俺の彼氏はアイドル!?乾青宗21歳。
高校を卒業後に実家を出て、東京の外れでひっそりと生活する極普通の青年である。
車やバイクの修理、解体等を取り扱う工場に就職して安月給で細々と暮らす。
その生活ぶりは質素なもので、家賃の安い風呂なしのボロアパートで好きな物に囲まれて小さな幸せを噛み締め今日も生きている。
朝6時に携帯電話の目覚ましアラームで起床。
会社と実家ぐらいしか登録先も無ければ使う予定も無いので、時代の流れに反してガラケーである。
コインランドリーで洗濯して部屋の隅っこに放置の服の中から適当なシャツを選び、いつも履いてるGパンに足を通す。
賞味期限が近く特売だった安いボソボソの食パンと、安いというだけで購入している低脂肪牛乳を口にする。
別に美味しいとか不味いなんてものはどうでも良い。
食に興味も無いからと機械的に口に運ぶだけだ。
冷たい水で顔を洗い歯を磨くと、鏡を見て寝癖だらけの伸ばしっぱなしの髪に冴えない顔の自分に溜息を吐く。
玄関に置いてあるニット帽と眼鏡。それからバイクと部屋の鍵を手にすると外に出た。
鍵を掛けて歩きながら適当にニット帽を被り、黒縁の地味な眼鏡を掛ける。
この2つが無いと青宗は外に出られ無い。
他人とは話すのも触れるのも苦手だった。愛想笑いも出来なければ社交辞令も言えない。
他人からの視線だって煩わしくて、怖くて好きでは無い。
それなのに彼の容姿は少し目立つ。
昔は親の反対を受けながらも地毛を黒く染めて居たが、それもひとり暮らしでは金が続かないと伸ばし放題になった金髪。
猫背の身長も平均よりやや高い。瞳は緑がかった青で、肌の色も不健康なせい、というよりも生まれつき白かった。
全体的に日本人離れした顔立ちや体型は、この国ではどうしたって目立ってしまう。
それから昔自宅が燃えてしまった時に逃げる際、顔に負った火傷の痕が残っている。
それが余計に他人からじろじろと好機の視線を集めてしまうのだ。
見ると気の毒そうな顔をされたり、珍しがられたりする。
子供の頃なんかは容赦なくゾンビだの、汚れてるだのと揶揄われたものだ。
元来の性格が大人しく、静かを好む方である青宗は火事を堺に増々内に篭もるようになってしまった。
他人からの視線も、言葉も全部が煩わしくて堪らなかった。
褒め言葉も貶す言葉も青宗に取っては同じで、誰にも構われたくないし誰にも自分という存在を認識されたくなかった。
親ですら、干渉される事に耐えられなくなって高校の卒業式の日に青宗は元いた街を捨てて来た。
とはいえ、未成年である事から家を借りるのも就職するにも保証人というものが必要だとそこで初めて知った。
それから渋々実家に頭を下げ、迷惑を掛けない、警察沙汰になるような事はしないのを条件に今の生活を手に入れた。
バイクや車が好きで、高校もその関係の所に通っていたお陰で就職は割りとスムーズにいった。
但し安月給。贅沢は出来ない。
青宗は物欲も殆ど無かった。欲しいバイクはあれど、どうしても手に入れたいかと言われれば我慢出来る程度。
今は走れば良いという程度の中古の古いバイクに乗っている。
服だってひとり暮らしを始める際に必要最低限揃えたものを今でも使い続けているから、襟は寄れて色褪せた物ばかり。
下着のゴムも随分伸びて来たがまだ履けるし、とそのままだ。
出来る限り地味に目立たないように生きられれば良かった。
週5日、月曜〜金曜までのルーティンを熟すだけの日々。
土日はひたすら家に篭って眠り続けている。
何の生産性も無い、ただ寿命待つだけの生活だった。
そんな青宗の平凡で地味な生活に少しだけ変化が訪れた。
他人からしたら、些細な変化ではあるが青宗からしたらそれは大きなものだった。
自分がまさか、そんなものを好むようになるなんて夢にも思わなかった。
仕事に向かうまでの僅かな通勤時間、昼休み、就業後帰り道から自宅までイヤホンをして音楽を聞いている。
何を聞いているのか、といえば青宗の見た目からは想像もつかないものだ。
意外にもウォークマンから流れている曲は、流行りの男性アイドルの楽曲ばかりだった。
そのグループの名を聞けば若者から老人、幼児さえも知っているという程日本国内では有名なアイドルのものだ。
