君へのノート　乾が九井と離別してから一カ月が経つ。ひとりきりのアジトは味気ないが、だいぶ慣れてきた。慣れなければいけない。だが、飯を食うにも億劫で、ソファーでぼんやりとしていた時、ふと気がついた。なんだか朝と配置が違っていないだろうか。しげしげと眺めてみて、わかった。服の畳み方が違う。これは九井のやり方だ。
　離別したが、九井はアジトの鍵を置いていかなかった。鍵はふたつ。乾と九井がそれぞれ持っている。そう考えると、九井が来たと考えるのが妥当だろう。
　九井の携帯の番号もアドレスも知っている。けれど連絡をとることに、ためらいがあった。なんとなく怖気づいてしまいそうだ。
　
「……そうだ」

　乾は棚の中をひっくり返し、目的のものを見つけた。ノートとボールペンだ。イヌピーもいちおう学生なんだから、勉強しろよと九井に渡されたが、けっきょく使わなかったものだ。
　すこし考えて、表紙に『ココへ』と大きく記した。



『ココへ。
　これを読んでくれているかわからないけど、面と向かっていうのはてれくさいから、ノートに書くことにした。
　いつもありがとう。かんしゃしている。オレはおまえにたすけられっぱなしだった。たぶんいまも助けてもらっているんだろう。家ちんとか払ってねぇし。
　今はムリだけど、ちゃんと働いて、おまえにおんがえしできたらいいなと思っている』

　返事はなかった。当然だ。
　けれど乾は毎日ノートを書き続けた。日記も書いたことなかった乾だ。三日以上同じことを続けているなんて知ったら九井は驚くかもしれない。

『ココへ
　今日は晴れだ。天気がいいからバイクで走っていたら、顔見知りの警察に見つかった。ココはどうしているのか聞かれた。知らねぇと言ったら、コーヒーをおごってくれた』

『ココへ
　パーちんにそうじきをもらった。パーちんの親はフドーサンヤなんだって。もったいねぇことをするやつもいるもんだな』

『ココへ
　オレのことを「レオさま」とよぶ肉やのおばさんにコロッケをおまけしてもらった。レオナルドなんとかというやつに似ているんだって。知っているか、ココ』

『ココへ
　やべぇ、しくじった。しばらくここに来れない』（血痕）




　乾がアジトに戻るのは一週間ぶりだった。バイクで転んだだけなのだが、花垣に見つかったせいで大騒動になってしまった。だいたいアイツは騒ぎすぎる。病院だ、なんだと大騒ぎして、松野やドラケン、三ツ谷を呼び出し、最終的に未成年に見えないだろうとドラケンの無免許運転で病院に担ぎ込まれる騒ぎになってしまった。ちなみにドラケンはバレなかった。
　切り傷と打撲だけだったが、熱を出してしまったこともあり、八戒の家に泊らせてもらい、三ツ谷の世話になってしまった。
　八戒も三ツ谷もいい奴だが、他人の家は落ち着かない。八戒だけならともかく、芝の家には柚葉もいる。変な噂をたてられて迷惑をかけるわけにもいかないと強引にアジトに戻ってきた。
　一週間ぶりのアジトを満喫していたが、あのノートが見当たらないことに気づいた。
　保険証を取りに来たついでに書いたのだが、外に無免許のドラケンを待たせていたこともあって慌てていたので、いつもの場所じゃないところにおいてしまったのだろうか。
　きょろきょろと見渡しているうちに、ノートを発見した。
　表紙に血がついている。やばい。中身も汚してしまっただろうか。
　ページがめくれることにほっとしていたが、はっと気づいた。ページが折れている。九井が来たのだろうか。他に鍵を持っている奴はいない。

