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    翼薫
    グラブルコラボネタ。お空にいる間に恋仲になっていた翼と薫が戻ってきてからの話です。ちょこっとプロデューサー喋ります。

    初出 2015/11/7 支部

    #翼薫
    pleasantTinglingOfWind
    ##SideM

    その空隙を埋めるもの 桜庭薫の様子が最近おかしい。
     いつからかと聞かれれば天道輝ははっきり断言するだろう。先日の海外ロケの途中からだ。
     仕事に支障を来すようなことはなにもない。相変わらず頭の回転は人並みはずれて速いし、方向性が若干おかしい真面目さは変わらない。少なくともカメラが回っている限り、或はステージの上に立つ限り、彼はいつも通りの桜庭薫だ。
     けれど、たとえば楽屋で。
     たとえば打ち上げに寄ったファミレスの帰り道で。
     あるいは資料を取りに寄った事務所で。
     ふと、その端正な顔に明らかな困惑を浮かべて、立ち尽くす姿を何度か見かけた。
     なんというか、自分がどうすべきかがわからないといった様子に、天道の目には映った。慣れない場所でどうしていいかわからない、どこにいていいのかがわからない、知り合いから旅行中預かった猫のような、所在無さげな様子。こんなの、それこそ本当に楽屋や事務所に慣れていなかったはずの所属当初ですら見たことがない。いつだって桜庭は堂々としすぎていてちょっとどうかと思うほどに堂々としていたのだから。
     それは特に柏木翼といるときに顕著であると気づいたのはいつだったか。
     普段であればむしろ、柏木は桜庭にとって数少ない、気兼ねなく本来の優しさを向けることができる存在だった。こんな言い方をすれば桜庭は確実に気を悪くするだろうが、甘えている、と言ってもいい。三人をよく知らない人は、あるいは懐いているのは柏木のほうであると言うだろう。ふたりは仲が良い、という点については何も間違っていない。今となっては自分だってそれなりに桜庭薫という人物の人となりは理解しているつもりだし、相変わらずくだらないことからまともなことまで口論は絶えないが、以前のような闇雲な拒絶はされなくなったし、お互いにそれなりに大事な存在になっているという自負はある。少なくとも自分は同じユニットの仲間として、ひとりの友人として、桜庭薫という人間をとても大事に思っているし、桜庭が自分の胸の裡を、足りない言葉で少しずつさらけ出してくれることも増えた。それでも、ユニット結成から一年とちょっとで、ここまで近づくことができたのは、柏木の存在あってこそだ。出会った頃のすべてを拒絶していた頃の桜庭ですら、どうにも柏木独特のペースには調子を崩されることが多く、隠したがっていた本来の素直さや優しさを暴かれてしまっていた。人を拒絶するのは、大切な存在をなくすことが怖いからなのだとも知った。本来の桜庭はきっと、人が好きで、人を喜ばせることが自分の喜びとなる、天性のエンターテナーだ。そういう意味では、自分たち三人の中で一番アイドルとして本質的に向いている気質でもあり、あのギザギザハートの仏頂面からこの本性を見抜いたプロデューサーはたいしたものだと今更思う。けれどその本質も、柏木が桜庭のまとった防御壁をするりとくぐり抜け、そこから引っ張りだしたからこそ、気づくことができた。きっと柏木といるときの桜庭が、幼い頃、最愛の姉を失い心を閉ざす以前の桜庭に一番近いのだろうと、天道は思う。
     だというのに、その柏木といるとき特に、桜庭の挙動はおかしくなる。
     話しかけようとして突然立ち止まってしまったり、近すぎるほどに近寄ってみてはまた離れたり。桜庭はうるさくしない限りは他人が物理的に近づくことをそれほど嫌がるタイプではないが(他人を見ていないだけ、という可能性もあるが)、自分から近寄っていくことはあまりない。なのに、まるで猫の子がするりと近づくような自然さで柏木の傍に寄り添ったかと思えば、驚いたように距離を取る。あるいは、近寄ろうとして不自然に立ち止まり、いつもよりも遠いぐらいの位置から声をかけたりする。
     それだけじゃない。どこか寂しそうな表情をしていることが増えた。声をかけても反応も鈍く、流石に心配した天道は甘いものを差し入れついでに調子でも良くないのか、と聞いてみた。
     脳に必要な糖分を補給できればいい、と最初は砂糖水ばかりを飲んでいた桜庭だが、最近は自分たちやプロデューサーに声をかけて、わざわざ喫茶店などに出かけることも増えてきた。本当は甘いものが大好きなのだろう。食べているときの桜庭は少し気が緩むのか、ほんの少しだけ、口も緩い。勿論、本人にそれを指摘したが最後当分連れて行ってくれなくなるのは明らかであるから、まだ言うつもりはないが。
    「なにか、大事なものをなくしたような気がする。だがそれがなんだったのかすら、わからない。そしてそのことが僕は、……とても寂しいと感じる」
     イチゴミルクの紙パックを握りしめ、ぽつりと呟いた声は、いつも理詰めの彼らしくない言葉で、そしてはっとしたように「……大丈夫だ、君たちの足を引っ張るようなことはしない」と言って、またいつも通りの澄まし顔を取り繕った。
     そして、彼ほどではないにしろ、天道にも、似たような違和感がある。それはたとえば、いつの間についたのかわからない痣を見つけたときにも似た感覚だった。
     なにかを、忘れたような気がする。けれど、それがなんなのかが思い出せない。日付と記憶を照合しても一日の抜けもない。なのに、どうしても、どこかにぽかりと長い時間があったようなそんな気がしてならない。それも、三人とも。
     集団幻覚に近い状況であると考えたらしい桜庭は、ロケ中の食事の中で日本では食卓に上らないような精神作用のある食材を口にしたのではないかと疑って、暫く熱心にかの国の植物図鑑を眺めていた。元々難治性の病の治療法開発に強い関心を持っているためか、外科医にしては薬学などにも相当強い部類には入るらしいのだが、気づけば今回の件とはあまり関係なさそうな現地でしか食べられない変わった植物のことを知っていたりので、無駄が嫌いといいつつ完璧主義と人並みはずれて高い記憶力のおかげで、実は桜庭の脳みそにはいまひとつ使いどころのないトリビアが相当量詰まっているのではないかと、天道は密かに考えている。来週に収録を控えた映画のプロモーションのためのクイズ番組で、おそらく真実は明らかになることだろう。
     閑話休題。
     同じタイミングで、同じような喪失感を三人とも抱えている。自分だって突然妙に寂しくなる瞬間があるし、柏木もぼんやりと空を眺めていることがいつもより多い。それでも、特に桜庭の様子が目に見えておかしかった。
    「……と、俺は思うんだが、翼はどうだ」
     桜庭がピンの仕事で一緒にいない隙を見計らってそんな話を持ち出すと、少し迷ったようなそぶりを見せてから、頷いた。
    「なんかあのロケの途中から、薫さんに避けられてる気がするんです」
    「……心当たりは?」
     言うと、翼にしては小さな動きで首を横に振る。
    「なにも。薫さんが嫌がるようなことをした覚えもないし、だけど、覚えがないだけだったとしたら、怖いですよね」
     顔を見合わせて、少し無言になる。カレンダーと照合した記憶は間違いなく抜けなく埋まっているはずなのに、記憶に空白がある気がしてならないのは、三人ともだから。
    「輝さんに対しては全然そんなことないんですよね」
    「ああ、むしろ前より近いぐらいだ」
     というか、主に天道が無茶をしてしまいそうな場面で、素早く察知してフォローに出てくることが増えた。以前から少しずつそういうことが増えてきたとは感じていたけれど、まるで数ヶ月分、一気に経験を積んだかのような変化だった。ダンスの練習中などに身体に違和感があったり怪我をしたりすると、前よりも早い段階で気づかれるようになった。そう言ったら不思議そうな顔をして、「君は軸足を痛めると、それを庇って姿勢が少し傾くだろう?」と当然のように言われたが、ここ最近そんな大きな怪我をした覚えはなかった。いつの間に知ったのだろう。
    「なんだろうな、精神と時の部屋に放り込まれて、しかもそのことを忘れてるみてえな感じ」
    「あー、なんかわかります」
     そう言って、ふたりしてうーんと唸る。
    「とにかく今は桜庭だ。あいつが一番しんどそうなのは間違いないし、……おまえも寂しいだろ」
     言うと、柏木も頷いた。
    「はい。……どうしていつもならいてくれるはずの距離に薫さんがいないんだろう、って、なんかこう……物足りないんです」
     そう言う柏木の視線は、おそらくは彼にとっての桜庭薫がいるべき場所へ向けられている。けれど、その場所は、天道が記憶していたものよりも、少し近いような気がふと、した。けれどそれを確認するすべはないので、そうか、と一言だけ返す。
    「どうしたんだろうなぁ、桜庭のやつ」
     そう呟くのと同時に、ドアが開いて、彼らのプロデューサーが入ってきた。ごめんなさい、盗み聞きをするつもりはなかったんだけど、と言うので、天道は少し笑って首を振る。自分たちの問題は、このひとの問題でもあるのだから。
    「やっぱり、皆さんもそう思ってましたか」
    「プロデューサーも?」
     言うと頷き、あのCMロケから帰ってきてからですよね、と言う。やはり、身近な人間は気づいている。
    「さっきも桜庭さん、カッターナイフ握りしめてカエール二号をじーっと見つめてて」
    「ちょっと待てプロデューサーそれはマジで様子がおかしい」
     さらりと言われた不穏すぎる言葉に輝と翼の顔からもぞっと血の気が引いてゆく。
    「つーかそれ止めた? 声かけた? 今頃カエール二号があいつの至高のオペの犠牲になって無惨な姿を晒したりしてねえ?」
     そんなことになったらあの純真なピエールがひどく悲しむだろうし、場合によっては病院沙汰だ、桜庭が。
     思えばあのロケはいろいろとおかしかった。桜庭の様子がおかしくなったのもそうだし、ピエールはどこからか二匹目のカエールを拾ってきた。
     自分たちだってそうだ。桜庭ほどではないにしろ、何かがおかしい。
     特にレッスンをしたわけでもないのに、三人揃って殺陣のクオリティが突然急上昇した。勿論監督は大喜びで、うっかり勘違いで殴り飛ばしてしまったことも不問となった。そして天道が着ぐるみを着た監督を盛大に殴り飛ばしてしまったその動きも、いくら多少血の気の多いほうであるとはいえ、こんな戦い慣れた動きはできないはずだった。
     こんなの、初めての海外のそこそこ長期ロケだから、で納得できるものじゃない。関係性の変化だけなら、まだわからないでもないけれど。
    「長期ロケ、なぁ」
     ふと、天道の頭にひとつの案が浮かぶ。
    「なあプロデューサー。一週間とか二週間とか、長めで泊まりがけの仕事のオファーって入ってないか?」
     言うと少し考えてから、ぱらぱらと手帳を捲る。
    「ありますね。再来週に一週間無人島でサバイバルって企画です。元はもふもふえんにって話だったんですが」
    「いやだめだろそれさすがにまずいだろ」
     児童福祉法的にいろいろアウトだろう、それは。
    「はい、ですので断ろうと思っていたのですが、先方も駄目元で言ってみただけだったそうで、ともかく1ユニット出してほしいと」
     大丈夫なのか、それ。長期ロケにしては急な話だし、いろいろと雑だ。他の出演者の交渉やギャラの手配で手一杯なのではないだろうか。基本的に315プロのアイドルは、JupiterとF-LAGSの秋月以外は駆け出しだ、先方からすれば無理を言って便利に使える存在と思われているのかもしれない。
    「いろんな意味であまり気分の良いオファーではありませんけど、ゴールデンタイムですしまず間違いなく数字取れますし、どうしたものかと思ってまして」
    「まだ間に合う? それ、俺たちで受けてくれないか」
    「輝さん?」
     言うと、柏木が目を丸くしてこちらを見る。
    「できるだけ、一日中誰かが桜庭の様子をずっと見ていられる状況を作りたい。解決の糸口が見つかるかもしれないだろ。いつまでもこの状況なのは俺たちもあいつもつらいだろうし、悪化しないとも限らない。それまでも、できるだけ目を離さないようにしておくから」
     そう言うと、プロデューサーはしばし考え込んでから、
    「わかりました。ではDRAMATIC STARSが引き受けると先方には伝えます。レギュラーのニコ生も、なんとか島から放送できるようにするか、その時間だけでも東京に戻って来れないか交渉してみますね」
    「ありがとな、面倒かけてすまねえ」
     言うとプロデューサーは笑って、「貴方達を一番に輝かせるために為すべきことをするのが、私達の仕事ですから」と言って、足早に部屋を出て行った。
     それまで少し時間が空くのが心配だが、仕方がない。寧ろこんな仕事が都合良くあってスケジュールの調整もなんとかなりそうだという僥倖に感謝する。
    「とりあえず来週一週間はちょっと気をつけて様子を見てやったほうがいいな。とりあえず明日はレッスンだから会うとして、あと今週のスケジュールは」
    「あの、輝さん」
    「どうした翼」
    「薫さんをずっと見ているのはいいですし、むしろそうしたいんですけど、……あの、サバイバルって、きっとテントですよね、多分いっぱい毛虫とか出ますよね」
     折角のハンサムな顔を若干引きつらせて言う翼に、そういえば彼の意向をまったく確認しないで話を進めてしまったことに今更気がつく。あとたぶん、この企画を桜庭も嫌がりそうだなということにも思い当たるが、もうあとには引けない。プロデューサーと話をつけている間黙っていたということは、仕事内容自体は多少不安でも、そのほうが桜庭のためだと、背に腹は代えられないと判断した、ということなのだろう。
    「桜庭に退治してもらえ。ずっと一緒にいることになるんだから」
    「そうですね、……オレと一緒は嫌だとか、思われてなければいいんですけど」
     毛虫のことはどうにかするないしなんとかしてもらうとして、桜庭の様子がおかしいことは柏木にもかなりダメージを与えている。
     早めに解決しなくては。改めて決意を固めると、天道はスケジュールの確認を始めた。

