すえながくおしあわせに その日から、平凡なわたしの世界は華やかになった。関わってはいけないと、本当はしっていたのに。
閑散とした喫茶店。祖父が残した場所が、会社を辞めたばかりのわたしの居場所だった。営業はしていない。祖父の死と共に、店は閉めてしまっている。空気を入れ替えるのを口実に、わたしはすっかり喫茶店に入り浸っていた。
古いビルの二階。ネイルサロンと、タトゥスタジオ、カイロプラクティック店、あとは弁護士事務所や会計事務所などがはいっている。人の出入りはほとんどなく、事務所はともかく、お店の方ははっきり言って大丈夫なのかと心配してしまうほどだ。まぁ、完全予約制の隠れ家的ショップというのなら、その目的はじゅうぶんはたしているだろうけれども。
祖父の残した喫茶店に入り浸っているのは、ストレスから身体を壊し仕事を辞めて暇だからという理由のほかに、もうひとつある。このビルに出入りする理由。
「あんたはココが好きなのか?」
廃業した喫茶店に入ってきた彼は、はっきり言ってしまえば、侵入者だったが、どうせ誰も入ってこないだろうと店に鍵を掛けていなかったのはわたしのミスだ。
彼はぐるりと店を見渡した。祖父が丁寧に手入れしていた店。カップひとつにも思い入れがある。
店はもうやっていないんです、と口元まで出かかったが、彼は勝手に窓際の席に座ってしまった。黒だと思っていたスーツはよくよくみれば品のある紫色で、ボタンやポケットの形などひどく洒落たデザインだ。シャツの色は淡いラベンダー色。ネクタイはこっくりとした臙脂色。とてもよく似あっているが、ごく一般的な社会人ならばあわせようと思わない色合いだ。かと言ってファッション関連の仕事をしているようにも思えない。とても端正な顔だちをしているが、明るさとは無縁の、ほの昏い雰囲気があった。
「あんたがじいさんの孫か」
はっと顔をあげる。彼の声だった。不思議と透明な甘い声。
「孫がいると聞いたことがある。死んだのか」
初対面の相手に対する言葉としては不躾すぎるが、腹が立たなかった。彼の表情に祖父の死を悼んでいるのがわかったからかもしれない。
「……珈琲を飲みますか。素人の淹れたものでよければですが」
とはいえ、自分が言い出したことに驚いた。廃業した喫茶店で、ふたりきりで、男の人に珈琲を淹れるなんて、ごく平凡な社会人だったわたしではありえないことだ。いまのわたしは無職だけれど。
「カフェオレ」
「え」
「いつもカフェオレを頼んでいた」
「じゃあ。カフェオレで。うまくできるかはわかりませんが」
「オレがいれるよりはマシだろう」
彼はそう言うと、すこし身を乗り出して、窓から見下ろす。見えるのは殺風景な道路だけだ。なんども、なんなら先ほどまで見下ろしていたから、わたしはよくしっている。
彼と、もうひとりの彼が、車から降りるところも、わたしはずっと見ていたのだ。
カウンターに入り、祖父の三倍以上の時間をかけて、どうにかカフェオレを出す。チョコレートをふたつ添えるのが祖父の流儀だった。
「あんた、ここからオレたちを見ていたよな」
「え…、ぁ、」
しられていた。
かっと頬が熱くなる。
盗み見していたことを、知られていた。
「え、あ、……あの」
車から降りてきた彼と、目が合ったことは一度もなかったのに。けれどそれはいいわけだ。勝手に見られていて、いい気はしないだろう。
「ココが好きなのか」
「え、」
言い訳より先に彼が聞いた。ココ。ココとはいったい。
おろおろとしていると、彼が見ろというように顎をしゃくった。窓の下。もうひとりの彼が車に乗り込むところだった。目の前にいる彼は輝くような金髪だが、眼下にいる彼は闇のような黒髪の男だった。いつもほそみの洒落たスーツ。眼鏡をかけた賢そうな面立ち。ひとつ上の階の住人。入り口には佐藤弁護士事務所の看板があった。
わたしがおろおろとしているあいだに、車はなめらかに出て行ってしまった。
「あいつはいつも忙しそうだ」
「あの、」
