あなたと私は違う人 1週間の疲れが溜まった体を奮い立たせてたどり着いたのは恋人の住む少し古いアパート。
2階の奥の角部屋は階段から一番遠く、通り過ぎた部屋から小さな子供のはしゃぐ声が漏れ聞こえてくる。
金曜の夜だ。ヘトヘトの大人とは対照的に、子供たちは週末の夜を無邪気に過ごしているのだろう。
「おかえりなさい、もう飯できますよ」
狭いキッチンからひょこっと坊主頭が覗く。先に帰宅していた月島が、鯉登の到着に合わせて夕飯の準備をしてくれていたようだ。
「ただいま月島。外、いい香りしてたな」
「気が付きました? 秋が来たって感じしますよね」
丼ぶりと見紛うサイズの飯碗に、こんもりと炊きたての米をよそう月島の声が弾んでいる。
「家の前でふわ〜っといい匂いがするのって幸せじゃないですか」
「そう! だから毎年この時期が楽しみなんだ」
下町にあるこのアパートは、駅前の商店街を抜けて昔からの住宅街の端にある。最寄り駅からは歩いて20分弱と少し遠いが、季節の移ろいをあちこちの庭先の草木から感じられるので、鯉登はあえてバスには乗らず歩いて通っていた。
この時期は向かいにある神社の金木犀がよく香る。花の期間が短いので鯉登の来る週末に花が咲いているかは運任せだが、今日は満開に近かったようで、日の落ちた薄闇の中その存在がいっそう際立っていた。
「そうなんですね…。そんなにも好きだなんて知らなかったです」
よほど意外だったのか、しゃもじを握る手が止まっている。
「言ったことなかったか? 長い付き合いなのにまだ知らないことがあったとはなぁ」
こんな小さなことで驚くなんて可愛いなと笑いながら手を洗っていると、後ろからスッと缶ビールが差し出された。
「鯉登さんご機嫌なようですし、せっかくですから今日は先に一杯やりますか?」
「え、いいのか? でもほら、ご飯ちょうど炊きたてだろう?」
「ご心配なく。俺は飲みながら飯もいただきます」
ツヤツヤの新米を諦めることは無類の米好きの月島にはできないらしい。
金曜は夕飯を食べてからゆっくりと酒に移るのが2人の…というよりは月島の好きなスタイルだから、おかずといってもつまみになるようなメニューが多い。
キュウリの浅漬け、ピリ辛の味玉、芋よりも他の具材の方が多いポテトサラダに、ナスとオクラの揚げ浸し。
一人暮らし用の小さな冷蔵庫から次々と出てくる惣菜はすべて月島の手作りで、鯉登の好物ばかりが用意されていた。1杯目はこれと決めているプレミアムビールもキンキンに冷えている。
歌い出したいような気持ちになったのを月島の頬に口づけて直接伝えようとしたが、「そうと決まれば。お皿、向こうに持っていってください」とあっさりと躱されてしまった。
冷凍庫からさや付きの枝豆を取り出し、大量の流水で解凍を急ぐ目つきは真剣だ。
「すぐに魚も焼けますから。あ、大根おろすの任せていいですか?」
熱々のご飯を少しでも美味しい状態で食べたいのか、これ以上のタイムロスは許されないらしい。
これまでの経験で台所では月島が上官だと弁えているので、こういう時は突き出した唇をそっと引っ込め、鯉登二等卒として指示に従うのが最善である。
リビングの掃き出し窓を開けると、ふわりと金木犀の香りが広がった。
10月に入ったとはいえ日中はまだ蒸し暑い日も多い。宵のうちの今でさえ、膨張した空気が一気に部屋に満ちていくのを感じる。
外を歩いていた時ほど強く香りを感じる訳ではないが、それでも乾杯のお供には十分だろう。
「ふふ、なんだか風流だな」
網戸を閉めてローテーブルの前に座ったところで、両手に細長い角皿を持った月島も台所からやってきた。
「お待たせしました…って、なんで窓開けてるんですか?」
部屋暑かったですか?虫入ってきませんか?とあれこれ心配しているが、まさかたった数分前の会話を忘れたのだろうか。あんなに驚いていたのはなんだったのだ。
「だって窓開けないと匂いがしないだろう?」
「目の前にあるのに?」
「は?」
「え?」
「…………え?」
どうにも何かがすれ違っている。互いに互いを「何を言っているんだ?」と思っている。