アイドルらしくポップで明るく聞きやすい楽曲を無表情で聞き続ける青宗。
家に帰っても隣に漏れないくらいの音量でその楽曲をひたすら聞き、そのアイドルの番組を録画する為に何とテレビやブルーレイまで購入している。
6畳1間のボロアパートで明らかに浮いてるピカピカのテレビとブルーレイレコーダー。
パソコンやウォークマンを購入したのは買ったCDやダウンロードした音楽を編集し持ち歩く為。
狭苦しい部屋に本棚が増えたのも、彼らが載っている雑誌を収納するからだ。
暗い人生といえる程地味で何も無い生き方をしていた青宗には2年前から、夢中になれるものが出来た。
それが国民的男性アイドルグループ「卍龍(まんじどらごん)」である。
中でも青宗が特に好きなのは、九井一というメンバーだ。
ファンからの愛称はココ。キュート系やカッコイイ系等様々なタイプのメンバーが居る卍龍の中でクール系を担当している。
主にドラマや舞台等、演技の仕事が多いココは偏差値が高く有名な大学の現役学生でもあった。
ツーブロックの黒い髪に切れ長な目元が印象的なイケメンだ。
見た目もスペックも青宗とは正反対な彼にどうしてこんなにのめり込む事になったのか。
それはひとり暮らしを始めて数ヶ月の事だった。
実家を出て一人だけの生活を手に入れたものの、その生活ぶりは貧しく質素なものだった。
就職仕立てで慣れない仕事も、人間関係にも随分と疲れ切っていた。
そんな時に中古で購入して冷蔵庫が故障してしまい、電気屋に見てもらっても買った方が安いと言われてしまった。
渋々仕方無しに大手家電量販店へと足を向けた日の事だ。
テレビ売り場を通り抜けた時に、何とは無しにぼんやりとそれに目を向けた。
画面には卍龍の面々が出演していた歌番組映っていた。
歌の前のトークコーナーで一人一人がエピソードを話している中、端の方に座る黒髪の男が目に入った。
アイドルらしく誰も彼もキラキラと輝いていて、自分とはまるで縁が無いなと思っていた。
他人からチヤホヤされる仕事を好んでするなんて青宗からしたら信じられ無いものだった。
そんな時に、九井一が出演するドラマの宣伝が始まった。
普段はセンターに立つ方では無いが、出演するドラマの主題歌という事もあり九井一のソロから始まると紹介され流れるイントロ。
カメラに視線を向けて歌が始まる。
透明感のある、高い声。それは不思議と青宗の耳に心地よく入り込んでいった。
今まで歌なんて、ましてやアイドルなんて気にも止めなかったのに。
どうしてなのか、青宗はそれに魅入った。
気付けば曲は終わり、涼しい顔をしながらも激しいダンスに肩で息をするアイドル達の姿。
歌声が、踊る姿が青宗の耳に目に焼きついたみたいだった。
その日の夜、家に帰ってテレビを見ていたらちょうど九井一の主演のドラマがやっていた。
それを何となく見始めた。その筈だったのに気付けば九井一扮する若手弁護士の挫折や奮闘する姿を夢中になって見てしまった。
そんな自分になんでこんなもの、と否定しようと思ったが流れてくる主題歌の声を聞き入っていた。
そこからはもう早かった。次の日に仕事終わりにレコード店に寄って生まれて始めてCDを買った。それも男性アイドルの物を。
野暮ったい自分のような男が買うなんて、店員に気持ち悪いと思われるんじゃないかと不安になり金を支払い商品を受け取ると走り去った。
勢いで買って来てしまったそれを家に帰ってから何故か正座で開封してしまった。
実家から持って来た古いCDコンポにセットして再生すると、気付けばすっかり夜も深くなっていた。
時間も忘れて同じ曲を何度もリピートして聞いてしまった。
それぐらいその曲が良いと思った。特に九井一の優しい歌声の部分になるとスピーカーに耳を近づけてしまう程。
例のドラマだって毎週欠かさず見た。
本屋で彼らが表紙の本を何冊も買い漁った。
レコード店で過去の楽曲全てを買い、ライブのブルーレイディスクも店員に勧められ購入した。
その足で家電量販店に行きテレビもブルーレイレコーダーも買ったし、新しいCDコンポも買っていた。
ずっと安月給ながら貯めていた貯金まで降ろしていた。