     それから一週間は、状況は改善も悪化もせず、例のカエール二号の件以外は特に奇行に走ることもなく過ぎた。相変わらず桜庭は柏木といるときにはなんだか落ち着かない様子で、それを見た柏木がひどく寂しそうにしているのが、つらくて仕方がない。間違いなく荒療治になるし、その大半はカメラが回っているとはいえ24時間ずっと三人で一緒にいられるのだ。この間に、なんとかしたい。
     無人島でのサバイバルロケだが、決まってしまった仕事を拒否する桜庭ではない。プロデューサーから決定事項として告げられれば、不承不承ながらもそのために全力を尽くすだけだ。勿論、この仕事が桜庭から目を離さないために、天道が積極的に受けたことだというのは伏せられている。
     桜庭と天童を長時間同じ場所に置いておくと、たとえスタッフがいようが迷惑をかけない程度に平気で喧嘩を始めてしまうことを知っている顔見知りの番組スタッフは、315プロが出してきたユニットがDRAMATIC STARSであることに本気で驚き、尚且つ心配したようだった。それでも、言葉足らずで一言多い桜庭語をそれなりに正確に理解できるようになった今となっては頻度は少し下がってきたし、以前のようにお互いにそっぽを向いて険悪なまま終わってしまうのではなく、完全に歩み寄りはできないにしろ、多少は前向きな姿勢で終わることが多くなっているから大丈夫だと、少なくとも天道は考えている。
     かつて地方のやんちゃな少年だった自分は勿論無人島でサバイバルという状況ではわりとテンションが上がるほうだし、柏木にしても大きな魚を釣り上げたり、珍しい山菜や海藻を食べては喜んでいる。
     意外にも一番身体がひ弱で見るからに繊細な桜庭は、しかし体力以外のサバイバルスキルは高かった。食べられる植物と食べられない植物の識別もできるし、釣った大物の魚の口から巨大な寄生虫を見つけてどうしたものかと天道が悩んでいるとすっと覗き込んでは「別に人体に害があるものじゃない。むしろ縁起物だ。魚は問題ないし、これ自体も食べたければ食べればいい。素揚げにすれば美味しいと聞いたことがある」といって、しかし本人に調理を手伝う気はないのでふらりと戻って行ったり、それこそ柏木がなかなか東京ではお目にかかれないタイプの大きくて派手なカラーリングの毛虫に遭遇して絶叫していれば、害がないものならティッシュで捕まえて窓から逃がし、毒虫だと判断すれば適切に処分していた。本人曰く、救急医療の一環として必要な知識だと言うことらしいのだけれど、一見クールで見た目は線が細くて儚げな桜庭の意外な一面に、番組スタッフは大喜びだ。
     他の出演者たちは近隣の別の島でそれぞれサバイバルしているらしいのだが、DRAMATIC STARSの生活は中でも相当いい絵が撮れているらしく、ディレクターがほくほくした顔をしているのは三人ともわかっている。当初の予定より番組中で多く使ってもらえそうだし、最初はVだけという話だったのが、当日のスタジオゲストの内定ももらった。ある機材と食材でだいたいのものはそれなりに食べられる状態に仕上げられる天道、なんでも食べられる柏木、食べたほうがいいものと食べられるものと食べてはいけないものの判別ができる桜庭という面子のため、食料採集も調理も手際よく進み、アクシデントらしいアクシデントもない。少なくともアイドルとしてここにやってきた目的は順調に果たしているだろう。
     しかし、ある意味本来の目的である桜庭については、特に改善のきっかけも見つからなかった。いつも通り他人から見れば柏木にだけはやたら甘いし、自分には辛辣ながらも真っ正直にぶつかってきて、不器用な優しさも見せてくれる。
     それでも、ふと柏木を寂しげに見ていたり、距離感の取り方が不自然だったりするのはどうしても目についてしまう。
     さすがにアイドルなので芸人のように24時間がっつりカメラが張り付いてパンツ一丁で寝ている姿まで撮られるということもなく、それなりに三人だけの時間もとれている。島の片隅に湧き出している自然の温泉も一応肩まで浸かった状態かつ大事なところはタオルで隠した状態の入浴シーンは押さえられてはいるものの、最低限の視聴者サービスシーンさえ撮ってしまえばあとは自由だ。けれど、まだロケ日程も残っている中で、にっちもさっちもいかない状態になってしまってはまずいと思うと、思い切り踏み込んだことを聞くこともできない。実際、仕事には支障は出ていないのだ。むしろ、その意味では桜庭以上に柏木のほうが心配だった。
     桜庭に嫌われたかもしれない、避けられている気がする。その不安が柏木の表情に陰を落としている。ユニットの愛想担当とも言える柏木の笑顔が少ないことを、慣れない環境による緊張だと番組スタッフは考えているようだが、三人で一番旅慣れている柏木がこの程度の環境の差でここまで落ち込むものか。
     それだけじゃない。いつもだったらなにかと危なっかしい桜庭のサポートに自然と入って行くような場面で、躊躇してしまう。その結果桜庭が木の根に足を取られて転んだりするなどの実害が出始めている。桜庭は他人の怪我や病気に対してはあんなに神経質なくせに、自分の痛みに対しては鈍いのか無頓着なのか、仕事に支障が出ない程度の怪我ならばあまり気にせずに淡々と治療をしている。けれど、虫除けの長袖の手首から覗く絆創膏を見た柏木の顔が、天道は忘れられそうにない。
    「……なあ、翼。大丈夫か」
     桜庭が疲れて先に寝てしまったのを確認してから、柏木を外に連れ出す。その表情は飼い主に見捨てられた犬のようで、あるはずのない耳としっぽが悲しげに垂れ下がっている幻が見えそうだ。
    「さみしい、です」
     吐き出された素直な言葉に、天道はため息が出そうになるのを堪えた。
    「出会ったばっかりの頃とも、違うんです。あのときはまあ、そういう人なんだろうなって思ってましたし、少しずつ近づいて行くのが実感できてたから、つらくなかったんです」
     ぽつり、ぽつりと、言葉を選びながら。
    「だけど今、薫さんが全然わかりません。避けられたのかな、って思ったら近くにいたりするし、嫌われてる、っていうのとも違う気がするのに、そばには来てくれない。話しているときはふつうなのに、急に目を逸らされたりしますし」
     吐露する声音はひどく、切なかった。これだけ甘いマスクの柏木が、こんな声で囁いたら、落ちない者はないだろうと思うほどに。それでも、今その思いは、届けたい相手には届いていないのだ。
     そして、柏木がこんなにも切実に桜庭を思っているのだということを、今更天道は知る。
    「やっと、オレのものになったと思ったのに」
    「え?」
    「あ、れ?」
     発された言葉に驚いたのは、天道だけじゃなくて柏木自身もで。
    「え、オレ、何言ってるんだろう。……そんなことあるわけないのに。すみません、忘れてください。オレも、なんかおかしいです」
     戸惑いながらそう言って目を伏せ、息を吐く。そんなことあるわけない、と、もう一度確かめるようにつぶやく。確かに、柏木の記憶がおかしいのは間違いないのだろう。自分たち全員が、あのロケ以来、記憶に混乱と違和感がある。きっと、その混濁から生じた言葉なのだ。柏木の見せた表情は、おそらく自分が事実であると認識していない言葉を口走ってしまったがゆえの戸惑いだ。
     けれど、天道は決して鈍いほうではない。むしろ、前職では柏木や桜庭と違い、目には見えない人間の心の機微と明文化された法律との境目で落としどころを調整するような仕事も多かった。柏木が今隠しきれずに零してしまった感情ぐらい、見抜けてしまう。
    「翼、おまえ」
    「………………」
     桜庭のことが、好きなのか。それも、仲間として、友達としてだけではなく、恋という意味で。
     その言葉は、発してしまっていいものなのか迷って、唾と一緒に飲み込む。
     そうだ、桜庭だけじゃなくて、柏木も少しおかしいと思ったきっかけの出来事。あのロケから帰ってきた直後、時差ボケと移動疲れでか軽い体調不良を訴えた柏木のところにするりと桜庭が近づいて、ひどく自然に額を触れ合わせて熱を測ったのだ。柏木はたまにそういうことを平気でやってしまう男だが、桜庭が、だ。それを柏木も驚いた様子もなく受け入れて、そっと桜庭の腰に腕を回し、それが触れた瞬間に桜庭が飛び退いたのを思い出す。そして、その後のお互いに戸惑ったような表情も。
     ほんの数秒の、近すぎる距離。あの時の桜庭の触れ方とその後逃げてしまった意味は。柏木の伸ばした腕に込められていた感情は。
     ……だけど、それを知ってしまって、今自分になにができる。打ち明けられたのなら、受け止めてやれる、と、思う。まったく察していなかったといえば、正直嘘になる。確信はない、というのは真実だ。それでも、今自分が引きずり出して白日の下に晒してやるべき想いではない、そう、思う。
    「ごめんな、俺の独断でこんなきつい状況にしちまってよ」
     だから、それだけ告げると、少しだけ寂しそうに笑って柏木は首を振った。
    「いえ。すみません、変なこと言ってしまって。大丈夫です、明日は、ちゃんとやりきりますから。オレだって、アイドルですもん。こんなことで失敗して迷惑かけたら、それこそ薫さんに嫌われちゃいます」
     明日さえ乗り切ればこのロケは終了、そのまま本土の港に戻って、そこから柏木と桜庭は丸二日のオフ、天道は翌日法律相談番組に呼ばれているため東京に戻った後に一日のオフだ。それぞれ、頭を冷やす時間は十分にある。
     ただこの状況のままオフに入ってしまうと、桜庭と柏木の関係が拗れたまま固定化してしまいそうで、それが歯がゆくて仕方がない。
     知っているのに。こんなの、誰も望んでいないことを。
     柏木だけじゃない、自分だって、桜庭だって、きっと。
     柏木がテントに戻っても暫く天道は東京では見られないほどの降るような星空を見ながら物思いに耽っていたけれど、突然降り始めた雨に慌てて走って引き返した。