「オレの名は乾だ。あいつがココ、九井という。オレたちは幼馴染で、オレはあいつに雇われた運転手なんだが、免停を食らっちまって、お役御免というわけだ」
「え……っと」
混乱する私がやっと言えたのは「佐藤さんではなかったんですね」という間抜けな言葉だった。
「佐藤は事務所のボスだ。しけた顔の男だぜ。六十歳くらいだったかな」
「は、ぁ」
「ココのほうが数倍仕事ができる。あんたは見る目がある」
「は……」
「あんたはココが好きなのか?」
どう返していいものか全くわからなくて、思わず俯いてしまうと、彼は、乾と名乗った彼は、「またカフェオレを飲みに来てもいいか」と言った。
それから乾さんはたびたび喫茶店を訪れた。免停を食らい、いまは事務仕事をしているのだが、まったく向かないと不愛想な顔で言う。彼が来るのは決まって九井さんが外出している時だ。帰ってくるのを見計らって、事務所に戻る。最初に訪れた日は、事務仕事を説明されだが、出来る気がしなくて勝手に出てきてしまったのだと言っていた。
「まぁ、あいつが雇い主だし、事務所にいる時くらいは戻らねぇと文句を言われる」
「仲がいいんですね」
「幼馴染だしな」
わたしが見るかぎり九井さんは、とてもクールだ。弁護士と言う仕事柄だろうか。常に洒落ているスーツを着ているが、眼鏡はいつも同じだった。丸みのある華奢なフレームの眼鏡だ。
「よく似あっていますけど、お洒落な九井さんなら、まいにち眼鏡をかえそうなのに」
「ああ、あれはオレが誕生日にプレゼントにねだられたんだ」
「ねだられた?」
「カタログを見せられて、付箋がついているやつからどれか選べって。どうせあいつに貰った給料で払うんだから、自分で買えばいいのに」
「それじゃあ意味がないですよ」
「意味?」
「プレゼントは大事にしたいじゃないですか」
ふぅん、と言って乾さんはカフェオレをひとくち飲む。乾さんはカフェオレを全部飲んでから、だいじそうにチョコレートをふたつ食べる。甘いものが好きなのだろう。
「あいつは義理堅い奴だからな」
「そうなんですか。九井さんはクールな方だと思っていました。意外です」
「身内には甘い。オレの姉にはめちゃくちゃ甘かった」
「へぇ、そうなんですね」
乾さんがわたしを見て、ほんのすこし苦い顔をする。どうやらわたしは乾さんの姉「赤音さん」にすこしだけ似ているらしい。彼女は若くして亡くなってしまい、それで乾さんはわたしにとても親切なのだ。わたしの恋に協力してくれるのだ。
「ココの写真、見るか」
「え、いいんですか」
「たいした写真じゃない」
そう言って見せてくれたのは、プライベートの写真だった。スーツではなく、部屋着なのだろうけれど、やはり洒落ている。
「あ、眼鏡のフレームは青だったんですね。お洒落なココさんっぽいなぁ。わ、こっちはココさんの素顔。はじめて見ました」
「素顔? ああ、眼鏡をはずしているって意味か」
「仕事にいらっしゃるときは、いつも眼鏡なので、新鮮です。あ、わたし、喋りすぎですかね」
「そんなことねぇだろ。もっと喋るやつはいる」
乾さんはどこかうんざりした顔をしている。わたしも前職のとき、おしゃべりなおばさんに閉口したものだった。反省しなければと思うけれど、乾さんがスマホをタップして写真を見せてくれるたびに、驚いてしまう。
「九井さんって、表情が豊かな方なんですね。ちょっと驚きました」
おそらくプライベートな場だからだろう。そしてなにより撮った相手が乾さんだからだろう。九井さんの表情はどこか穏やかだ。
「あ、これ、乾さんも映ってますね」
「あー……それはココにスマホを取られた」
いわゆる自撮りというやつだ。どこかの浜辺、おそらく海外だろうと思われる場所で、ふたりは色違いのアロハシャツを着ている。乾さんの手にあるのはコロナビールだろう。それはいいとして、九井さんがバーベキューの串を持っているのが、意外すぎる。
「なにかのパーティなんですか?」
「あー、そうそう、き……知り合いの社長が主催するパーティで、そいつは気に食わないやつなんだが、いい肉を焼いてくれるっていうから行ったんだ」
