光の中へ 舞台袖に準備したペットボトルに手をかける。幕はまだ降りている。舞台袖に光はなく薄暗闇の中でだが、しかしいつもの習慣ともなれば何ら問題はない。
類はぞんざいにキャップを取り外し、その中身をグビリと流しこんでいく。乾いた口内に清らかな水分が満たされて、ああ、自分の身体は随分乾いていたのだと気づかされるのだ。
ワンダーステージで公演されている、ワンダーランズ×ショウタイムの舞台開始五分前。常日頃は自己管理をたいして行わない類ではあるが、このタイミングでだけは、伸びやかな演技をこなすためにも水分補給を心がけているのであった。
類がそうやって水を含んでやると、後ろ隣からも似たような喉の音がする。果たして、振り返ってみてやると、思っていた通りに類の恋人である司が舞台衣装に身を包み、同じように身体を潤しては舞台に飛び出すための準備をしているのであった。
「司くん、少し、傾いてしまっているね」
そう、言い訳をつけるように彼に近づいた。彼の胸にある大きな星のようなマークのワッペンは、今回の舞台の中で少しばかり重要になる小道具なのである。それが、少し傾いているのだと類は言ったのではあるが、客席へ出れば外へ開けているワンダーステージである。このくらい、ずれていたとしてもショーには何ら関係ないものの、単に、司に少しでも近づきたいという類のささやかで邪な気持ちがあって、それを敢えて伝えては近づいたのである。
「む、すまんな」
「構わないよ」
しかしそんな類の邪気を知ってか知らずにか、司は無防備に手のひらを広げて身体を委ねては類の修正を受け入れてくれる。類は、それが少しだけ嬉しい。何だか、彼に信頼されているような気分になって、これまでの日々に調整に調整を重ねたショーの内容や物語の紆余曲折について考えながら、これから披露されていく彼の晴れ姿について思いを馳せるのだ。
「今日は客が多そうだな」
少しだけ開けた舞台袖からちらりと外を覗き込み、司はポツリと呟いた。
「そうだね。ネネロボにも宣伝をお願いしてきたから、たくさんの人がきてくれたのかもしれないね」
本日は、新しい演目の公開日。宣伝だけでなく、各々の準備にも自然と気合が入る。
けれど、このピリピリとした感覚は嫌いではない。むしろ、それを類だけでなく司も好きなのだと自覚している事には、以前から話していてお互いに理解しているところだった。
緊張と、解放と、それから少しばかりの熱を共有できるこの瞬間は、ワンダーランズ×ショウタイムとしてだけでなく、司と類の二人に限った関係だとしても、とても大切な瞬間であるのであった。
「できたよ、司くん。……今回も、カッコいいね」
「ははは! そうだろうそうだろう!」
などとふざけては少しばかりの緊張をほぐしつつ、類は司からは手を離し、直していた衣装から滑らせるように視線を上げて、ドレスアップされた司を見た。
今回のショーは、あいも変わらず子供向けにわかりやすく作り上げたタイプではあるものの、司の役どころは主人公である騎士なのだ。ただでさえ、舞台メイクにより頬が白く整えられた状態で、右側の髪を上品に撫で付けて、品よく整えられた髪型をされてしまうと、いつもの彼よりはいっそうに、かっこよくて見惚れてしまいそうになる。
「フフ、司くん。カッコいいのは本当だからね?」
と類はうっかりこぼしてしまう。困った、にやけてしまう。舞台練習の時から、いや企画段階の時点で実は少しばかり期待していたのだが、やっぱり格好いい。いつもとは違う彼の上品で凛々しい姿。そして、本番前の緊張や責任からか、いつになく精悍な顔つきとなっている司のこの姿を、こんなにも近くで見られるのは本当に、恵まれた場所にいるなと惚気けてしまうのだ。
「ああ! オレはスターになる男だからな!」
などと冗談交じりに言う彼の元気な声も、すぐ近くから耳に響いてきて胸が高まってくる。
ふと見つめ合う。真剣で、熱をもった司の黄金色の瞳に射止められてしまう。
かっこいい。
いつもなら、かわいい、などと茶化し半分に見つめている彼の姿だが、本番前の、この瞬間ばかりは本当にとてもかっこよく、それは類が本当に、好きだと思っている彼の姿なのだった。
「類、」
目線を合わせたままで、彼は舞台袖の分厚いカーテンを引く。それは、今回の演出のために舞台袖を隠すため誂えていた大幕なのではあるが、その演出が行わるのは舞台の中盤以降。まだ、動かす必要もないのだが、なぜか、司はそれを手にとった。
舞台表にも繋がるその幕が、仄かに動いたせいで期待した観客がどよめいた。
そのどよめきの中、司の手によってこの舞台袖は出入り口を全て隠されて、この空間にいる二人は誰からも見えない個室に二人きりでいるような形になった。同じく演者である寧々やえむ達は、別の舞台袖に控えている。この場所にいるのは二人だけ。見つめ合っていた。そして、この胸の高鳴りだ。
自然と二人の顔と顔が近づいて、類が目をつむった一瞬に、触れるだけの柔らかなキスをした。愛おしい。夢みたいだ。こんな、一番好きな場所で一番好きな日に、一番好きな司くんが一番カッコいいこんなタイミングで。こんなにも柔らかであたたかい、やさしいキスをすることができるなんて。
一瞬、触れてお互いにゆっくりと顔を離していく。少しだけ頬が赤く上気しているように見えるのは、ここが暗い舞台袖だからかそれとも舞台メイクのせいなのか。けれど、再び目と目が合ったその瞬間に、お互いなんだか照れるように笑みを落としては目線を外してしまったので、その頬が、それぞれどうして温かい色になっているのかを、しっかりと確認することはできなかった。
それにその瞬間、ショーが始まる予定の時刻が来てしまったのだ。二人きり、この密やかに甘い瞬間は終わってしまい、一気に気持ちは舞台役者のそれに切り替わっていく。予め設定してあったナレーションが舞台に響き渡っていく。まず、一番に舞台へ飛び出して行かなければならない司の出番が来る。
「……司くん、よろしく頼むよ」
「ああ、もちろんだ!」
そう言いながら司は胸を張り、つい先程閉じた幕を今度は逆に一気に開く。暗闇だったこの舞台裏に一気に眩しい日の光が飛び込んできて、類は思わず目を細めてしまう。けれど、それにも動じない司は駆けていくように、舞台の中央へと走ってセリフを紡いでいく。
類から見たその姿は、光の中へ一気に消えていってしまうようにも見えた。ただ、その背からは目を離すことができなくて、明るさに薄めた目を何とか開こうとしながら、跳ねるような恋人の、ただひたすらに見惚れてしまう程に美しい姿を追おうとしたのだった。