雨の行く先その日、リヴァイはシガンシナの街角で雨が止むのを待っていた。
「雨宿りか」
軒に誰か入ってきたと思ったら知った顔だった。エルヴィン・スミス分隊長だ。リヴァイはこの人物に苦手意識がある。しかも雨ときた。地下街からのなじみが犠牲になったあの最初の壁外調査をどうしても思い出してしまう。
「この雨はどこから来たと思う?」
分隊長は腕を伸べ手に雨を受けながら尋ねた。
「空からだろ」
「ほう。ほんの十分前までは降ってなかったぞ? しかも、もう止みそうだ。空はずっと我々の頭の上にあるが」
この屁理屈野郎!と言いたくなったが堪えた。
馬車が通り、泥水が撥ねた。シャツに染みができてしまった。普段のリヴァイなら避けられたろうが、分隊長に調子を狂わされたところだったからいけなかった。
リヴァイは残念な気持ちになりながら空を見た。青空が見えている。雲が風に流されている。風下の方の空は黒に近い灰色の雲に覆われている。
「あの灰色の雲か」
「そうだろうな。雨を降らす雲というものがある」
確かに、雨を降らせない雲もある。真上に見える切れ端のような白い雲からは雨は降ってきていない。
「あの雲はどこから来たと思う?」
「なぞなぞが好きなようだな」
「そうなんだ。子どもの頃からそうだ」
分隊長はやけに嬉しそうだった。言い当てられて嬉しいのか。
「どこから来たと思う?」
彼は質問を繰り返した。
「向こうの方からだろ」
「そうだな。向こうの方だ」
彼は満足したようで軒を出て行った。
翌日のことだ。
「やあ、また会ったな」
昨日とほぼ同じ場所でリヴァイは分隊長とばったり会った。
「昨日はこの辺りに大きな水たまりがあった。シャツに泥水が撥ねて嫌そうな顔をしていただろう」
見られていたのか。舌打ちをしたい気分になった。
「昨日はあった水たまりが今日は跡形もない」
そうだろう?と同意を促すように道を指し示してみせる。
「水たまりはどこへ行ったと思う? 水たまりの水は、と言ったほうがいいかもしれないな」
知るかよ、とでも返したかったが、それではあまりに大人げない。
「地面に染みこんじまったんじゃねぇか?」
「それもあるだろう。他には?」
「そこの猫が飲んだとか。鳥とか」
「その可能性もありそうだ。他には?」
思いつかないが、その眼力に逆らうのが難しい。よくこう大きな目を見開いたまま瞬きもせずにいられるものだと感心する。
「空気に溶けちまったとか?」
「そうだ!」
分隊長が顔を輝かせた。お望みの答えを言い当てたらしい。リヴァイは一瞬喜んでしまった。それから、喜んでしまったことを悔しく思った。
「君は昨日と違うシャツを着ている。察するに、洗濯して、今は干してあるのだろう」
その通りだった。汚れたシャツを洗わず取っておく趣味はない。
「洗濯して濡れたシャツも干しておけば乾く。水分が空気に溶けてしまうからと言っていいのではないだろうか。水たまりの水も然り」
分隊長は空を仰ぐ。
「空気に溶けてしまった水はどこへ行くと思う?」
リヴァイは彼の目線を追った。青空に刷毛でさっとひと塗りしたような白い雲。
「空か」
「私もそう思う」
これで話は終わりだったようで分隊長は去って行った。
その日、リヴァイはシガンシナ区内の川沿いの道を歩いていた。
大柄な人影と思えばまた分隊長だ。
「この川の先に何があると思う?」
分隊長が川を指す。橋がありその先には壁がある。シガンシナの外壁だ。
「行ってみたことがねぇから分からねぇよ」
考えてみたこともなかった。
「そうだな。行ってみたくとも行けない」
分隊長は壁を見る。リヴァイも壁を見る。壁の向こうには巨人がいる。
「質問を変えよう。この川はどこから来たと思う?」
「ミットラスの方からだろ」
振り返り、上流の方に目を向ける。こちらも壁だ。壁の向こうはウォール・マリア。
「そうだ。だがそれだけではない。この川はどんどん幅が広くなっている。ミットラスの方から流れてくる川に他の川が合流しているんだ」
「そうか」
「そうだ」
大きく頷くと分隊長はマントを翻し立ち去った。
その日の朝まだき、リヴァイは班長に言われて船着き場の傍で待っていた。今日は特別訓練があるので班の訓練に参加せずそちらに行くようにという話だった。班長の指示通り携帯食や水筒、雨具などを詰めた背嚢を背負ってきている。
「早いな。すばらしい心がけだ」
現れたのはリヴァイが苦手とする分隊長だった。彼も背嚢を背負っている。リヴァイのものより大きそうだ。
「行くぞ」
「他の奴らは?」
「君と私だけだ」
船に乗るわけでなく、徒歩で川沿いをさかのぼる。分隊長が二歩歩けばリヴァイは三歩歩かなければならない。足の長さでは完全に負けているので歯噛みしたくなるが、その分速く動かせばいいだけだ。
