小旅行 夕暮れ編 外湯めぐりという名の浴衣デートを楽しんで宿泊先に戻ってきた頃には、昼間の暑さも和らいで夕涼みにちょうど良い風が吹いていた。
「お帰りなさいませ」
仲居ににこやかに出迎えてもらうともう帰ってきたという気になる。部屋へ案内してもらうとフロントで預ってもらった荷物もちゃんと届いていた。
「外湯めぐりはいかがでしたか?」
一通り部屋の説明が済むと仲居がお茶を淹れながら聞いてくれた。
「いいお湯でした。途中で温泉ソフト食べたりして」
犬飼が愛想よく対応してくれるので、辻は差し出された茶菓子を安心して食べていられる。
「あら素敵。温泉の後のソフトクリームって美味しいですよねえ」
なにかあればお申しつけください、と一礼して仲居は部屋を去っていった。
「やっと落ち着いたね」
足を崩して窓の外に目をやるとあんなに眩しかった太陽が少しずつ山向こうに隠れていて、空はもう薄紫色だ。
「先輩、足痛くないですか?」
先程まで慣れない下駄で外湯めぐりしていたので、足裏にまだ硬い踏み心地が残っている気がする。
「うん。明日になったら筋肉痛になってるかもだけど。辻ちゃんは鼻緒のところ皮剥けちゃったりしてない?」
「俺は平気です」
「よかった」
犬飼の手が辻の腰に回り、そっと抱き寄せる。張りのある浴衣越しの体温はいつもよりじんわり溜まる。
「疲れてない?」
「はい。あの、ありがとうございます。……来て良かったです」
辻の髪が犬飼の肩にさらりと流れる。
「急に決めちゃってごめんね」
「いえ。俺こそ、先輩に頼りっきりだったので次は俺に計画させてください」
「楽しみにしてる」
頬に手が添えられて唇が重なる。甘いキスに辻はうっとりと目を閉じていたがそのうち犬飼の舌がスルリと忍びこんできて、思わず犬飼の浴衣の袖をつかんだ。
「……っ、ん、んん!」
舌を絡められたままの抗議は大した音量にならず、肩を強く押すとやっと犬飼の唇が離れた。
「……びっくりした?」
イタズラに成功したとばかりに笑う犬飼に辻も憤慨してみせる。
「このまま押し倒すつもりかと思いましたよ」
「それも魅力的だけど、夕飯食べ損ねたら辻ちゃんに一生恨まれそう」
「当然です」
ツンとそっぽを向く辻を見てつい笑い声が出てしまう。頬にキスして許してもらった。
♨♨♨
チェックインの時に伝えた時刻になると仲居が
「そろそろお食事をお持ちしましょうか?」
と訪ねてくれた。
「お願いします」
犬飼がうなずくと、座卓に食事の仕度が設えられていく。
嵐山隊のようにお忍びする必要はないが、ボーダー隊員だと知られるとなにかと面倒なので犬飼は部屋食を頼んでいた。
「まずは食前酒代わりの梅シロップとみかどみかんのジュースでございます」
細工の美しい小さなグラスに梅シロップ、ソフトドリンクのグラスにみかどみかんのジュースが注がれる。
犬飼は小さい方のグラスを手に取ると、
「初めての旅行、カンパイ」
と冗談めかしてグラスを掲げた。
「乾杯」
辻も少しだけグラスを傾け、梅シロップに口をつけた。とろりと口の中に梅の風味が広がって、強い甘みと爽やかな酸味が舌を楽しませる。
「先付は焼きそら豆と海老の和え物でございます」
華やかな器の上に小さな前菜がいくつも盛り付けられていて花が咲いたようだ。
「犬飼先輩、どれから食べたらいいんでしょう?」
「手前から?かな?まあ、誰も見てないし、好きな順番でいいんじゃない?」
会席料理はさすがに二人とも馴染みがない。戸惑いながら箸をつけた。
「海老おいしい」
「こっちの四角いのもおいしいです!松風焼き?ですかね?」
お品書きを見ながらあれこれ食べるとすぐに器が空いた。
「お椀はスズキの潮汁仕立てでございます」
焼き目をつけた白身魚に飾り切りされた野菜が彩りを添える。
「このおつゆ好きです」
「あっさりしていいね」
向付には鮪を中心とした真鯛や鯵なんかの季節の刺身が出てきた。氷の器に盛り付けられ、涼やかな見た目はそれだけでもう芸術のようだ。
「焼き物は地元三門ビーフのステーキでございます。みかどみかんの果汁入りソースでお召し上がりください」
箸で食べやすいようにすでに切り分けられたステーキが出される。
「みかんソースってどんなかなと思ったら醤油ベースなんだね」
「ポン酢みたいで食べやすいです。それにしても、お肉柔らかいですね」
小さく盛り付けられた料理はとにかく品数が多く、二人は夢中で舌鼓を打った。
「辻ちゃんお腹いっぱいじゃない?」
コースの〆のご飯と汁物を食べ終える頃、犬飼は心配そうに聞いた。
「温泉たまごに、ソフトクリーム食べて、旅館のお着き菓子のあとに会席でしょ?」
指折り数える犬飼の方はちゃっかり食べる量をコントロールしていて、ソフトクリームも辻からひと口もらっただけだ。
「……それが、するすると入っていってしまいました」
おかしいですね、と表情を変えずに辻が言うものだから犬飼もくつくつと笑ってしまう。
「なら、デザートも入りそうかな」
「失礼致します」
デザートとして食卓に運ばれてきたのは小さいけれどもたくさんフルーツの乗った、白いデコレーションケーキだった。
「え?」
「内緒にしてたけど、6月24日はおれと辻ちゃんの誕生日の真ん中の日なんだよね。真ん中バースデーってやつ」
「真ん中バースデー、ですか」
聞き馴染みのない言葉をつぶやいた辻は、不思議そうな顔で細長いキャンドルの火を見つめている。
「だから、一緒にロウソク吹き消して、お祝いしよ?」
向かい合っていた犬飼が辻の隣に座る。
「せーの、」
掛け声に合わせてふうっと息を吹きかけると、小さな火はすぐに消えてしまった。
「……お願いごとした?」
「え? いえ、特になにも」
「ダメじゃん! 誕生日のロウソクはお願いごとしながら吹き消さないと!」
大げさに驚いてみせる犬飼の様子をみて、こういう時はだいたい聞いてほしくてやってるのだと辻は内心笑ってしまう。
「犬飼先輩はなにかお願いごとしたんですか?」
「うん。来年も辻ちゃんとお祝いできますようにって」
ケーキを切り分けると、普通のデザートケーキより少し大きいくらいのサイズになった。チョコレートプレートを辻の方に乗せて渡してくれる。
「なんだ、俺がお願いする必要なんか無かったじゃないですか」
せっかくのチョコレートプレートだけど、辻はフォークで半分に割って犬飼のケーキに乗せ直した。だって二人の真ん中バースデーだから。
END