     ロケの最終日の朝が来た。昨夜の雨は通り過ぎたようで、空は青く晴れ上がっていた。が、柏木は相変わらず浮かない顔で、その顔をときどきちらりと見ながらも、桜庭は柏木に体調のことを問いただすこともしなかった。それ以前に確実に体調の悪い人間がいるからかもしれないが。
    「まったく、君は馬鹿なのか。雨に降られたあとろくに身体を拭かずにこんな外も同然の場所で寝たら、風邪を引いても不思議はないことぐらいわかるだろう」
    「……おう」
     まったくもって正論なので反論のしようもなく、掠れた声で返事だけして、鼻をすする。その音にますます不快そうな表情を隠しもせず、桜庭はティッシュを押し付けてきた。いや、バッテリーとドライヤーを使ったら物音でふたりが目を覚ましてしまうかもしれないとか一応気は遣ったつもりだったのだ。
    「輝さん……大丈夫ですか?」
    「熱はないが、喉が腫れ上がっているから今日は大人しくしていたほうがいい」
    「せっかくこんなに空も晴れ上がってるのにか?」
    「本当に黙れ。間違ってもそんな耳障りな声でいつもみたいにうるさくしようなどとは思うな。ロケは僕たちだけでなんとかするから、今日は君はここで休んでいろ」
    「別にだるくはねえけど……」
    「ついてきたところでろくにコメントもできないだろう」
     確かにその通りで、明日はしゃべりメインの仕事なのだから喉をこれ以上酷使することはできない。ただそれでも、いまこのふたりから目を離したくはなかった。
     結局、できるだけ体調の悪そうな様子を見て取られないように、極力天道はしゃべらない、食材集めなどは柏木と桜庭を中心に動き、天道は料理シーンで無言で集中して調理に取り組む姿を中心に撮る、という方向で今日は動くこととなった。
     桜庭と柏木のやりとりは、少なくともカメラが回っている限りは、余程ふたりをよく知らない限りは違和感もないだろう、と、一歩後ろから見ていて考える。昨夜の宣言通り、柏木は極力いつも通りを心がけているようだった。
     いつもは自分が先行役なのに、今日は逆だ。ふたりが進むのに任せ、自分はそれについていく。そうしていると、普段とは違う景色が見える。
     たとえば、全体の雰囲気だとか、スタッフの表情だとか。
     そういえば、いつもならずっと三人ついてきたはずの若いADの姿が朝から見えない。なにか別の仕事をしているのだろうか。そう思って見回せば、彼らから少し距離のあるところでディレクターがなにやらトランシーバーで連絡を取っているのが目に入る。
     なるほど、仕込みがあるんだな。今日でロケも最終日だ、なにか絵的に美味しいトラブルか、ラスボス的な獲物に遭遇するようなお膳立てでもしているのだろう。そう考えつつ、視線をまた柏木と桜庭に戻す。おそらくふたりは気づいてはいない。そう考えてみると、そういえば今日はいつもと比べて、向かう方角を強めに誘導されていたような気もした。なるべく不自然でないように行き先にそれらしきものがないかを探す。今日の目的の食材は、島の南端の森に生えている珍しいキノコだったか、などと考えていると。
     突然、翼がしゃがみこんだ、ように見えた。それが見間違いだとわかるまでに数秒、事態を理解できるまでにさらに数十秒。
    「柏木!」という桜庭の悲鳴の直後、桜庭もまた同じように姿を消した。
     考え事に気を取られてふたりとは少し距離が開いてしまっていた天道から見えたのは、落ちていく柏木の腕を桜庭が掴み、しかしそのまま引きずられるようにして一緒に落ちていく場面だけだった。なにかの崩れるような大きな音が、長く、響く。
     慌ててスタッフたちが駆け寄り、ふたりが消えた場所の前で立ち止まって下に向かって名前を叫んでいて、何が起きたのか、頭では予想がつく。だけど、心がついていかない。ややあって駆け寄って、ふたりが消えていった足元を見やる。
     崩れた足元は陽が差さない暗い暗い崖のようになっていて、何メートルあるのか、ふたりの姿は見えなかった。
     嘘だろ。ドッキリにしてはやりすぎだ。そう思う。事実駆け寄ってきたディレクターの顔は演技とは思えないほど蒼白で、トランシーバーに向けて何かを怒鳴りつけているけれど、その言葉が拾えない。
     桜庭、翼。
     叫んだはずの声はしかし声は掠れていて、ひゅうとただ息が漏れるばかりだった。