気付けばファンクラブに入会までしていた。
今までこんな風に何かに夢中になる事なんて無かった。
それも人へ興味を持つなんて、自分でも不思議てならなかった。
3ヶ月経つ頃には青宗は立派なオタクになっていた。
国民的男性アイドルグループ卍龍の九井一推しである。
何かに向ける事の無かった情熱が、ここへ来て解放されてしまったのだ。
その勢いは留まることを知らないかのように、青宗の何も無かった生活を変えていった。
朝起きて仕事に行き、帰宅してから安い発泡酒で晩酌をし眠る程度しか娯楽と呼べるものが無かった生活だったのに。
今は帰宅してからCDを再生しながら家事をし、夜は溜まった卍龍関連の録画を見る。
パソコンも購入した事によって、ネットで情報を集めたり動画を見る作業も増えた。
前なら1日が過ぎるのを安物の布団に包まってじっと待つだけの夜だったのに。
今では時間が足りないくらいだった。
あんなに休みの日は外に出るのを嫌っていたのに。SNSで九井が訪れたとの情報を見つけるとその場所に訪れてみたり、ドラマの撮影地に行ってみたり。
所謂推し活というものを青宗なりにひっそり楽しんだ。
だからと言って本人の性質が変わるものでも無い。
相変わらず他人との接触は好まないから、卍龍ファンの集会や九井一のファンのコミニティ等の活動には手を出さなかった。
そもそもファンの殆どが女性を占めている。そこへ青宗のような男が入れる筈も無い。
ただ只管に卍龍や九井の情報を青宗なりにチェックし、CDを買い出演作を見て…と本当に地味なファンのソロ活動だった。
そうやって楽しみが見つかった事で青宗は生きる事が少し楽しくなった。
単調な仕事だって、推し活の為の資金を稼ぐ為だと思うとやる気が出て来た。
そんな生活を続ける事、2年。
青宗は飽きる事無く卍龍九井一のファンを続けていた。
2年の間、自分なりに推し活をして来たつもりであったがどうしても出来ない事が一つだけあった。
最推しである九井一は、ドラマや映画に舞台と演技の仕事を中心に活躍している。
勿論青宗はそれの一つ一つを細かくチェックして、ドラマはリアタイ視聴、録画、ブルーレイBOXの購入。
映画は公開初日に観に行き、公開期間も何回も足を運び、ブルーレイも勿論買う。
しかし、舞台。それだけはどうしても現場に行く事が出来なかった。
女性だらけの人の多い場所に自分のような男か居たら不審者丸出しだろう。
どこの席になるかも解らないから、映画館のように端っこでひっそりととは行かない。
だから舞台だけは未だ生で見る事が出来ないでいる。
コンサートも同様に未参加ではあるが、卍龍はそれぞれのメンバーがソロ活動が忙しく1年に1回コンサートがある程度だ。
しかし舞台は公演期間もそれなりにある。九井のSNSにもその時は舞台の話題が中心となる。
様々な衣装に身を包んで共演者と写った写真も凄く良い。格好良い。何を着ても似合うし、九井が演じるあの役を生で見てみたい…
そう思うのだがやはり現場に行くのはハードルが高過ぎた。
それが青宗の目下の悩みでもある。
仕事中も手を動かしながらチラリ時計を見てみれば、正に今は九井の舞台の昼公演真っ最中だなと思う。
有給消化してくれと上司からこの間言われた程溜まっているから休みは十分に取れるというのに。
肝心の自分が現場に行けないなんてどうしようもない。
修理依頼の来ていた車の窓を磨き上げながら、そこに映る自分を見る。
伸び放題の金髪は適当に縛られていて毛玉だらけとニット帽にフレームの厚い牛乳瓶の底のような眼鏡。
あまりにも冴えない自分の姿に自分でも引いてしまう。
こんな男が女性客だらけの劇場に行ったらどうなる。
自分の隣の席になってしまった女性が気の毒でならない。
職場でも陰で根暗とか毛玉眼鏡とか変なあだ名をつけられているような男だ。
そんな奴が人のたくさん居る場所に行って良いわけがない。
諦めよう、今回もブルーレイが発売されるまでの辛抱だ。予約は特典目当てに二口してあるし。
そう割り切ろうと思っていたが、青宗はその夜パソコンの前で頭を抱える事になる。
(限定ブロマイドにココのソロ曲CD付きのパンフレット会場限定版だと…!?)