「ふふ……たのしそう」
「ココはめちゃくちゃ食う。おとな二人分はペロリだな」
「え、あんなに細身なのに?」
「高校の時がいちばん食った。大盛りラーメンとチャーハン食って、餃子を食うとかざらだった」
「太らない体質なんですね。いいなぁ。あ、乾さん、カフェオレのお代わりいれますね」
写真を見せてくれたお礼です、と言うと、乾さんは頷いた。
ゆっくりとカフェオレを淹れながら考える。
どうして親切にしてくれるんですか。亡くなった祖父が作った店を惜しんでくれるからですか。わたしが「赤音さん」に似ているからですか。あなたが。
「乾さんは好きな人がいますか?」
いろいろなことを考えていたはずなのに、カフェオレを出しながら、そんなことを口にしていた。
「わたしにすごく親切にしてくれるのは、そういうことがあるからなのかなって」
「……」
「ごめんなさい。無神経でしたね」
祖父が集めたカップはどれも違う。ひとつとして同じものはない。乾さんに淹れたカフェオレのカップは、彼の瞳の色に似た華やかなエメラルドグリーンの、お気に入りのものだ。
「あんたのじいさんもおなじカップで淹れてくれた」
「考えることは同じですね」
乾さんはひとくちくちびるを湿らせると「あんたはココのどこが好きなんだ」と聞いてきた。好きなところ。どこだろう。改まって聞かれると恥ずかしいところはある。
「最初はたまたま見ていただけなんです。暇つぶしっていうか、あの、知ってると思うんですけど、わたしいま無職で、することがなくて、それで景色を眺めていたんです」
「ああ」
「毎日見ているうちに、会話が聞こえてきて、意外と優しい人なんじゃないかなって思うようになって」
「そうだな」
「見た目から冷たい人なのかと思っていたんです。でも親身になってくれるところがあるって知って、それで。単純ですよね」
「そんなことねぇよ。ココはいい奴だ。オレも」
祖父が喫茶店を経営していたころは、いつも穏やかなジャズが流れていた。レコードは残っているけれど、わたしはそれを使うことはしなかった。だから店は無音で、どんなに小さな音でも聞き逃すことない。
「ココにはしあわせになってほしい」
閑散とした喫茶店。祖父が残した場所が、会社を辞めたばかりのわたしの居場所だった。営業はしていない。祖父の死と共に、店は閉めてしまっている。空気を入れ替えるのを口実に、わたしはすっかり喫茶店に入り浸っている。
古いビルの二階。ネイルサロンと、タトゥスタジオ、カイロプラクティック店、あとは弁護士事務所と会計事務所がなどがはいっている。人の出入りはほとんどなく、事務所はともかく、お店の方ははっきり言って大丈夫なのかと心配してしまうほどだ。まぁ、完全予約制の隠れ家的ショップというのなら、その目的はじゅうぶんはたしているだろうけれども。
祖父の残した喫茶店に入り浸っているのは、仕事を辞めて暇だからという理由のほかに、もうひとつある。このビルに出入りする理由。
「あんたが××さん?」
とうとうこの日がやってきた。
九井一が喫茶店を訪れてきた。
彼はぐるりと店を見渡した。祖父が丁寧に手入れしていた店。カップひとつにも思い入れがある。そしてあらかじめ決めていたかのように、窓際の席に腰を掛けた。乾さんがいつも座る席だ。首を伸ばして、窓から下を覗き込む。
「へぇ。意外と見晴らしがいいもんだな」
「あの……どうして店に?」
乾さんはまだ免停期間中だ。当然ながらその間は運転ができず、事務仕事をしているのだと言っていた。だから別々に行動しているのだと言っていた。
「イヌピーは来ないよ。今日は別の仕事」
「そう……ですか」
乾さんはこのひとにイヌピーを呼ばれている。知っている。ずっと見ていたのだ。乾さんがいつも座る、いまは九井さんが座っているその席から、わたしはずっと見ていたし、聞いていたのだ。
「今日は、なにを」
「うん。きみに仕事を紹介してあげようと思って」
しごと、と繰り返したわたしに、九井さんは「安心して。まっとうな仕事だよ」と言って両手をあげる。まるで降参のポーズだが、武器を持っていませんのポーズにも見える。