     ここはどこだ。光が届いていないのか、あたりは薄暗くて良く見えない。わかるのは、自分の下のひんやりと濡れた土と折れた枝の感触、それに、腕の中にある、温かななにか。ひとの、体温。そうだ、急に足元が崩れて、腕が自分に伸ばされて、それで――
     まず、桜庭の無事を確かめた。一緒に落ちてきてしまった彼を咄嗟に抱きかかえたのだった。自分の不注意の巻き添えにしてしまった彼に、もしものことがあったら、後悔してもしきれない。
    「薫さん、大丈夫ですか……?」
     幸い途中で落としたりすることも自分の大きな身体の下敷きにしてしまうこともなく、ちゃんと桜庭の痩身は柏木の腕の中にあった。
    「…………」
    「薫さん」
     ぱっと見で怪我はないように見えるし、痛がっている様子もないが、あたりが暗いのではっきりとはわからない。青みがかった綺麗な目は開いてはいるけれど、呆然とした様子で、反応がない。
    「薫さん!」
     もう一度名前を呼び、軽く肩を叩く。はっとしたように目に光が戻り、それからゆっくりと周りを見回し、やがて柏木の顔のところで視点が定まった。
    「……柏木?」
    「よかった、薫さん、痛いところとかおかしいところはないですか?」
     言うと小さく首を振る。まだ意識ははっきりしていないようだけれど、痛みはないようだ。このぼんやりした様子が頭を打ったせいとかでないならばいい。血も、特に出てはいないようだ。
    「びっくりしすぎちゃったのかな。……覚えてますか。オレたち、さっき足元が崩れて、崖の下に落ちたんです」
    「足元………………そうか、僕は君を助けられなかったんだな」
     呟く桜庭に首を振る。
    「いいえ。薫さんの手は、ちゃんとオレを掴んでくれました。ただ、オレのほうが体重が重いから、薫さんまで巻き添えにしてしまって……すみません」
    「君のせいじゃない。それより、君こそ怪我や痛みはないのか、見せてみろ」
     そういったところで、ふと、戸惑うような顔をして、それからややあって自分がいる位置を確認すると、その目を大きく見開いてから慌てたように柏木の腕から逃れた。ずっと腕の中にあった熱がなくなって、ずきりとした痛みと、喪失感が胸を衝く。
     やっぱり、自分に抱き締められるなんて嫌なんだろう。彼が自分にあまり近寄ってこなくなったのは、この気持ちが、とうとうばれてしまったせいなのかもしれないとは、ずっと考えていたことだった。
     あの海外ロケからだ。行きの飛行機から始まって、あんなにも長い時間を一緒に過ごしたのは初めてだった。ずっと一緒にいれることも嬉しかったし、その思いを抜きにしてもDRAMATIC STARSの三人で一緒にいることは好きだったし、三人全員がオーディションに受かって、映画の大役をつかめたということもすごく嬉しくて、浮かれていた、と思う。仕事に悪影響を出した覚えはない。それでも、共に過ごす時間の中で、例えば休憩中だとか食事中だとか、一緒にあちこちを見て回った観光のときだったり、どこかで、ぼろを出してしまったのかもしれない。
     好きだと、初めて会ったときからずっと好きだったのだと、知られてしまったのかもしれない。
    「……薫さん、周り見てから降りてください、危ないです」
     自分のことをそういう目で見ている男に抱きしめられてなんていたくないだろう。そう思ったことと寂しさが顔に出てしまったのを誤摩化すようにそう言うと、柏木の隣に立て膝をついた桜庭が、僕はそんなに迂闊ではないと返す声がする。
     それから痛いところはないか、確認するからゆっくり立ってみろ、と指示され、言われるままに立ち上がろう、として。背中に鈍い痛みと足首にずきりとした痛みを覚えて、思わずしゃがみこんだ。
    「! どこが痛い、見せろ」
     横を向けた立て膝のままの桜庭と視線の高さが合う。背中と足首、と正直に答えると、途端に医師の顔になり、言われた場所に痩せた指で確認するように触れていく。桜庭の手。好きなひとの指。こんな状況でなかったらどれだけ嬉しいだろう。こんなことでもなければ自分に桜庭が触れてくれることなど、ないのかもしれないけれど。こんな場面だというのに、そんなことばかり考えてしまう。もしこんな下心を知られても、本当は優しい人間だし、責任感が強いから、目の前で怪我をしたり倒れたりしたら、触れてくれるのだろうけれど。
    「……おそらく背中は打撲、足は捻挫だな。折れたり罅が入っているような様子はない。勿論、ちゃんと明るいところでじっくり見てみないことには確実なことは言えないが」
    「そうですか、よかった」
     折れてない、という言葉にほっとしてそう言うと、桜庭の声が重く低くなる。不機嫌なときのそれだ。
    「捻挫を甘く見るな。場合によっては骨折より長引くことだってある」
    「……はい、すみません」
     そう言うと、ふいと視線を落とし、目を伏せてしまった。そして、ぽつりと、ステージ上とはまるで違う、喉の浅いところから吐くような声で、問いかけてきた。
    「どうして、僕を庇ったりなんかしたんだ」
    「え?」
    「君が僕の腕を振り払って受け身に専念すれば、反射神経の良い君ならもっと軽傷で済んだだろう。君が落ちたところまでは僕のせいではないが……こんな怪我をさせてしまったのは、僕のせいだ」
    「なんでそんなこと言うんですか!」
     思わず荒げてしまった声に、驚いたのか桜庭は顔を上げて、透明度の高い硝子玉めいた目をこちらへと向けた。
    「薫さんが怪我するのが嫌だからに決まってるでしょう しかもオレを助けようとしたせいで薫さんが大怪我したりなんかしたら、そんなの絶対嫌です!」
     滅多に大声を出さない柏木の怒声に一瞬気圧されたように言葉に詰まった桜庭だが、しかしまたすぐにきっとこちらをにらみ返し、
    「だったら尚更だ、僕を庇ったせいで君がしなくてもいい怪我をしたんだ、それをどう感じているかぐらいわかるだろう!」
     そう言い返されてしまえばあまりに正論で、だけど感情はそれを否定する。
    「それでも、オレはあなたを守りたかった!」
     それだけだ。たった、それだけ。あまりにも単純で、あまりにも感情以外に理由がなくて、だからこそか、桜庭は呆然としたように黙ってしまった。その姿が、普段とは打って変わって儚げに見えて、怒りにも似た熱が急激に冷めていく。こんな顔をさせたかったわけじゃ、ないのに。
    「薫さんがオレを助けようとしてくれたこと、すごく嬉しかったです。だから、巻き添えにしてしまって、……すみません」
    「……それは、別にいい」
     それきり、お互いに何を言っていいのかわからなくて、やがて桜庭が周囲の様子を見てくる、といって立ち上がるまで、ただただ、深く生い茂った木々の葉音や流れ落ちる微かな水音だけが、あたりに響いていた。