九井のオフィシャルSNSに今公演が行われている舞台が好評につき、追加公演が決定したと発表された。
しかも会場でしか手に入らない限定ブロマイドやCDまで発売される。
今回は数量限定、通販は無しとなっている。
青宗は苦悶の表情を浮かべ唸った。欲しい。凄く欲しい。めちゃくちゃ欲しい。
ココの絶対格好良いブロマイドに、スペシャルインタビュー付きのパンフレット、そしてあの綺麗な声の入ったCD。
でも購入出来るのはチケットを持っている入場者のみ…なんてこんな歯痒い事は無い。
どうしよう、絶対手に入れたい。とりあえずチケットだけはどうにか取ろう。
それで最悪物販だけ済ませて帰れば良いのでは無いか。
しかし、扉1枚通れば生のココの演技が見れるのだ。舞台で輝く本物のココの姿が。
それを見ずに帰れるものか…!確なる上は、公演までに出来るだけ身奇麗になって迷惑に思われない程度にならなければ。
服は清潔な物を通販で買うとして、問題は髪だ。
髪は自分ではどうしようも無い。床屋に行くしか無いのか…素顔を晒し髪を他人に切られるというのは青宗に取っては相当ハードルが高い。
だがこんな生活感の無い男が行けるわけが無い。あの選ばし者たちが集う劇場に…。
散々に悩んだ結果、青宗は意を決してネットから床屋ではなく美容室を予約した。
ネットで調べてみたら、必要最低限の会話しかしなくて良いという選択を出来る美容室があったのだ。
客もその時間帯に1人ずつしか取らない為、他人からの視線に脅える回数も少なく済む。
問題はそこに行くまでの交通手段だ。バイクでは止める場所に困る。
そんな贅沢普段は出来ないがタクシーを使うしか無いのか。無口な運転手をお願いするしよう。
予約してしまえばもうやるしかない。そうやって自分を追い込んで行かないと行動出来ないくらいには青宗は人との触れ合いが苦手だった。
数日後、通販で頼んでいた服が届く。
何を着たら良いかなんて解らないから、卍龍のメンバーで男として格好と思っているドラケンがモデルを勤めているブランドの物を購入した。
九井の事はアイドルとしても役者としても全てが好きでファンではあるが、ああいう男になりたいなと青宗が憧れるのはドラケンであった。
ドラケンこと、龍宮寺堅は長身にバランスの良い筋肉質な体。男らしい顔つきでモデルやタレントとして活躍している。
そのドラケンが長年モデルをしているブランドの服は、青宗が普段絶対選ぶ事の無い柄物のニットにダボッとしたシルエットのパンツ。
それからニット帽の代わりに黒いキャップを選んだ。
組み合わせなどまるで解らないからほぼマネキン買いだ。
それに袖を通してみたものの、やはり服に着られてる感は否めなかった。
だが普段着ている色褪せた服でお洒落な美容室には行けない。
一緒に買った黒のシンプルなエンジニアブーツを履くと、頼んで置いたタクシーに乗った。
運転手は要望通り寡黙で余計な事は言わずに目的地まで連れていってくれた。
お洒落な若者たちが行き交う通りに面したガラス張りの美容室なのかと恐る恐る行ってみたが、そこは大通りから1本入った静かな通りにひっそりとあった。
ビルの2階、日当たりは良いが外を通る人との目線が合わないのは有難かった。
予約の時に会話はしないで欲しいに○をしていた通り、男性の美容師が淡々と髪をカットしてくれた。
他人に触られるのは苦手だったが、美容師が頭を洗ってくれるのは寝落ちしそうになるほど気持ち良かった。
伸ばしやすいように毛先を揃えて貰い、進められるがままにトリートメントやヘアオイルも購入してしまった。
