森巨大樹の森をリヴァイが初めて訪れたのは調査兵団に入って間もない頃だった。どこの森だったかは、定かでない。まだ地理を把握できていなかった。恐らく、ウォール・マリア南部、シガンシナから最も近い森だったのではないか。調査兵団に入ったとはいえ兵士になるつもりはなく、当時分隊長だったエルヴィンの殺害を目論む身だった。共に地下街から出てきたファーランとイザベルと、昼なお暗いこの森は計画の実行におあつらえの場所ではないか、などとひそひそ話をしたものだ。ただ単に殺すのでなく、エルヴィンが持っているという書類を奪わねばならなかったから簡単でなかった。私室や執務室に隠してある可能性もあったが、身につけて持ち歩いているということも考えられた。実際、懐に何か忍ばせているようにも見えた。スリの要領で盗めないか。そう考えて巨大樹の森での訓練中、立体機動で飛んでいるさなかにすれ違い、懐のものをかすめ取る作戦を試みた。しかし残念なことに主にミケに邪魔されて近づくことすらできなかった。
訓練を終えての帰りがけ、エルヴィンは馬上からリヴァイを見下ろしながら声を掛けた。
「私を殺したいか?」
「は?」
「訓練中、殺気を感じたものでな」
「殺気なんざねぇよ」
さしあたっての目的はスリだったので嘘ではなかった。
昔の話だ。思い出して、リヴァイは少し笑った。当時からは想像もつかないような人生を送っている。
あれから各地に点在する巨大樹の森を訪れたものだが、こう長い滞在は初めてだ。もう三週間を過ぎた。
「なかなか上手く淹れられてるじゃないの」
目下のリヴァイの任務は王家の血を引く獣の巨人ジークの監視だ。ジークはリヴァイの淹れたコーヒーを飲んでいる。褒めているのかもしれないが、その上から目線の話しぶりが周囲の反感を誘う。
傍にいた部下達がリヴァイに小声で話す。
「兵長、あいつ、ちょっと生意気ですね」
「ここへ来た時から思っていましたが、口のきき方がなっていませんよね。兵長に対して」
「シバいてきましょうか」
「止めておけ。巨人化したら厄介だ」
リヴァイはコーヒーをみたしたカップを持ち、ジークから充分に距離を取った場所に腰掛ける。これはジークが危険というより、リヴァイがうっかり拳や蹴りをお見舞いしてしまわないようにという予防のためだ。ジークはどうやら巨人化しない限り大した戦闘力を持たない。銃でもあれば別だろうが丸腰だ。その脊髄液を摂取したユミルの民を巨人化させ思いのままに操るという力もあるようだが、当面、発揮の機会はないと見ている。
リヴァイはコーヒーをひとくち飲む。いつ飲んでも最悪の味がする。リヴァイにはカップを持つとき、決して取っ手を持たない癖があった。だがコーヒーの時だけは別だ。部下に指摘されてから気づいたことだ。取っ手を持てないのは幼い頃にカップが割れてしまった経験からだが、中に入っているのがコーヒーとなるといっそ割れてしまえという気持ちになるのかもしれない。
「心をこめて豆を挽いているからな。てめぇの肉と骨が粉々になるところを想像しながらな」
ジークがむせる。わざとらしい。
「汚ぇな」
「そういうのやめてくれないかな。まずはエレンと会わせてくれなくちゃ」
「それを決めるのは俺じゃねぇ」
リヴァイは殺意を堪えながらジークと相対さねばならない。いつまでこの巨大樹の森での待機が続くのか。ジークは苛立っているようだが、それはリヴァイも同様だ。
どう思う? エルヴィン。こいつを。
答えの望めない問いかけをしてしまうのは、エルヴィンならリヴァイを諫め、止めるだろうと考えるからだ。エルヴィンは無駄な殺傷を嫌った。だがエルヴィンはあの時、獣の巨人を討ち取れと言った。だったら殺ってもいいんじゃないか? リヴァイは鞘からブレードを抜く想像をする。だが想像するだけだ。行動には移さない。分かっている。あの時と状況が違う。
でもな、エルヴィン。こいつはクソ野郎だ。間違いない。
およそ生命というものに価値を見出していない。ジークからリヴァイはそういった印象を受ける。
交戦中であれば敵の生命を奪おうとするのは当然だ。だがこいつは仲間の生命も粗末に扱う。非戦闘員も含め。
リヴァイはレベリオの惨状を思い出す。街の住人にどれだけの犠牲者が出たのか、計り知れない。ジークは、あの街に多大な犠牲が出ることを想定した作戦の首謀者だ。飛行船に乗り込んできてサシャを撃ち殺した少女は、復讐に取り憑かれた顔をしていた。身近な人々を殺されたからだろう。無理もない。仲間にそうした思いをさせることを、こいつは何とも思わないようだ。必要な犠牲だと言いたいようではある。だが、そんなわけあるか?
リヴァイはレベリオの街とかつてのストヘス区の光景を重ねる。巨大樹の森で女型と戦ったこともだ。あの時、エルヴィンは味方に犠牲が出ることを前提とした。エルヴィンに倣ってか、アルミンもそうした前提の作戦を立てる。犠牲を払わねばなしえない作戦もあるということだ。だがエルヴィンやアルミンとジークは同じではない。リヴァイはそう感じている。説明できるような根拠はない。動物じみた勘かもしれない。
「何度か言ったと思うけど、睨むのやめてくれない?」
「睨んでねぇよ。もともとこういう顔だ」
「ああ、そう」
勘がどう告げようと、手出しはできない。上からの命令ということもあるが、リヴァイとしても秘策とやらを確かめねばならない。
巨大樹の森で命を落とした仲間がいた。この森ではないが、景色はほとんど同じだ。今でも、瞼に焼きついている。エルド、グンタ、オルオ、ペトラ。リヴァイの班員だった。女型を誘い込む際にも、多くの仲間が犠牲になった。後にジークによる巨人化だったと分かったラガコ村の件で犠牲になった仲間もいる。そして、最終奪還作戦。
リヴァイは今一度ジークを見る。
ひと思いに屠ってしまいたい気に駆られる。
だが心臓を託されたから。
リヴァイは思いとどまる。
いったいどうしたらあいつらに報いることができるのか。いったいどうしたらあいつらの犠牲が無駄でなかったと言えるのか。
なあ、エルヴィン。どう思う? 秘策とやらが、あいつらの、そしてお前の死に意味を持たせるなんてこともあると思うか?
お前ならきっと、まず秘策とやらを確かめようと言うだろうな。
「ビビるこたあねぇよ。生かしておくと、言っただろ?」
秘策とやらを聞くまではな。
今は、待つしかない。だがこいつを信用していいのか? 信用ならねぇと俺の勘は言っているが。なあ、エルヴィン。
それも含めてだ、リヴァイ。
お前ならそう言うかな。
殺意を抑えながらの会話は、精神的に消耗する。上からの指示がこない限り、不毛でしかない。リヴァイは見張りを部下に任せ、その場を離れる。日の差さぬ巨大樹の森を歩く。仰ぎ見れば、重なり合う枝と葉の合間に空の欠片。リヴァイは立体機動に移り、少しだけ空に近づいた。