こういうコントが有名な芸人がいたなと、どうでもいいことが一瞬頭に浮かんだが、すぐに名前は出てこなかった。
「なんだ、俺はてっきりこれのことかと…」
そう言って鯉登の前に角皿が差し出された。乗っているのはしっかりと焼き色のついた秋の名物。
「おぉ!美味そうなサンマだな!」
「外でいい匂いがしたって言うから、サンマの焼けた匂いのことだとばかり」
たしかに最近のサンマにしては珍しく丸々と太っていて、脂の香ばしい匂いが食欲をそそる。
さっき大急ぎで擦った大根おろしにちょろりと醤油を回しかけたところで、そうだったと思い出す。
今日はビールが先なので、なにはともあれまずは乾杯だ。
「1週間お疲れさま!」
「お疲れ様でした」
2人してゴクゴクと喉を鳴らして一気に缶の半分ほどを飲んだところで、月島が小さく笑った。
「なるほど…金木犀ですか。そりゃ「いい匂い」じゃなくて「いい香り」って言いますね」
優秀な「元 右腕」は、鯉登の何気ない言い回しもきちんと覚えているのだからおそろしい。
「なんか変だなとは思ったんですよ。あなた、秋はさんまじゃなくて鮭ばっかり食べてたじゃないですか。なのに毎年楽しみだ!なんて言うから。もしかして「今の」好みなのかなって思いました」
「昔の」鯉登とは数十年に渡る長い付き合いだったが、「今の」鯉登とは出会って5年も経っていない。当然まだまだ知らないことや、あの頃とは変わっていることも多くある。
それはもちろん鯉登にしても同じことで、月島が声を上げて朗らかに笑う姿などは、ずいぶんと年をとってからしか見たことがなかったので、未だに新鮮に感じるほどだ。
「う〜ん。さんまも美味いが、やっぱり100年経っても鮭の方が好きだな。
なぁ月島、なんでだかわかるか?」
このサンマも十分に美味しいが、鯉登が鮭をひいきするのには単純な理由がある。
「なんでって…美味しいからじゃないんですか?」
「もちろんそれはそうだが…昔、夕飯の鮭を残していたら、次の朝私に隠れてこっそり握り飯にして食べていただろう? あれがなんとも可愛くてなぁ…」
「知ってたんですか」
「昔の」私のことならなんでも知っていると自負していたようだから、まさか100年前の小さな秘密がバレていたとは思いもしなかったのだろう。
「だって言ったら絶対に二度としないだろ? 熱々のご飯をちっちゃく握って鮭の端切れと一緒に美味そうに口に放り込むのを見て、私の前では顔に出さないだけで月島は鮭が一等好きなんだなと思ったから」
他のおかずが余ったらだいたい翌日の膳に乗っているのに、焼鮭の時だけは出てこないのが不思議で、一度わざと残して様子を見てみたのだ。
そうしたら案の定台所で米を握って食べていたものだがら、なにやら愛おしさで胸がいっぱいになるのと同時に、早く月島が自分から好物を教えてくれる日が来たらいいなと願った。
「じゃあ俺のために鮭ばっかり…」
「いや違う違う、もちろん最初は月島が喜ぶだろうと思っていたところもあるが、そのうち純粋に鮭が好きになった」
たまに小樽に寄った際には、杉元がアシㇼパと共にわざわざ宿まで大きな鮭を届けてくれたこともあったほどで、犬猿の仲の杉元でさえ鯉登の好物だと気づいていたのだろう。
「むしろ月島のおかげで好物が1つ増えたのだから、私としてはラッキーだと思ってる」
このポテトサラダも抜群に美味くて幸せだ、と口いっぱいに頬張れば、昔は見せることのなかった得意げな顔で「そりゃあそうです」と言ってのける。
「私の「閣下」はぬか漬けにしたって酢の物にしたって、キュウリは薄〜く切って少ししょっぱいくらいがお好きでしたからね」
そのポテトサラダのキュウリもあなたの好みに合わせて少し塩を多めに揉んでるんですよとタネ明かしされて初めて、どうしてこんなにも美味しく感じるのか理由がわかった。
「なるほど…だからどれも口に合うんだな」
ただ月島の料理が上手いというわけではなくて、最初から鯉登のために作られていたから。
「つまりは「愛」だな?」
なんとなく誰かを思い出すようなことを言ってみれば、新米をかき込んでいた月島がゴホッと大きく噎せたので、そこからはまた「昔の」思い出話をぽつりぽつりと。