美容師が遠慮がちに眼鏡を変えるだけでもかなり印象が変わると助言してくれたから、そのまま眼鏡屋にも行ってみた。
店員が押しが強くて怖かった。目が悪い訳でも無いのに2つも買わされてしまった。
肝心の舞台のチケットの方も何公演か申し込んだうちの2公演が当選していた。
2公演も行けるのだろうか…と不安に思ったが、2回も生で九井が見れる上に購入制限のあるグッズも2公演分買えるのだと思うと嬉しかった。
そんな風に準備を進めていたら、あっという間に九井主演舞台を見に行く日になってしまった。
仕事に行く時は物凄く体が重い寝起きも今日はサッと起きれた。
前日に用意していた服に着替え、身支度を済ませてからまた同じ運転手を頼みタクシーに乗った。
ここ数日で大分貯金が減ったが今までそんなに使い道も無かったのだし、偶には良いだろう。
こんな事、この先そうそうないのだから。
都内の劇場に開演の30分前に到着した。早めに着くとファン達がたくさん居そうで怖かったからだ。
そのままキャップに眼鏡、マスクのやっぱり不審者な雰囲気を残しつつも物販で目的の物を購入出来て内心はしゃぎ回りたいくらい嬉しい。
それを堪えてチケットに表記されている番号の座席に座った。
隣は落ち着いた雰囲気の中年の女性で少しホッとした。
公演が終わった後、青宗は劇場内のトイレの個室に篭っていた。
トイレットペーパーをからからと回し、鼻をかんだあと止まらない涙も拭う。
公演は良かった。物凄く良かった。生のココはテレビで見るよりも身長が高くて、顔が小さくて、声もよく通って…最高だった。
内容も悲恋モノで、ラストの恋人の幸せを願い身を引くココの演技にとても引き込まれ感情移入しまくり涙が止まらなかった。
客席のあちこちでもすすり泣く音が聞こえていた。
公演が終わってからも余韻を引き摺り涙が止まらず、こんな汚い顔の男なんてみんなドン引きだろうとトイレに入った。
舞台の上のココを思い出しては涙が溢れてくる。
なんて綺麗な人間なんだろう、と思った。
自分のような男とは何もかもが違う、素晴らしい人だ。
勇気を出して来てみて良かった。帰りもタクシーを呼んで帰ろう。
何とか涙を堪えるとトイレから出てみれば、会場内はもう客たちが出た後だった。
青宗も早く出なければ、と焦って歩き回った結果…迷ってしまった。
初めて来た広い会場内。入って来た方向はどこなのか方向感覚が狂ってしまい右往左往する。
どうしよう、このままこんな所に居たら本物の不審者と思われてつまみ出されてしまう。
そして要注意人物としてブラックリストに載ってしまい、もう今後2度九井の舞台を観に行けなくなってしまうかもしれない。
そんな妄想までして余計に焦ってしまい、アワアワとしながらもとにかく目につく階段を降りた。
来たときこんな階段上っただろうか、と思ったが構わず降りた。
それから人気の無い廊下を走り抜け、非常口のライトが見えて来る。
あのドアはきっと外に繋がっているに違いない。とにかく外に出てしまえば良いのだ。
そう思っていると、背後から人の足音や話し声がする。
これは不味い。きっと関係者だ。見つかったら九井のファンとしての人生が終わる。
運動神経だけは昔から良い青宗は、思い切り全力で走り抜けてドアに辿り着くと勢いよく外に飛び出した。
そのまま数歩勢い余って進んでしまう。
「来た!?」
「ココ!」
「は?誰、ココじゃないじゃん」
何故かドアの外には数十人の女性の集団が左右2列に並んでこちらを見ていた。
しかも青宗の方へ注目しているではないか。
うわっ、と思わずキャップを深く被り俯いて早歩きの女性の集団を抜けた。
