが好きなようだ」
「……良い所だったのに」
「そう嘆くな。さあ、帰る前に急ぐぞ」
王が布を取り出す。また脱がされるのかと身構えたが、それを服の上から巻かれるだけだった。王と同じように顔を隠すようにして陽を遮り、夕暮れの町へほんの少し連れられた。
何日もそうやって過ごした。柱に繋がれて政務、待ちぼうけの視察、それでも豪華な食事。きっと待遇は悪く無いだろう。
それでも、青には辛かった。森とかけ離れた環境での出来事は確実に青を蝕み心を削っていく。
どれだけ日が経っても、森に帰れはしなかった。ここは知らない世界だ。どれほど遠くへ行けど、森に辿り着くことはないのだと。世界線を違えたのだと。名も知らぬ地に1人だと。
この砂漠から出ても、戻れない。
もう、逃げようとする気力も無くなった。
大人しい青に王は喜んだ。しかしいつもの調子が失せれば心配したのか、連れ回すことも減った。
「泣くな」
ぽたぽた、知らないうちに涙が落ちる。はじめは朝彼が扉を開けた時から部屋を飛び出して逃げ出そうとしていた青は、今ではベッドに沈むだけ。その端に座った王に涙を拭われる。なされるがままになった。腕を引けば歩き、姫抱きにしても抵抗しない。食事量は減った。
もう、疲れてしまった。
臆病な青は無理をして沢山の他人に気を張り、安らげる場所など無いに等しい。眠りにつく度、どうか夢であれと願う。何日も、何日も。
王のせいだと思っていた頃は良かった。そうではないと気が付いた時、行き場を失った感情は目的を失い中途半端に残って心を不安定にさせた。このままではいけないのに。出来ることなんて何も無い。抵抗しても、何にもならない。
目線の先は小さな木。細い幹に、少しの葉をつけた、弱々しい木。自分の知らない木。
青が元気を無くしてから、王は様々な場所へと連れ出した。オアシス、神殿、星空の見える高台。宝物庫の宝を手に取らせ、風呂に花を浮かべ、気分が晴れるよう部屋の壁を壊した。外の池が見えたって、そこを泳いで逃げようという思考にも至らない。どれも求める景色では無く、違いを見出しては望郷に頬を濡らした。
この木も青への施しのひとつ。王は青が植物に特別関心を寄せるのを気付いていた。隣には木と共に贈られた小さな如雨露が置いてある。
この木は水をやらねば死んでしまう。ここは森ではないのだから。
「………泣くな」
「……かえり、たい」
王は緩く身体を起こし背を向けている青を静かに抱きしめた。
緑が、木陰が、小鳥の囀りが恋しい。
それでももう、帰れはしないのだと、砂漠の中心で泣いた。
衛兵が青の腕を離して持ち場の門に戻る。
沢山の果物と壺いっぱいの水を背負わされ、いつも使っていた日除けのフードの下から、緩慢に後ろを振り向き覗き見た。
今朝部屋に入ってきたのは王ではなかった。兵士に連れられ王の元へ行くと何か言われた。分からないから黙っていると、王は寂しげに笑って抱きしめてから、優しく背を押した。
自分に飽きたに違いない。だから砂漠に捨てたのだ。持たせた物は餞別だろうか。眼前に広がる砂色の城。王はこの大きな宮殿のどこかで今日も政務に励んでいる。
一歩、足を踏み出した。驚くほど重い足取り。
知っているから。この先いくら進もうと、故郷には帰れない事を。
行き場のない青は何も考えずに前へ、砂に足を取られながら歩いた。見渡す限りの砂に囲まれたって、宮殿を出られた喜びなんて感じない。
この地で死ぬんだ。
どれだけ進んだのか分からない。分かったところで意味はない。もう、足が動かない。喉が乾いて苦しい。それでも背負った果物にさえ手を伸ばそうとも思えなくて、その場に倒れ込んだ。熱く焼けるような砂とそれ以上の陽射しに挟まれる。誰もいない、黄土色の海の真ん中。
目的の無い旅。理由の無い旅。さようならの旅。
煮え立つような空気の中、何も無い地平線を見つめて、ゆっくりゆっくり、瞼を下ろした。
どこか、慣れた香りがする。心地の良い風が吹いている。ぱしゃ、と水が跳ねる音。
いいな、水。俺も泳ぎたい。
宙を漂うような感覚から思考を切り離そうとすると、目の前が開けた。
「─────ッ、ごほッ」
あまりの光に目を眩ませると同時に、焼け付いた喉から咳がひとつ。
光の向こうから誰かが駆け寄る。それが作った影で全てがはっきりと輪郭を持った。大きなベッド、細い木、小さな如雨露。
砂漠の王。
「起きたか。衛兵、医師に伝えよ」
扉の奥から承知の声がうっすらと聞こえた。いつも誰かが側に付く王は、青が沈み込んでからは青といる時は故意的に従者を払う。
額に乗っていた布を新しく水に浸けたものに変えられ、薄い毛布の上からトントンとあやすように胸を叩かれる。
呪いだと思った。
この手から、この男から、この砂漠から逃れられない。
どうすればいい。どれだけ望めど、森には帰れない。
ならばもう、ここで生きてしまえと。
下を向いて涙を落とすのではなく、上を向いて笑っていろと。
何日も脳裏にしか姿を見せない明瞭が背中を押す。
こんな事言わないことくらい、分かっている。彼なら最後まで諦めるなと、肩を掴んで怒ることを、青は知っていた。
それでも、この世界に明瞭はいなかった。
王が床に膝を突く。青と同じ目線から、酷く優しく、後悔を含んで微笑んだ。濡れた手で火照る首元から頬へと触れられる。冷たい手は心地よかった。
妥協だ。憧れの明瞭が一番嫌うもの。
「道が、分からないのだろう。故郷に帰れないのだろう。……行く当てが無いのなら、もう離さない。共に居れ」
それなのに、世界はどこか明るさを増した気がした。