小旅行 観光編 温泉街に到着すると左右に土産物や飲食店が立ち並ぶ通りが目に入る。おれ達はそば屋で早めに昼食を済ませて温泉街散策から始めることにした。
「すごい、紫陽花がたくさん咲いてますね」
ピンクに近い赤紫から濃い青まで色とりどりの紫陽花が道を彩る。
「お、足湯だって。足湯につかりながら紫陽花眺めるとか風情あるねえ」
どう?足湯入る?と言おうとしたおれの服を辻ちゃんがひっぱる。
足湯の反対側にはためく落ち着いた赤色ののぼりを指さした。
「犬飼先輩、温泉卵あります」
「キミさっきお蕎麦食べたでしょ……」
後で温泉まんじゅうくらい食べるつもりだったけど、辻ちゃんの美味しいものセンサーの方が優秀だったみたいだ。
「卵一個くらい満腹でも食べられますよ」
「まあね。いいよ、食べようか」
温泉卵を買うとのぼりと同じ色の作務衣を来たお店の人が紙皿と木のスプーンをつけてくれた。
「足湯では食べられませんので、こちらでお召し上がりくださいね~」
「わかりました」
店先のベンチに座って温泉卵を食べる。トロトロの白身は辻ちゃんの口にちゅるんと吸い込まれてしまった。
「あ、そうだ。湯巡りチケット買っていこう」
口をもぐもぐさせながら、不思議そうに目で聞いてくるのでおれは店頭のポスターを指さす。
「温泉のフリーパスみたいなやつだよ。二日間有効で、いろんな温泉入れるんだって」
辻ちゃんはこくん、と温泉卵を飲み込んで、
「なるほど」
とうなずいた。店内に戻って湯巡りチケットを二人分買うと、元の道に戻ってきた。
「今日泊まるとこも湯巡りチケットの対象施設みたいだね。外湯利用はチェックイン前でもできそうだし、行ってみようか」
「はい」
石畳風に舗装された歩道をのんびり歩けば今日予約した温泉旅館の建物が見えてくる。
黒光りする板に白い筆文字で『歓迎 ○○御一行様』って書いてあるのもレトロな感じで温泉気分を盛り上げる。
「いらっしゃいませ」
羽織を来た旅館の人に案内されてチェックインカウンターへと向かう。着物姿の女性が対応してくれた。
「予約してた犬飼です。チェックインは午後三時でお願いしてるんですけど、先に外湯利用ってできますか?」
「犬飼様、お待ちしておりました。大浴場は入浴時間内でしたらいつでもご利用可能です。貴重品以外のお荷物もお預かりさせていただければお部屋へお持ち致しますよ」
「お願いします」
おれと辻ちゃんは顔を見合わせてうなずくと、貴重品を持ち歩き用のサコッシュに移してカバンを預ってもらうことにした。
「こちらは浴衣と手ぬぐいです。只今のお召し物はこちらのビニールバックにお入れになってカウンターまでお持ちください」
旅館のマークの入った大きなビニール製の巾着袋を渡された。この中に私服を入れて預ければ他の荷物と一緒に部屋に運んでおいてくれるらしい。至れり尽くせりってこういうことなんだろうね。
「ありがとうございます」
「大浴場はあちらでございます。いってらっしゃいませ」
大浴場へ向かう途中の廊下にも紫陽花が活けてある。
「すごいところですね。俺、緊張します」
ものすごい高級旅館ってわけじゃないけど、今まで親がやってくれた旅館の人とのやり取りも全部自分でやるとなるとちょっと緊張する。
「なんか作法とか間違えてたら教えてね?」
「俺にわかる範囲なら」
藍色ののれんをくぐって脱衣場で仕度をする。辻ちゃんは温泉の効能とか書いてある看板を見ながらふんふんとうなずいている。
「なんか面白いこと書いてあった?」
「はい。塩化物泉で飲むと塩辛いらしいです」
「へえー!どっかで飲めないかな」
「あったら飲んでみたいですね」
ロッカーに鍵をかけて大浴場の引き戸をあけると、大きなガラス張りの向こうに見事な日本庭園の景色が広がっていた。
「おおー!」
「すごい……」
かけ湯をして全身洗っていると、洗い場の横に岩造り風の洗面台のようなスペースを見つけた。