女性たちも直ぐに青宗に興味を無くしたようでこちらを見て居ない。
ホッとしたのも束の間。青宗は手にしていた袋の中から先程物販の特典で貰ったミニポスターが消えている事に気付く。
まさか落としたのか、とキョロキョロするも見当たらない。
ドアの所に引っかかったのだろうか、と振り向いた所で再びドアが空き女性達が突然悲鳴を上げたから驚いてしまう。
ドアの方にミニポスターが落ちていないか確認したいのに、騒いでいる女性達の勢い押されて近付く事が出来ない。
もうこれは諦めるしか無いか…いや、でもあれはグッズ購入者限定の非売品だ。諦められない。
そう思って意を決して女性達の頭上からどうにかドアの方を覗き見ようとした。
「キャア〜ココ!」
「ココくん今日の舞台も良かった!」
「ココ格好良い〜!」
何なのかわからないがココの名前を呼びながら興奮した女性達の身振り手振りに青宗は突き飛ばされ、オマケに眼鏡までふっ飛ばされる。
完全なる敗北である。そのまま地面に膝をついて転んでしまった。
痛い、痛いけどそれより恥ずかしい。何でこんな目に遭うんだ…やっぱり外は怖い…そう思いながら打ちひしがれる青宗。
「ちょっとみんな、道開けて」
決して大声では無いのに、よく通る声がその場の喧騒を遮った。
途端に静まり返る女性たち。一体何が起きたのだろうか。
よくわからないが、とにかくここを早く立ち去ろうと地面に転がる眼鏡を拾おうとした時だった。
「大丈夫ですか?」
誰かに肩を叩かれてえ、と思わず振り向いた。
キャップ越しに覗きこまれているようで陰が出来る。
親切な誰かが自分に声を掛けてくれたのだろうか。
出来れば放っておいて欲しいな、と思いながら顔を上げた青宗は驚きに目を見開く。
「こ、ココ…」
青宗の事を心配そうに見つめてくる人物。
それはつい数十分前まで舞台に立っていた男だった。
見間違える筈が無い、どっからどう見てもアイドルの九井一が青宗の肩に触れこちらを至近距離から見つめているのだ。
「あの、怪我は無いですか?これあなたのですよね」
信じられない状況に言葉を失っている青宗へ落ちている眼鏡を拾い上げるとそれを差し出してくる。
「ぁ、ぇ…」
蚊の泣くような小さな声しか出なかった。
何故か焦って眼鏡を引っ手繰るように取ると慌ててそれを掛けようとした。
だが焦るあまり手元は狂い被っていたキャップのツバに手がぶつかり、それもふっ飛ばしてしまう。
九井の目前にあろう事か、青宗はその素顔を思い切り晒してしまった。
その瞬間、九井が何か驚いたような顔でこちらを見つめて来る。
自分のこんな顔なんて見てきっと不快にしてしまったのだと思った青宗は眼鏡を掛けると、キャップを拾い上げた。
「あ、ちょっと…!」
九井が制止するような声をあげていた気がするがもう青宗はそれどころでは無かった。
とにかく今すぐここから消えてしまいたい。
じゃないともう、気絶してしまいそうなくらい限界だった。
勢いよく起き上がるとそのままそこから逃げるように走り去った。
どうやら迷った青宗は関係者が出入りする地下駐車場のドアから出てしまったらしい。
しかも九井の出待ちするファンと鉢合わせまでしてしまった。
その上、すっ転びあの九井にこの顔を晒してしまうなんて…
もう誰彼構わず掴まえて飛び乗ったタクシーの中で、顔を覆って項垂れる。
(でも、至近距離の生のココも凄く格好良かった…)
落ち込んでいるのに、ちゃっかり近くで見たココの整った顔立ちや、ふわりと香った香水の匂いを思い出している青宗であった。
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