「ほんとうは泡に沈めてやろうかと思ったけど、イヌピーが悲しむからね」
「あなたは」
「うん」
「わたしのことが嫌いなんですね」
「そりゃあ、そうだろう。イヌピーとふたりきりなんて、うらやましすぎて、腹が煮えくりかえるかと思ったよ」
九井さんはつめたい目のままに言う。わたしは知っていた。九井さんが弁護士なんかじゃないことを。ほんとうは反社会組織に属していることを。祖父から聞いていた。「こちらから何もしなければいい人だよ。けして首を突っ込んではいけないよ」と口酸っぱく言われていたのに。
「わたしは、」
九井さんが眼鏡をはずした。乾さんが誕生日にプレゼントしたという眼鏡。丸くて華奢な青いフレームは九井さんにとてもよく似あっている。誰もが彼に見惚れるだろう。すてきな人だ。けれどその本性は猜疑心が強く嫉妬深い。計算高く支配欲が強い。
蛇のような目ににらまれ、足が震えて、すくみあがる。
「わたしは赤音さんに似ていますか」
「似ていない」
すぐさま否定の言葉が投げかけられる。ナイフのような切れ味だった。もし言葉に力があるとしたら、わたしは死んでいただろう。
「面影がないとは言わない。けれど赤音さんに似ていない」
「……そうですか」
震えながらわたしは、正直な人なのだな、と思った。「赤音さん」に対して真摯でありたいという九井さんの思いなのかもしれない。
「わたしは乾さんが好きです」
ころされてもいいとおもった。
「つめたいけれど、ほんとうはやさしいひとなんだとおもって、それで、わたしは乾さんを好きになったんです。だから、気づいたんです。乾さんはあなたのことがすきなんだって」
懐に手を入れようとしていた九井さんの手が止まる。
「乾さんがあなたを見る目は特別なんです。わたしにも親切にしてくれたけど、それはわたしが「赤音さん」に似ているから。だからわたしに協力した。あなたに幸せになってほしいから。すべてあなたのためなんです。そんなあの人にわたしは恋をしたんです」
九井一はぽかんとした顔をしていた。
なんだ。
なんだよ。
そんな顔もできるんだ。
ああ、そうか。
これが乾さんの好きな「ココ」なんだ。
「ココはいい奴だ」は納得できないけれど、「義理堅く、身内に甘い」は分かったような気がする。
わたしが次に見た時は 九井さんはお馴染みの眼鏡をかけていた。丸い華奢な青いフレームを弄るのは、もしかしたら照れ隠しなんだろうか。
「……あんた、見る目あるじゃん」
さすが幼馴染だ。同じようなことを乾さんも言ってくれた。
「オレもイヌピーにはしあわせになってほしいといつも思っているよ」
わたしが最後に聞いた九井さんの声は、やさしくてあまい声だった。
九井さんの残していった書類、私の再就職先はどれも誰もが羨むようなホワイト企業だった。きっとわたしは面接に受かるだろう。ありがたく書類を受け取ることにした。
この店は取り壊しが決まっている。誰の差し金でもない。祖父の死から一年だけ待つという約束だった。喫茶店にある愛着のあるものも、スペースの都合ですべてを譲り受けることはできなかった。お気に入りのいくつかだけと決めていたが、エメラルドグリーンのカップは譲ることにした。ついでにいくつかひきとってもらった。見も知らぬ誰かに譲るくらいなら、九井さんのほうがまだマシだ。
わたしは荷物をまとめ、最後にあたまをさげて、喫茶店を出た。
帰りにケーキ屋さんに寄って一ダースほどケーキを買う予定だ。ついでにシャンパンを買って、生ハムを買おう。唐揚げや焼き鳥もいいかもしれない。恋敵が置いていった金などパーッと使ってしまおう。
さようなら、わたしの恋。わたしは社会人になって、きっとあなたたちに会うことはできなくなるけれど、どうかしあわせになってほしい。あなたが九井さんのしあわせを願ったように、わたしもあなたにしあわせになってほしい。九井さんは正直どうでもいいけど、あなたがえらんだひとだから、きっといいひとなんだろう。
「どうか、すえながくおしあわせに」