ナイショの話 劉玄徳様、素敵な人だったな。
走り続けて消耗された体力よりも、弾む心拍に意識が向いてしまう。
こんな状況でおかしいかしら。孫尚香は覚えのない鼓動を打つ胸を、きゅっとおさえて壁にもたれた。
「どこから聞いてた」
なので、隣で返り血を拭った甘寧が問いかけてきても、関心事が他所にできた尚香の反応は薄い。
数秒間を空けたあと「あ、私か」と尚香が呟くと、甘寧は怪訝な顔をして返答を待っていた。
劉備の助力もあって追撃する曹操軍からなんとか逃げのびた尚香と甘寧は、補給拠点で体力の回復に努めていた。
遠くから怒号が響く。船がぶつかる轟音に、鋼が打ち合う音も。
戦時の甘寧は厳しい。それこそ、主君の妹である尚香と上官の妻である小喬に『無駄話をするな』『集中しろ』と遠慮なく正論で怒る程度には。
早く戦線に復帰しなければならない状況で、甘寧に話を振られるとは思っていなかった。
「最初から全部聞こえてなかったって言ったら、あなた信じる?」
考え事を邪魔された尚香は、ほんの少しだけ意地悪く返した。
甘寧は無言で補給物資の肉まんに食らいついたところで、尚香の返答に居心地悪そうに顔をしかめた。
「黄蓋ったら、昔から声が大きいんだもの」
黄蓋が偽の投降のため曹操陣営へ向かった後、甘寧は誰にも何も告げず黄蓋の後を追った。その後ろ姿が気になった尚香は、こっそりと彼らの後をつけたのだった。
敵兵を倒しながら追いついた時、尚香の眼前に広がったのは、凄まじい勢いで殴るわ蹴るわの大喧嘩をする二人の姿だった。結局は、黄蓋に二心がないことを示すための芝居だったそうだが。
────儂の離反証明のために命を落とす。お主の考えつきそうなことよ。
甘寧が自身を犠牲にしようと動いていたこと、それを黄蓋が見破っていたこと。黄蓋のあの言葉に、尚香は少なからず驚いていた。
甘寧は黄祖軍から投降してまだ日が浅い。尚香が甘寧と話した回数も両手で事足りる程度だ。彼の人となりを十分に理解してるとは言えないけれど、孫呉のために身命を賭す、なんて柄でもないように思えた。
「……さっきの話、言うなよ」
「誰に?」
「誰、って」
一番に、兄が思い浮かんだ。穏やかで、尚香にとってはちょっぴり口うるさい、心配症で優しい兄。兄に甘寧の行動が伝われば、きっと胸を痛めるだろう。
だが、甘寧の今の口ぶりは、兄の孫権を含めた"誰にも"という意味あいが強いように聞こえた。
気になる点はもう一つ。何にでも誰にでもはっきりとした態度をとる甘寧が言い淀んだことだ。
特定の誰かを思い浮かべたか、あるいは自覚がないのか。
尚香はそこに、甘寧が孫呉にいる理由があって欲しいと願った。
────あなたにもいずれそんな人が現れるよ。
愛しい人のためにがんばって、たくさん褒めてもらうのだという、小喬との会話を思い出した。
(『国のため』とか『家のため』とか『殿のため』とか、そんな大きな話じゃなくていいから)
あなたが自分を犠牲にしたと知られたくない人、そんなことをしたら絶対に怒る人、あなたのために悲しんでくれる人。無事に戻ってきたことを喜んでくれる、大好きな、誰か。"誰にも"の中にその人がいるのかしら。
(いてくれたらいいな)
尚香が物思いに耽っている間、甘寧は立ち上がって辺りの様子を伺っていた。
早くしろ、と急かすような視線を感じて尚香が立ち上がる。甘寧が手招きするのでそばに寄ると、彼は拠点の外の林を指さした。敵兵が数名うろついているのが見える。尚香は乾坤圏をきつく握り締めた。
「さっきの話」
「あ?」
「聞かなかったことにしてあげるから、また私に稽古をつけてね」
「あんたと打ち合うと周りがうるせぇ」
「じゃあ、今度はこっそりお願いするわ」
「俺は加減を知らねぇぞ」
「だからお願いしてるのよ」
甘寧が言う通り、彼の稽古は容赦がなかった。尚香が女だからとか主君の妹だからとか、そんな配慮は一切ない。一人の武人として戦場で生き抜く術を教えてくれるその稽古が、尚香は好きだった。
それでいて、戦場ではこうして目の届く範囲に置いてくれるのだから。
(あなたのそういうところが好きよ)
まだ見ぬ"誰か"も、きっとね。
尚香は口にはせずに胸に留めた。また『集中しろ』と怒鳴られるだろうから。