     昨日の雨で地盤が弛み、そこを体重のある柏木が踏んだことで小さな崩落が起きて足を取られ、落ちた、というよりは滑落したに近いのではないか、と桜庭は考えているようだった。確かに崖の上はかなりの距離があり、まっすぐに落ちていたのだとしたら助かるまい。滑落にしても、二人分の体重でこの程度の怪我で済んだのは運がよかったのだろう。土の質がやわらかく、崩れ落ちたそれらが衝撃を上手く吸収してくれ、そのほかにもクッションになる細い枝や草、落ち葉がたくさんあったことが幸いしたようだった。
     桜庭が見て回った限りここは徒歩では容易にはたどり着けない場所らしく、足腰に怪我をしている柏木が斜面をよじ登ってみんなのところへ戻るのは無理だろうと桜庭は判断した。ほぼ無傷の桜庭にしても、よじ上っている最中にまた斜面が崩れないとは限らないからそんな危険は冒したくないという。ボートなどが接岸しやすそうな浜が近くにあったから、いくらなんでも島の全体図を把握しているはずのスタッフなら、そのうちボートで救助に来るのではないかと考えているらしい。
    「移動しない方がいい。僕らがどこに落ちたのかは明白だから、いずれ助けが来るだろう。動く方が危ないし、君の怪我のこともある」、という桜庭の意見にはまったく同意で、ただ、そろそろ雨が来そうだと柏木が告げれば、そこからほど近い場所に雨が凌げそうな洞窟があったと言うのでそこへ移動することにした。柏木の足の状態でも、桜庭の支えがあれば問題なくたどり着け、話し声だって聞こえる程度の距離だ。落下地点まで助けが来てくれたならすぐにわかるだろう。
     自分より少しだけ背が低く、ひどく華奢な桜庭の肩は、わずかに震えているようで、どうしようもなく胸が痛んだ。

     滑落してから、三時間ほどが経った。しかし未だ助けは来ない。柏木の読み通り移動から間もなく雨が降り始めて、外はよく見えなかった。
    「何をしているんだろうな。僕らが落ちた場所はみんな予想できているだろうに」
    「波が荒れているのかもしれませんね。少し、風も強かったですし」
     いくらなんでも助けが来ないということはないだろうが、三人一塊で行動していたために通信機器もなにひとつ持っておらず向こうの状況がなにもわからないというのは心細い。
     柏木としては空腹も相当につらいのだが、食料もないし、この雨の中桜庭に食べられるものを採取してきてほしいと頼むこともさすがにいくらなんでもできない。雨が降り出すまでの間、周囲を探索していた桜庭がとってきてくれた木の実などはとうに食べ尽くしてしまったし、美味しかったが腹の足しにもならなかった。座ったり横になったりしながら待っていた自分に対し、歩き回って探してきてくれたはずの桜庭が口にした量はほんの僅かで、それでも特に腹を空かせた様子がないのは、まあ、いつものことといえばいつものことだ。
    「あ、カエル」
     視界の隅を小さな緑色のカエルが駆け抜けて行くのに気づいてそう言えば、桜庭も反応する。そのタイミングで柏木の腹の虫が盛大に鳴り響いて、桜庭と目が合った。
    「あ、えっと、すみませ」
    「君は煙草は吸わなかったな。なら、残念だが今は火力がない」
    「はい?」
    「カエルの生食は人体にとって致命的な寄生虫に感染する危険性が極めて高い。よほど飢えてそれを食べなければ死ぬという状況でない限り僕は絶対に許可しないからな」
    「食べませんよ……」
     だいたい、柏木が機敏な動きができない以上、ぴょこぴょこと跳ね回るカエルをもし調理設備があれば自分が狩るつもりだったのだろうか。
     やはりカエルに対する反応が少しおかしい。洞窟に巣があるらしい鳥やコウモリに対してはただ見ていただけだったというのに。
    「……しかし、火がないのは少々きついな」
    「薫さん、そんなにカエル食べたいんですか……?」
    「違う。別に腹は空いていない。ただ」
     そこまで言って、少し迷ったような表情をして、そしてうつむいてしまう。
    「薫さん?」
    「いや、なんでもない。それより、怪我は痛まないか」
     ゆっくりと近づきながら、投げ出している柏木の足のところに座り込む。そのそろりとした動きは、細身の黒猫を思わせた。
    「大丈夫です」
    「そうか。ただ菌が入ったりすると大変だ。変な腫れ方をしたり熱を持っていないか、見せてみろ」
     頷くと、桜庭は先ほど捻挫した右足のジャージの裾を軽く捲り、確かめるようにその細長い指で触れる。
    「……っ」
    「すまない、痛かったか」
     その感触に思わず身をびくりと竦ませると、桜庭の表情が一変する。医師の顔としての硬い顔に、眼鏡の奥から覗く青い瞳には、ある程度付き合いの長い人間ならすぐにそうとわかる不安と心配が見て取れる。
    「違います、痛くはないんです、ただ」
     言いながら腕は勝手に伸びる。足首に触れる桜庭の右手を掴む。驚いたようにこちらを見るその表情には、驚きと不安が滲んでいるように柏木には見えた。
    「薫さんの手、冷たくて」
    「不快だったか、すまない」
    「そうじゃなくて!あの、」
     戸惑うように離れようとする桜庭の左腕をつかんで、力任せに引き寄せる。彼のジャージはうっすら水気を帯びていて、先ほど外で雨に降られたまま、乾いていなかったのだと知る。
    「……寒いって、言ってくれればよかったのに」
    「言ったからといって何ができる。さっきも言ったようにここに火の気はないし、助けを待つ以外にできることはない」
     触れたままの右手は微かに震えていて、すっかりその身体が冷えきってしまっていることを知る。
    「薫さん、その服脱いでください。オレの服、貸しますから」
    「怪我人がそんな心配をするな、じきに助けが来る」
    「でも、今辛いでしょう、こんなに、冷たくなっちゃってる……」
     この冷たさを、知っている。氷みたいになってしまった身体に、触れた覚えがある。
     あの時はもっと冷たかった。外気に体温を奪われて冷えるどころじゃなく、芯から熱を失っているような、人間としてあらざるほどに冷えきってしまったその身体を抱きしめて、それとは裏腹に上気した顔の中でも一際輝く、切なさを帯びて潤んだ青い瞳を見つめ、その冷たい唇に触れて――あのときって、いつだ。そんな時間、あったはずが、ない。都合のいい夢だ、そんなもの。
     その幻影を振り払うように、抱きしめる代わりに桜庭の手を温めようと、はあと息を吐きかけた。途端、大きく身体をびくりと震わせ、数歩、後ずさった。柏木の手が届かない距離へと。
     ほら、やっぱり。この身体に残る感覚も、帰ってきてから何度も夢に見た、この腕の中に桜庭がいる光景も、潤んだ瞳も、幻に決まっている。
    「……やっぱり薫さん、オレのこと、嫌いになりました?」
     そう言うと、怯えたように伏せていた桜庭の目が、大きく見開いて自分へと向けられた。
    「そんなはずないだろう」
    「でも、最近オレが触ると逃げてますよね」
    「……逃げてなど、ない」
    「今だって、離れたじゃないですか。オレが何かしたんなら謝ります。すみません」
    「馬鹿を言うな君を嫌いになるわけないだろう!」
     もとよりよく響く声が、洞窟に反響して周囲の空気を大きく揺らした。それに驚いたのは柏木よりも桜庭のほうであったようで、しばし呆然としたような顔をした後、しかしきっと柏木を睨みつけた。
    「だが僕らは……こんな行為をするような関係ではないだろう こんな、こんな……………………恋人にするような」
    「えっ、これは普通にしません?」
     この程度のことなら、弟妹たちやプロデューサー、もしかしたら天道相手にも気にせずやってしまっている。恋人にするように抱きしめるのは躊躇われて、それでも少しでも桜庭を温めたくてこの程度に留めたのに。
    「……まあ、その点についてはとりあえず保留しよう」
     少しだけいつもの冷静さを取り戻したように言う。声のトーンも多少は落ち着いたようだった。それでも、その目に浮かぶ困惑は隠せていない。
    「だが、君の僕に対する振る舞いは、最近特に……その……なんだ、同じユニットのメンバー対するものとしては…………近すぎるように思う」
    「……やっぱりそう感じますか? 気持ち悪い、ですよね」
     やはり、抑えきれていなかったのだ。受け入れてもらえるはずがないと思ってずっと隠してきたのに、いつの間にか、その箍が外れてしまっていた。触れたくて仕方がなかったし、触れられないことがどうしようもなく寂しくなった。
     まるで、ずっとそうすることが当たり前だったみたいに。それが、急に奪われたように感じて、それが柏木を苛立たせていた。元々そんなことあるはずがないのに、なかったはずなのに、あったのかもしれないと錯覚してしまうような現実が、あったから。
    「でもそれはあなたもです、薫さん」
     だから、零れ落ちてしまった。
    「薫さんだって、急にオレに近づいてきたり、かと思ったら逃げたりして、薫さんがなに考えているのか、全然わかりません」
     珍しく攻撃的な物言いに、桜庭の顔が更に引きつったように見えたけれど、止められなかった。これまで溜まりに溜まった不安や、恐怖や自己嫌悪、欲求、恋慕、そういったどろりとしたものたちが混ざり合って、柏木の心の重い蓋を、壊してしまったみたいに。
     言いがかりだ。わかっている。
    「あなたがそんな風だから、オレは、オレだって、あなたにどう接すればいいのかがわからなくなるんじゃないですか……!」
     もう、元のようには戻れないかもしれない。でも、止められない。桜庭はきっと、自分との関係が拗れたところで少なくとも仕事はうまくやるだろう。自分はできるだろうか。桜庭や天道やプロデューサー達に迷惑をかけるのは嫌だ。どうしよう。怒鳴りつけるように言ってしまってから、目を閉じた。桜庭の顔を見るのが怖かった。
    「柏木、僕は気持ち悪いなどと一言も言っていない。むしろ逆だ。……嫌じゃないから、どうしていいかわからないんだ」
    「え……」
     淡々と告げられる、静かな、けれど困惑の滲んだ声に目を開けば、まっすぐにこちらを見据える桜庭と目があって、しかしその途端、桜庭はふいと目を逸らしてしまう。
    「僕にもわからない。……なぜかわからないが、急に、君との距離の取り方がわからなくなった。もっと、もっと近くにいたような気がして、どうして君がここにいないんだと思って、だけど普通に考えて、こんなに近かったはずがない、こんなの、仲間の距離じゃない、そう思ったら……君にどう近づけば良いのかが、わからなくなった」
    「薫さん…?」
    「僕はおかしい。君たちも気づいているんだろう。君たちが僕を心配していたことは知っていた。本当にすまないと思っている。情けない、すぐに元通りに、する」
     いつも通り流暢だったはずの言葉が、徐々に、徐々に、とぎれとぎれになっていく。
    「ねえ薫さん……なんで、泣いてるんですか」
     その一見中性的な顔立ちに反して、綺麗だけれど決して小さくはない両手で顔を覆ってしまっても、その揺らぐ声を聞けば、泣くのを堪えていることぐらいは、わかる。けれど、その涙の意味が、わからない。顔が、見たい。
     痛む足腰に力を入れ、手で支えながらなんとか這うような体勢になった。足下の砂利や木の枝が音を立てる。一歩、一歩桜庭のほうへ向かうと、小さく、その身を震わせたのが見えた。
    「何をしている。やめろ、足に負担がかかるだろう」
     そう言いつつ、支えには来ない。ほんの数メートルの距離が、こんなにも遠い。
    「やめろ、来ないでくれ、柏木……っ」
     ゆっくり、一歩、一歩。近づくたびに足首が、腰が、軋む。顔を覆うことも忘れてしまった桜庭の目が、うっすらと潤んでいるのがこの薄暗さの中でもはっきりわかる。桜庭は、逃げなかった。
     あと、30cmの距離。手を伸ばせばすぐに触れられる。膝を抱えて座る桜庭を、膝立の姿勢で追いつめる自分はひどく不格好だろうなと、そんなどうでもいいことをふと考えた。
    「嫌だったら、言ってください。すぐにやめますし、二度とこんなことしません。諦めますから、つらいですけど」
     20cm。桜庭の呼吸の音も聞こえる。壁に手をついて逃げ場を封じるように追いつめる。それでも、怪我でまともに歩けない自分の腕から逃げられないような桜庭じゃない。もとよりそんな気弱な質ではないし、華奢とはいえ背丈もあるし、非力ではあってもいざとなったら手を出すことを躊躇わない程度には気が短い男だ。そして、今後のユニットの雰囲気が悪くなるのを避けるために、流されておくことができるような器用な人じゃない。
     だからきっと、此処にいてくれるのは、彼の意思だ。
    「でも嫌じゃないなら、あなたが、オレのこと好きなら……ねえ、薫さん、オレのこと、好きですよね?」
    「………………っ」
     切れ長の青い目が大きく見開かれる。
    「オレも同じです。おかしいんです。どうしてここに薫さんがいないんだろうって思っちゃうんです。……ここに」
     逃げるなら、これが最後、その思いを込めて、ゆっくりとその身体を抱きしめた。時間は十分に与えた。桜庭のすっかり冷えきってしまった身体と、上気した頬が、かすかに潤んだ青い瞳が、いま、このとき、腕の中に確かにあった。
    「薫さん、好きです」