やがて川が二手に分かれた。片方はトロストの方から流れてきている川で、もう片方はそれより細い。分隊長は細い方の川に沿って進んだ。
「支流だ。こうした川がいくつも流れ込んでいる」
さかのぼるほどに川は細くなった。平坦だった道は緩い上り坂になり、そのうち道がなくなった。
何時間歩いただろうか。ふたりは山中の進軍を続けていた。そう険しい山ではないが、植物の葉や蔓や根っこ、岩や石ころで足下が悪く歩きにくい。川はいよいよ細くなり沢と言ったほうがよさそうだった。
分隊長が歩みを止めた。リヴァイは危うくその背中にぶつかってしまうところだった。
「湧き水だ」
やや段差のある所から水が出て沢に落ちている。
さっそく分隊長は手に汲んで飲んでいた。リヴァイも続いた。シガンシナの水とは比べものにならないうまさだ。この水で紅茶を淹れられたら、などと思ってしまう。
「君はこの前、水たまりの水が地面に染みこんでしまったのではないかと言ったな。この湧き水の元は山に降った雨だろう。土に雨水が染みこみ、地中を伝って、こうして湧き水として地表に出てきたのだ」
それぞれ水筒に水を補充する。分隊長は背嚢から小鍋を取り出しさらに汲んでいた。
「昼にしよう。湯を沸かすぞ」
少し開けた場所を見つけて、火をおこした。
「飯はかわり映えのしない携帯食料だが」
分隊長は見慣れた包みを取り出した。
「持って来ているか?」
リヴァイは頷いた。班長から持参するよう言われていた。
分隊長はもう一つ包みを取り出した。あまり見ない包みだ。
「紅茶が好きだとの情報を得ている」
紅茶と聞いただけでリヴァイは早くも疲れが取れたような気になってしまった。
湯が沸いた。鍋に茶葉を放り込み、充分に待ってから、茶こしを使ってマグカップに注ぐ。良い香りだ。まずその香りを堪能し、色を眺めてから口にする。これまで飲んだどんな紅茶よりうまいと感じる。
「湯気が立っているな」
一方の分隊長は紅茶よりもマグカップから立ちのぼる湯気の方に興味があるようだった。
「これもまた水が空気に溶け込んでいっているということのように思う」
リヴァイはこれまでになく穏やかな気持ちで彼の話を聞いた。紅茶の作用だ。
「山に降った雨が湧き水となり沢となり小川となり川となってやがてシガンシナに流れ込む。シガンシナの先、川はどこへ向かうのか。川はどこまで行っても川なのか。また、山に雨を降らした雲はどこからきたのか」
夢中で語る彼の顔を眺め、子どもみたいだとリヴァイは思った。
「細い川と次々に合流し、広く大きくなった川は、やがて大きな水たまりに至るのではないか。私はそう考える。途方もなく大きな水たまりだ。地平線までずっと続くような。その水たまりの水もまた空気に溶け込む。あまりに大きな水たまりなのでそこら辺の水たまりと違って消えてなくなることはない」
水たまりの大きさ以前に話の内容が途方もないのでリヴァイはやや置いていかれていた。分隊長は壁外に興味を抱かせようと話しているのかもしれないが、リヴァイの興味や感心はもっと身近なところにある。
「そうしてその途方もなく大きな水たまりから空気に溶け込み空に昇った水が雲になり雨を降らすのではないだろうか」
リヴァイは彼に倣い上を向いた。重なり合う葉の隙間から空の青が透けて見えた。
壁の外にあるという海。商人が一生かけても取り尽くせないほどの巨大な塩の湖。リヴァイは実際に海を見るより前、アルミンが彼の幼なじみにそう話すのを聞いた。その時はエルヴィンの言っていた川の先にある大きな水たまりとは結びつかなかったが、実際に海を見た後で気づいた。
見渡す限りの水たまり。地平線まですべて水だ。地平線ではなく水平線というらしい。天気によりけりで色が違う。今日はよく晴れて青い。
リヴァイは海を望み見る。
エルヴィンは大きな水たまりに行ってみたいわけではなさそうだった。それより自説を捏ねることが重要だったのではないか。
海を見たらお前は何と言っただろうか。「ほら、俺の言った通りだったろう」と誇らしげにしただろうか。いや、それより俺が「お前の言った通りだったな」と言ったら、何の話だと首を捻りそうだ。さすがに俺が「大きな水たまりのことだ」と言えば思い出すか。「ああ、そんなことを言ったことがあったな」と。きっと忘れていただろう。お前は他の説で頭がいっぱいだったみたいだからな。
お前が海を見たかったかどうか知らない。ただこうして海を見ている隣にお前がいたらよかったのになとは思う。
潮風がリヴァイの頬を撫でた。リヴァイは目を細め、きらめく海を眺めた。