はじめての恋人がコイツになるだなんて、思ってもみなかった。それについてはコイツだって同じだろうけど。
お互い恋愛には疎い人生だったから、付き合うといってもぎこちなく探り探りだ。それでもなんとかキスまではこぎつけた。唇を触れ合わせるだけの生易しいキスは、それはそれで幸福感はあるが、最近はちょっとだけもの足りない。
「おい」
「あァ? なんだよ…」
今日も俺の部屋に上がり込み適当にテレビをザッピングしていたコイツに呼びかける。恋人同士になっても相変わらず口を開けば喧嘩腰だが、黙って見つめていれば気配を読むのが上手いコイツは察して目を泳がせだす。「チッ」とひとつ舌打ちをよこすと、ぎゅっと目を瞑って身を硬くした。いわゆるキス待ち顔、というには力が入りすぎているけれど、大人しく待つようになっただけこれでも慣れてきた方だ。
引き結ばれた唇に自分の唇を当てる。コイツの刺々した見た目の印象を裏切るやわらかい感触に、毎回くらりと脳が揺れるような気がする。
だが今日こそは、もう少し。そろそろ次の段階へ進みたい。
「…口、開けろ」
唇が離れてすぐ、吐息のかかる近さでせがむ。ゆっくりと瞼を持ち上げたコイツは、ほのかに赤らんだ顔のまま、言われた通りに口を開き──。
「ハァ? 口? なんで」
ぽかんと大口を開けた間抜け面は俺の想定していた表情ではない。前言撤回、こと恋愛事に関しては察しの悪いコイツにもわかるように言ってやらねばならない。
「なんでって…キスするから」
「今してただろーが」
「それじゃなくて、ええと、もっと…すごいやつ、だ」
「すごい……?」
明らかに困惑した顔で眉根を寄せられた。とぼけるなんて器用な真似ができるやつではないから、これは本当に知らない可能性がある。
嘘だろ。コイツの歳でディープキスを知らないなんてことあるか? いやコイツなら有り得るか。でもそうしたら、知らないなら、どうやってこの先を進めたらいいんだ?
困り果ててコイツの顔を見ても、じっと見つめ返されるだけだった。あんな柔らかなキスしか知らない初心なやつに舌を使う深いキスを教えるのは、なんだかひどいことをするようで気が引ける。
「…やっぱりやめておく」
「はァ!?」
怖気づいて俺はコイツから顔をそらした。とりあえず、今日はまだ。焦ってすることではない、強行して気持ち悪がられたらショックだし。今度ちゃんとコイツに説明してから。頭の中でうだうだ言い訳しつつ身を離すが、ぐいと強い力で腕を掴まれ引き止められた。
「なんだ」
「チビはそのすごいキ…キス、ってやつ、知ってんのかよ。したことあんの」
「したことは、ないけど」
俺だって、漫画とかドラマとかで知っているだけだ。そう伝えたら途端にコイツはぱっと顔を輝かせた。
「ンだよ、えらそーに言いやがってチビだってしたことねーじゃねえか!」
「偉そうになんて言ってないだろ」
「ほんとにすごいのか、やってみろよ。これで実際はショボかったら笑えるなァ!くはは!」
「オマエな……」
なにをされるかもわかっていないくせに、よくもこんなに煽れるものだ。半分くらい呆れながら、コイツの下手くそな誘いに乗っかったふりをして体勢を立て直す。今度は俺が指示する前からコイツは口を開けていて、早くしろと急かされているようだった。
「舌噛むなよ」
「え? ……ん、んン!?」
角度のついたキスで唇を塞いだ。無防備に晒された口内へ舌を侵入させる。俺だってこんなことするのは初めてだから、つたなく舌を揺らしてみているだけだが、生温かい舌が重なり合ってぬるぬると蠢くのは想像していたよりも淫らでドキドキする。
どん、と肩を押されて口が離れた。見るからに動揺して目を白黒させているコイツに問いただす。
「どうだ」
「っ!? な、なに、どうって…」
「…嫌だったか?」
俺の発した声は情けないことに不安な気持ちが隠しきれていなかった。コイツから煽ってきたとはいえ、ちゃんと了承を得たとは言い難いまま舌を入れてしまったから、不快に思われても仕方ない。
俺は、もういっかいしたいくらい、よかったけど。でも俺だけがそう思ってたって意味ないだろ。
コイツは難しい計算問題に向き合ってる時みたいに顔を顰めて唸っていたが、ようやくポツポツ言葉を零し出す。
「嫌ではねエ…けど。よくわかんなかった、から」
もういっかい。と今度はコイツから近づいてきて唇が重なった。
たどたどしく舌を入れてくるのがいじらしくて、妙にうれしい。俺からも攻勢をかけると、コイツは驚いたのか舌を縮こませて逃げようとする。それを追いかけて歯列や顎の裏まで舌先を這わせた。口の中では追い詰めるのも容易くて、捕まえた舌を舐め上げるように絡ませあう。俺とコイツのどちらからも、鼻呼吸の合間にン、ン、と鼻にかかった声が漏れていた。
唇の隙間から唾液が溢れるのに気づきとっさに軽く吸い上げたら、じゅる、と思いのほかはっきり響いてお互いの身体がビクリと震えた。そこからは、じゅるじゅる、ぴちゃぴちゃ、わざと派手にはしたない音を立ててキスを続ける。濡れた音が、舌に吸い付く感触が、混ざった唾液の味が、ぞくぞくと興奮を駆り立てた。
長い長いキスの後でようやく唇を離すと、舌先を繋いでいた透明な唾液の糸がプツンと途切れる。二人揃って口のまわりはベトベトで、酸欠ではあはあと息を切らせていた。
どうだったか、なんて、真っ赤になった顔ととろりと潤んだ目を見れば聞くまでもない。加えて欲に忠実な男の身体は、快感の証にズボンの前が張っていて──
「…うげっ! なンだコレ腫れてる!? チビのも!?」
───まさか、これも知らないのか!?
ギョッとしながら自分と俺の股間を見て騒ぎだすコイツに、俺はひたすら頭を抱えた。