     好き。
     そうか、僕はこの男が好きだったのか。そんなシンプルなことに、やっと桜庭は気がついた。
     近づくと、苦しかった。離れても、苦しかった。なにかがあるべき場所で、それが欠けているような感覚。けれど、それはそこにあるべきではないという、常識。
     どうして、傍らに柏木がいないのだろう。
     どうして、こんな近くに柏木がいるのだろう。
     当たり前のように柏木に触れようとして、それが当たり前じゃないことにふと気がついて距離を取って、そんな自分に戸惑って、そのときの柏木の傷ついたような表情に胸が痛んだ。その感情の理由は、わからないままだった。
     この温かな腕を知っている。自分とは違う厚みのある胸板に、顔を寄せて感じた匂いを覚えている。……いつだ。そんなこと、あるわけがない。柏木に抱きしめられるような関係であったことなど、ないはずなのに、ずっと、欠けていたものが、あるべき場所に戻ってきたような、そんな奇妙な感覚があった。
     こんなの、おかしい。恋人同士どころか、今しがたこの感情に名前がついたばかりだというのに。柏木のことが、好きだと。
    「柏木」
     名前を呼ぶ声が、震えていた。はい、という声とともに、背に回る腕に力が込められる。目の前には柏木の少し紅潮した顔があって、さっきまでの怒気とは打って変わってやわらかな、しかしどこか緊張と不安を滲ませた目で、こちらを見つめている。レトリバー犬のようだ、と思う。本能のままに自由奔放に行動しているようでいて、その実大事な存在のことをよく見ている、賢い大型犬。その瞳に今映っているものは、自分たったひとりなのだという事実に、心臓が大きく跳ねた。
     どうすれば、いいのだろう。
     自分は、どうしたい。
     すっかり冷えてしまったてのひらは、柏木の温かな体温に触れたくて仕方がない。それでもこんな冷たくなった手で打撲の患部に触るのは躊躇われたから、少し迷って肩甲骨の下あたりに両手を伸ばした。温かい。その温度に思わず目を閉じてどうしようもなく安堵していると、額に、柏木の息遣いを感じて目を開けた。あと2cmほどの距離に柏木の整った顔がある。ここ数週間、寂しげな表情が目についた顔。いつもなら、穏やかに笑っていてくれるはずの顔。その笑顔が、時々見せる困ったような表情が、好きだったんだ。たぶん、きっと、かなり前から。
    「……薫さん」
    「なんだ」
    「オレのこと、好きですよね?」
     確認するような口調だった。なんだかそれが無性に悔しいが、しかし自覚するよりも気づかれる方が早かったのだから、自分の鈍さにはほとほと呆れる。
     でも仕方ないとも思う。これまで、恋愛と呼べるものをしたこともなかったし(幼児期に大きくなったらおねえちゃんをおよめさんにする、と本気で言っていたのはノーカウントでいいだろう)、突然、本当に突然、なんのきっかけらしきものも見いだせないまま、感情だけが膨れ上がってしまったのだから。まるで長い時間をかけて、恋をしたみたいに。
     そう、ここにはない、長い長い、柏木に思いを募らせた時間があるみたいだった。恋をした、ということを理解するのには困難が伴ったが、そうだとわかってしまえばそれが当たり前のことのようにすとんと腑に落ちた。同性であること、ユニットメンバーであることの葛藤もなかった。まるでそんなものは、とっくのとうに散々悩んで乗り越えてしまったみたいに。
     その感情はひどく自然なものとして桜庭の中に落ち着いた。
     けれど、だからといって照れくさくないわけではなくて、素直に返事はできずに小さく頷く。
    (あ、笑った)
     ここしばらく見れていなかった気がする、柏木のほんとうに幸せそうな笑顔が見えたと思ったら、唇に温かくてやわらかくて、わずかにかさついた感触があった。
     キス、されている。思わず目を閉じる。ふふ、と息遣いだけで柏木がまた笑ったのがわかった。一度離れて、またもう一度触れてくる。肩に回した腕に力を込めて、少しだけ体重を、負担にならない程度に柏木に預けた。
     何度も何度も、繰り返して、やがて離れて行くのを頬に感じる体温で気づいて、桜庭は目を開けた。
     柏木が、笑っていた。少しだけ照れくさそうに、ほんの少しだけ困ったように、赤く染まった頬で。
    「……変ですね」
    「何がだ」
     人に散々キスをしておいて、言うに事欠いて第一声がそれか。その考えがわかりやすく顔に出ていたのだろう、慌ててあたふたとして少しその長い腕をばたばたとさせたあと、再びその大きな手は、桜庭の背に落ち着いた。
    「違います! そういうことじゃなくて、その……なんか、初めてじゃないみたい。ずっと、薫さんが好きだったからでしょうか」
    「………………っ」
     その顔は、その声は、ずるいと思った。たったこれだけの言葉で、どれだけ彼が桜庭を恋い慕っていたのか、どれだけ今、その心が穏やかな歓喜に満ちているのかが、伝わりすぎて溢れ出してしまうほどの笑顔と、声音。その能力を演技仕事にもうちょっと活かせないものなのか、と場違いなことを思ってしまうほど、それは優れた脚本家が技巧を尽くした愛の言葉なんかよりも、ずっと、ずっと。
    「ずっと前から、薫さんが好きです。もうずっと、ずっと、長い間……」
     耳元で囁かれる、語彙が豊かとは言えない愛の言葉に、けれどそれにもっと、足りない言葉で返した。
     僕もだ、と。