『ココへ　
　病院に行っていた。たいしたことなかった。心配かけてごめんな』

　ココはいつアジトに来てくれているんだろう。乾が顔を合せにくいと思っているように、九井にもためらいがあるのだろうか。そっとページを閉じた。



『ココへ
　冷蔵庫に肉が入っていたんだけど、おまえか？　ありがとう。おいしかった』

『ココへ
　警察のおっさんに会った。おまえのことさがしてるって。危ないことしてんじゃないだろうな。心配だ』

『ココへ
　近所にネコがいる。ココって名付けた。なまえをよぶと、来てくれる。かわいい』（ネコのイラスト）　　

『ココへ
　肉やのおばさんがレオナルドのでてくる映画をかしてくれた。にてねぇとおもうんだけど。つーかこれ、レオナルド死んでねぇか？』

『ココへ
　花垣がゲーセンに誘ってくれた。プリクラというのをとった。へんなかおしてるな、オレ』（プリクラ）

『ココへ
　ワカクンに会った！！　ベンケイクンとジムをやってるんだって、かっこいい！！　こんど連れて行ってもらえる！！』

『ココへ
　しょうてんがいのちゅうせんでコメをもらった。すいはんきもねぇのに』

『ココへ
　すいはんき、とどいた！　アンケートのプレゼントってなんだ？　オレは答えてねぇぞ。おまえのしわざか？』

『ココ
　たすけて』

『ココ』

『ココへ
　ネコのココが死んだ。松野に頼んで、病院に行ったけど、無理だった』

『ココへ
　ドラケンがツーリングに誘ってくれた。いいやつだな』

『ココへ
　久しぶりにおっさんからおまえの噂を聞いた。あぶないことしてんの？　心配なんだけど』

『ココへ
　遠くからおまえの姿を見た。やつれたんじゃねぇの？　メシ食ってる？　おまえは忙しくなると、うどんしか食わなくなるから、心配だな』

『ココへ
　うどん、食いに来いよ。いまならエビの天ぷらつけてやるから』

『ココへ
　関東卍會がヤベェって噂に聞いた。だいじょうぶか？　おまえだけでも逃げてこれないのか？』

『ココへ
　関東卍會、つぶれちまったんだな。おまえはどこにいるんだ？』

『ココへ
　おっさんがおまえを探している。黒龍の時によくオレたちに話しかけてきた、さいとうってやつだ。おまえなら覚えてるだろ。あのおっさんならおまえを助けてくれるんじゃないか』

『ココ
　オレはおまえを待っている。ずっと待ってる。何年でも待っているから』



　乾はノートを手に取った。これは３冊目のノートだ。我ながらよく続いたものだ。でももう終わりだった。最後に読み返してみようとパラパラとページをめくる。たいていは他愛のないことの羅列だった。ときどき文字が崩れているのは、さみしかった時だろう。
　九井が見てくれているかもしれないと思ってつけていたノートだが、見られていなくてよかったとも思う。
　最後のページになって、乾は目をまるくした。

『イヌピーへ
　返事をしていなかったけれど、ずっとこのノートを見ていた。イヌピーが毎日すごしているのを見ているだけで、じゅうぶんだった。
　猫が死んだとき、オレが傍にいてやりたかった。ゲーセンだってツーリングだってオレが行ってやりたかった。
　でもオレはおまえを巻き込みたくなかった。ただそれだけだった。
　へまなんてしないつもりだったけど、世の中うまく行かないもんだな。でも捕まることが決まって、ちょっとほっとしている。
　オレはずっと犯罪を犯していた。その罪を償わなければならない。
　でも、もしおまえが待っていてくれるなら、その時は』

　九井の文はそこで切れていた。
　バカな奴だな。オレがどうしておまえを待っていないと思うんだ。

「イヌピー」

　振り返ると髪をさっぱりと切り落とした九井が立っている。髪だけではない。表情もすっきりとしていて、おだやかですらある。ココ、と名を呼んで、身体を寄せる。香水もなにもつけていない九井からは、懐かしい匂いがした。ココの匂いだ。

「おっさんが最後に会っていけっていうからさ」
「さいとうさんって言ってやれよ」
「やだね。昭和が移る」
　
　九井はべっと舌を出す。

「マイキーや三途に脅されて金を作っていたことにするから、イヌピーも話しを合わせてくれよ」
「いいのかよ」
「あっちだってオレのせいにするだろ。おたがいさま」

　あいかわらずだなぁ。乾は笑う。九井が覚えている顔は笑っているほうがいい。乾は笑う。

「いってこい」
「おー。すぐにもどってくる」
「待ってる」

　何年だって待っている。おまえが戻ってくる日まで。