泡を流して見に行くと『飲泉できます。ご自由にどうぞ』の看板と使い捨てコップが用意してあった。
「辻ちゃん、ここで飲泉できるって」
「さっそくありましたか」
竹筒から細く流れ出ている温泉をコップで汲んで飲んでみる。
「ん、しょっぱい」
「ちょっと苦い?にがりみたいな味がします」
確かに単純なぬるい塩水って感じじゃなくて少し苦味がある。
「にがりってあの豆腐作るやつ?」
「それです。前に父が土産に買ってきたことがあって、しばらくお味噌汁に入れてました」
苦手でした、と微妙な顔で語る辻ちゃんに、それはそうだろうなとおれもうなずいてしまう。辻ちゃんってあんまり苦いの得意じゃないみたいだし。
コップを使用済と書かれたゴミ箱に入れて、やっと温泉に浸かる。
「あ〜気持ちいい〜」
隣で辻ちゃんもほう、とため息をつく。
まだ午後の早い時間だから入浴客も少ない。ガラスの向こうの松やツツジの濃いピンクの花に混じってここでも紫陽花が咲いている。
湯船の中でバレないように手を重ねてみると、辻ちゃんが肩をビクッと震わせてお湯が跳ねた。
「せ、先輩!」
「ん?なに?」
おれに笑顔を返されて、辻ちゃんはそのまま首までお湯に沈んでしまう。おれ達しか居なかったらもっとくっついたりしたいところだ。
しばらくすると辻ちゃんが浮上してきた。白い肌がほんのりピンクに染まっている。
「あのっ露天風呂も行きませんか」
「うん。行ってみようか」
重ねていた手を離して立ち上がると辻ちゃんがホッとしたような顔でついてくる。太い木の取手を押して重いドアを開けると露天風呂に出る。外の爽やかな風の中を歩くと涼しい。
「犬飼先輩、鳥の声がします」
辻ちゃんが嬉しそうに木々の上の方を見上げて言った。
「なんの鳥かなあ」
「気になりますね」
浅く腰掛けて半身浴のように温泉に浸かる。木々のざわめきも心地いい。
「ずっとこうしてたいなあ」
「のぼせちゃいますよ」
「おれ、半身浴なら三時間くらい入ってられるから大丈夫」
「俺は三十分が限界です」
辻ちゃんがのぼせると悪いから、適当なところであがることにした。
湯上がりは旅館の温泉浴衣に着替える。
「あ、先輩。合わせが逆です」
「え?」
帯を締めようとしていたおれの前に立って辻ちゃんが浴衣を直してくれた。
「右手が懐に入るように重ねてください」
「そっか。ありがとう、辻ちゃん」
にこりと笑顔で答える辻ちゃんの襟元からは学校でもボーダーでも白シャツとネクタイに隠れている鎖骨がのぞいている。
急に心拍数が上がって、おれは自分の胸の高鳴りに戸惑った。
え?なんか今の辻ちゃんすごくカッコよくない
なんでドキドキしてるのかわからないまま着替えて、フロントに荷物を預ってもらう間もずっと辻ちゃんのことをチラチラ見ちゃう。糊のきいたパリッとした白い襟から見えるうなじにドキドキが止まらない。さっきは裸で一緒に温泉入っても大丈夫だったのに!
……ん?
「犬飼先輩、外湯めぐりはどこから行きますか?」
湯巡りチケットに付いてきたパンフレットを眺めている辻ちゃんはいつも以上に凛々しいし、美人だし、カッコイイ。たもとを押さえる指先まですっと伸びてきれいだ。
「おれはココがいいかな」
指さしたのは温泉街の入口近くの老舗旅館。ここは露天風呂から川沿いの景色が一望できるらしい。
「ちょっと遠くないですか?」
「途中でソフトクリーム買って、食べながら行ったらいいんじゃない?おれ、浴衣姿の辻ちゃんとゆっくり歩きたいな」
「じゃあ、そうしましょう」
辻ちゃんは貸出下駄を履いて、カラコロと歩き出す。旅館の板塀をバックに歩く辻ちゃんはそのまま観光ポスターになりそうなくらい絵になっている。
今、手をつないだら怒られるかな?
まるで初めてデートした時みたいにおれはずっとドキドキしながら隣を歩いた。
END