     救助が来たときのことはあまりよく覚えていない。桜庭は疲労と緊張と空腹と低体温のダメージで疲れ果て半分寝ているような状態だった。ただ、その中でも洞窟に駆け込んできたときの天道の必死の形相と安堵の笑み、薫さんが限界です、早く、と叫ぶ柏木の声は覚えている。その中で、僕より彼だ、怪我をしている、となんとか告げたことも、体力が限界を迎えて動けなくなってから、自分を励ます柏木の声と、自分が熱を奪ってしまって少し体温が下がってしまった腕も。
     気がつけば本土への移動用の船の中で、医務室のベッドに寝かされていた。あたりを見回せば、すぐ傍の椅子のところで心配そうに見守っている柏木と天道の姿が目に入る。
    「薫さん! おはようございます、大丈夫ですか」
    「おい桜庭、俺がわかるか?」
     ゆっくりと上体を起こしながら、ふたりの名前を呼ぶと、ほっとしたように息を吐くのがわかった。
    「すまなかったな、心配をかけた」
    「いいんですよ薫さん、あなたが無事なら、それで」
     ほんわりと笑うその笑顔に、釣られて少しだけ顔が緩む。
     天道が何かを聞きたそうな顔をしているのはわかったけれど、特に口を開こうとする様子もなかったので、特段こちらから話すことはなかった。だいたいの状況の聞き取りは、きっと柏木が対応してくれたのだろう。
    「……んで、だ。桜庭も起きたことだし、ざっと俺の知っている限りの事情を説明しとくな」
     とりあえず、今は夕方の七時頃。ふたりが事故に遭ったのが昼前ぐらいで、救助が来たのが六時前ぐらいだったから、約一時間ほど気を失っていたらしい。
     事故の原因は昨日の雨で地盤が弛んでいたポイントに柏木の体重が加わったことで軽い土砂崩れが起きた、ということ自体は桜庭の見立て通りだった、のだが、実はその地点は既にスタッフによって朝のうちに見つけられていて、三人を近づけないようにするはずだった、という衝撃の事実が明らかになった。
     本来はその場所よりも手前に、スタッフたち言うところの「番組的に美味しいちょっとしたトラブルを引き起こすための罠」が事前に仕掛けられていたため、それを目印にトラブルの起きた地点より先に進ませないことにする予定だったそうなのだが、これがまた雨のせいで思った通りに作動しなかった。仕掛けたADが次の仕込みのため同行しておらず、他のスタッフは具体的な場所を知らず、トラブルが起きるまでは進んで大丈夫だと思っているうちに、その場所を越えて事故が起きてしまったのだという。
    「よくそんなことを彼らが白状したな。僕たちにばれなければただの事故で済ませられただろうに、責任を認めたのか」
    「黙ってたそうな感じだったんだけどな、トランシーバーでそれらしきこと言ってるの聞いちまったから洗いざらい吐かせた」
     これでも元法曹だ。そう言った言語的荒事には慣れている。その声にははっきりとそうとわかる怒りが滲んでいた。
     更に天道の怒りに油を注いだのは、その不発だった罠の内容だった。張られていた糸に足をひっかけると、それがミツバチの巣に繋がっており、慌てたハチが飛び出してくるという仕掛けだったらしいのだ。
     うまくクリアすれば蜂蜜が手に入る、というイベントとして用意されたのは、わかる、が。
    「うわ、刺されたら痛そう」
    「仮に僕らにアレルギー体質の人間がいたら大変なことになっていたな」
     確かにだいたいの場合は痛いだけで済むし、治療の用意はあったということだけれど相当痛いことに変わりはないし、予想外の事故の危険性もあった。
    「だろ ほんとありえねえ! とりあえず全部録音はしておいたからこの先しらを切られることはねえと思うし、念のため録音データはさっき事務所にメールで送っといた」
     流石は元法曹というべきか、なによりまずは証拠保全という桜庭にはない発想に素直に感心する。
    「流石だな」「流石ですね」
     声が重なって、思わずふたりで顔を見合わせて、どちらともなしに微笑む。ずっと、こうしていたいだなんて、年甲斐もないことをうっかり思ってしまって。
    「あー、ごほん」
     と、わざとらしいにもほどがある天道の咳払いに、思わずぱっと目を逸らした。天道はどこまで気づいているのだろう。聞くのが怖い気もするが、どうしたものか。
    「そ、そういえば、今回のロケの映像、どうなるんでしょうね」
    「あ、ああそうだな。まさか今日のものはそのまま流すわけにはいかないだろうが、一週間分丸ごとお蔵入りというのは……」
    「そのことだけど、とりあえず明日収録のついでに、プロデューサーと一緒に行って交渉してくるよ。最終日の扱いはどうするかはともかく、少なくとも前日の分までは極力使ってもらえるようにするつもりだ。だってあんなに頑張ったんだぜ」
     掠れた声でそう言ったところで、げほげほと今度は本気の咳をする。
    「おい、そんな喉で明日は大丈夫なのか」
    「……港についたら全員病院直行だよ。桜庭と翼は救急、俺は内科で明日に備えて新幹線に乗る前に点滴だ」
     ため息をつくと同時にまたひとつ咳が出る。
    「輝さん、具合悪かったのに無理をさせてしまってすみません……」
     柏木が言うと、輝は大きく首を振った。
    「おまえらのせいじゃないからそんな顔するなよ。おまえらが無事で…………本当に、よかった」
     声を詰まらせた天道に、どれだけ心配をかけてしまったかを知る。そして自分たちが、彼にそれだけ心配してもらえる存在であるということも。
     三人とも、ちゃんとここにいる。無事でいる。そのことがこんなにも、温かい。


     天道は点滴を受けた後最終の新幹線で東京に帰り、桜庭と柏木は様子見ということで念のため一泊入院させられた後、桜庭は特に問題なし、柏木も桜庭の見立て通り打撲と捻挫で、背中に大きな湿布を貼り、足首にギブスを装着した状態で退院した。どちらも思ったより軽傷で済み、完全に元通りになるには一ヶ月ほどかかるが、一週間もすればギブスは外して良いとのことで、そこまで走ったり踊ったりする仕事が入っていなかったことに安堵した。仕事内容的には、天道の喉のほうが辛いぐらいのはずだ。
     昼前には病院を出て、知らない港町でふたり、空を見上げた。太平洋側らしい突き抜けるような青い空が、海面に映り、視界は一面の青さに染まる。
    「どうしましょう薫さん。何、食べます?」
     病院食の朝食では明らかに物足りない様子だった柏木は、何に置いてもまずは腹ごしらえをしたいらしい。先ほどから腹の虫が哀れな音を立て続けている。
    「そうだな。君が食べたいものでいい」
    「でも、オレの基準で店選びしたら、薫さん食べきれないかもしれませんよ」
     申し訳なさそうに言う柏木に、別に内容的に食べられないものはほとんどない、と返し、それから、ごく当たり前に、こう付け加えた。
    「僕が食べきれなかった分は、君が食べればいいだろう」
     そう言った途端、柏木が嬉しそうに笑う。そんなの、いつものことだ、そのはず、なのに。
    「それって間接キス、ですよね」
    「なっ!」
     にを、言っているんだと、その言葉が喉に詰まって出てこなかった。
    「薫さん、真っ赤ですよ。かわいいなぁ」
     あはは、と笑う柏木は、見たこともないぐらい楽しげな顔をしていて、からかわれているのだとすぐにわかる。
    「……柏木、からかうのはやめろ」
    「えー」
     にこにこと笑いながら少しだけ不服そうな声を出してみせる柏木に、小さくため息を返す。もしかして、面倒な男を恋人にしてしまったのかとしれないなどと考え、恋人、という単語にまたどきりと心臓がひとつ鳴ってしまう。話題を変えたい。
    「……ああ、そういえば。昼食の後でいいんだが」
     ふと思い出して、「君は今日明日になにか予定はあるか?」と問えば、首を少し傾げていいえ、と応えがある。
    「ならば、この近くに温泉街があるだろう。無論捻挫の回復度合い次第だが、既に熱が取れているなら温泉は早期回復に有効だ。泊まっていかないか」
     新幹線に長い時間乗っているのもなかなか足腰に負担になる。少しでも良くなってからのほうがいいのではないか。そう思っての提案だった。
    「え、あの」
    「ああ、移動や荷物の心配はいらない。僕のせいでさせてしまった怪我だ。ちゃんと責任を持って東京に帰るまで世話させてもらう」
     柏木を思っての発言だったのに、思ったより反応が芳しくない。余計なお世話だっただろうか。どうにも自分は、相手に対する気遣いが上手くできないことは自覚している。
    「いえ、あの、そうじゃなくて」
    「なんだ、嫌ならはっきりそうと言え」
    「嫌とかじゃ全然ないんです!」
    「じゃあなんだ」
     明らかに苛立ちが顔に滲んでしまったのだろう。柏木の顔が一瞬青ざめたように見えた後、しかし一歩、二歩、距離を詰めて、耳元で囁いた。
    「いいんですか? ……オレとふたりきりで、温泉旅行、なんて」
     普段の少しふわふわした声とは打って変わった、低めの、男の、囁き声。言葉の内容を理解するより先に、この音に鼓動が跳ね上がる。そして意味が頭に入ってくると、自分の発言の大胆さに気づいてしまって顔が熱くなった。風呂ぐらい、泊まりがけの仕事で何度も一緒に入っているというのに。それこそ、例の無人島でだって。
    「ち、違うそういう意味じゃない僕は君の身体のことを考えてだな」
    「薫さんって意外と積極的なんですね。嬉しいです。オレはもうあなたのものですから、オレの身体、好きなだけ見たり触ったりしていいんですよ、考えるだけじゃなくて」
    「そう言う意味じゃない!」
     桜庭の怒声が響いてしまって、周囲の人が振り返る。長身の美形二名が顔を真っ赤にして言い争いをしているという妙な光景に人目が集まりそうになってしまって、「まずは昼食だろう。早く何を食べるか決めろ!」と乱暴に言い放つと、目的地も確定しないままタクシーを止めて、それでもちゃんと柏木に肩は貸してやった。
     横で柏木はだらしないぐらいの笑顔で嬉しそうにしているし、自分の顔は鏡を見なくてもわかるほどに熱を持っている。照れくさい、恥ずかしい、どうしていいかわからない。戸惑いは、昨日までよりもずっと大きいくらいで。
     それでも、それが苦しくはなかったし、嬉しそうに荷物に隠して繋がれた手の温かさに、なんだかいろいろなものが、ほどけていくような気がしていた。


     一週間後、315プロは今までにない大仕事に右へ左への大騒ぎだった。
     DRAMATIC STARSが司会の全国放送ゴールデンタイムの二時間特番が突如決まったのである。その他のゲストも315プロから出すことになり、なかなかまだ普段テレビに出る機会のないユニットの面々はわかりやすくそわそわしている。
     その上プロデューサーが目だけ笑ってない笑顔で「こちらがやりたい企画の希望を出して、面白そうなら向こうがなんとかしてくれるようなので、皆さんいろいろ好きに提案してみてくださいね」などと言ったものだから、お祭り好きのアイドル達は目の輝きが違う。海外ロケ、遊園地に行きたい、料理対決、バンジージャンプ、NASAで無重力体験、高校の学校祭乱入ライブ、粉物食べ放題、インド映画風コント、サイコロの旅などみんな言いたい放題だ。
    「はいはーい! あたしがプロデュースしてみんなを可愛くしたい!」
    「咲ちゃんそれは向こうの人じゃなくてこっちのみんなと相談して決めてね、みんなのOK出たら衣装でも化粧品でもなんでも好きなだけおねだりしていいから」
     という会話に、何人かは背筋が冷えたようだけれど、その冷え方には二種類ある。
    「……契約とかでなんか変だなと思ったらまず天道さんに相談すれば良いのかな」
     ぼそりと天ヶ瀬が呟くその視線の先で、天道は桜庭や柏木とああでもないこうでもないと楽しげに企画の話し合いをしている。あの日テレビ局で偶然見かけた時にまとっていた、鬼神の如きオーラは微塵も感じさせることなく。
    「オレはおいしいもの食べれる企画がいいですね。そうだ、飛び込みでいろんなお店回って1曲歌って踊るのと引き換えにご飯食べさせてもらえるか交渉してみる企画なんてどうですか?」
    「それ面白そうだな! 毎回毎回オーディションみたいで緊張するし、断られたら自腹で食って進むんだろ」
    「後半、ダンスが明らかにつらそうだな……」
     当のDRAMATIC STARSは相変わらずの様子で、呑気にけれど積極的にアイディアを出し合っている。
     この企画が、杜撰な撮影による事故に対する詫び、及び口封じであることぐらいは、桜庭と柏木も流石に知っている。幸い大きな怪我ではなかったし、あのテープのお蔵入りを防ぎ、天道の風邪を理由に最終日だけ別日にチャレンジ企画をやるという体でなんとか放送につなげただけでなく、こんな事務所全体にとってまたとない大きなチャンスに繋がったのだから、結果としてプラスになったのではないかと、ふたりは比較的のんびりと考えていた。
     彼らは、知らない。知らせるつもりもない。天道たちがどれだけあの事故について怒っていたのか。制作スタッフと彼らの間でどんな交渉が行われたのかも。
     それでいいと天道は思う。ふたりは無事だったのだし、二度とこんなことが起こらないように、これから今まで以上に気をつけるだけだ。
    「じゃあさあ、温泉巡り企画でそれやるのはどうだ? 翼の足にもいいだろうしよ…………桜庭、どうした? 顔真っ赤だぞ」
     それに、件のロケのもうひとつの目的も、無事に果たされたようなのだし。
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    onsen

    DONEクラファ仲良し
    クラファの3人が無人島で遭難する夢を見る話です。
    夢オチです(超重要)。
    元ネタは中の人ラジオの選挙演説です。
    「最終的に食料にされると思った…」「生き延びるのは大切だからな」のやりとりが元ネタのシーンがあります(夢ですが)。なんでも許せる方向けで自己責任でお願いします。

    初出 2022/5/6 支部
    ひとりぼっちの夢の話と、僕らみんなのほんとの話 --これは、夢の話。

    「ねえ、鋭心先輩」
     ぼやけた視界に見えるのは、鋭心先輩の赤い髪。もう、手も足も動かない。ここは南の島のはずなのに、多分きっとひどく寒くて、お腹が空いて、赤黒くなった脚が痛い。声だけはしっかり出た。
    「なんだ、秀」
     ぎゅっと手を握ってくれたけれど、それを握り返すことができない。それができたらきっと、助かる気がするのに。これはもう、助かることのできない世界なんだなとわかった。
     鋭心先輩とふたり、無人島にいた。百々人先輩は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。
     俺はこの島に超能力を持ってきた。魚を獲り、木を切り倒し、知識を寄せ合って食べられる植物を集め、雨風を凌げる小屋を建てた。よくわからない海洋生物も食べた。頭部の発熱器官は鍋を温めるのに使えた。俺たちなら当然生き延びられると励ましあった。だけど。
    12938

    onsen

    DONE百々秀

    百々秀未満の百々人と天峰の話です。自己解釈全開なのでご注意ください。
    トラブルでロケ先にふたりで泊まることになった百々人と天峰。

    初出2022/2/17 支部
    夜更けの旋律 大した力もないこの腕でさえ、今ならへし折ることができるんじゃないか。だらりと下がった猫のような口元。穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。深い眠りの中にいる彼を見ていて、そんな衝動に襲われた。
     湧き上がるそれに、指先が震える。けれど、その震えが首筋に伝わってもなお、瞼一つ動かしもせず、それどころか他人の体温にか、ゆっくりと上がる口角。
     これから革命者になるはずの少年を、もしもこの手にかけたなら、「世界で一番」悪い子ぐらいにならなれるのだろうか。
     欲しいものを何ひとつ掴めたことのないこの指が、彼の喉元へと伸びていく。

     その日は珍しく、天峰とふたりきりの帰途だった。プロデューサーはもふもふえんの地方ライブに付き添い、眉見は地方ロケが終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、今頃はどこかの番組のひな壇の上、爪痕を残すチャンスを窺っているはずだ。日頃の素行の賜物、22時におうちに帰れる時間の新幹線までならおふたりで遊んできても良いですよ! と言われた百々人と天峰は、高校生の胃袋でもって名物をいろいろと食べ歩き、いろんなアイドルが頻繁に行く場所だからもう持ってるかもしれないな、と思いながらも、プロデューサーのためにお土産を買った。きっと仕事柄、ボールペンならいくらあっても困らないはずだ。チャームがついているものは、捨てにくそうだし。隣で天峰は家族のためにだろうか、袋ごと温めれば食べられる煮物の類が入った紙袋を持ってほくほくした顔をしていた。
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