悪魔とメリークリスマス「住み込みのハウスキーパーを探している?」
「そうなんだよ。イヌピー。オマエ、バイト辞めて金ないって言ってただろ。どうかな」
乾青宗が居酒屋のバイトを首になったのは、三か月前ほどのことである。酔っ払いが女の子に絡んでいたので、止めたところから喧嘩になった。女の子からはたいそう感謝されたのだが、乾が止めた相手は常連客であった。殴ってしまった手前、店長は乾を首にせざるを得なかったのだ。
仲間に紹介された単発の仕事で糊口を凌いでいたが、そろそろ次のバイトを探さなければと愚痴を言っていたところだった。
龍宮寺はそれを覚えていてくれたらしい。仕事を紹介してくれるのはありがたいが、ハウスキーパーというのは意外すぎる。そもそも仕事にするほど乾は家事ができない。
「マイキーの知り合いのIT企業の社長なんだけど、なんでもハウスキーパーが失踪したらしくてさ」
「失踪?」
「それも一回じゃない。病院に入院したり、身投げしたハウスキーパーもいたらしい。たまたまなんだろうけど、こうも続くと噂になって、ハウスキーパー業界のブラックリストに乗ったんだと」
そんな映画見たいな話があるのか。目を丸くした乾に龍宮寺は続けて言った。
「だから、派遣会社に頼れなくて誰かいないかって、マイキーに声をかけられたんだ」
「オレは家事なんかできねぇぞ」
「年末だろ。買い物に行く暇もないくらい忙しいらしくてさ。ゴミ捨てとか、最低限のことさえしてくれればいいってさ。曰く付きだから、肝の据わったやつがいいって言われてイヌピーのことを思い出したんだ。報酬ははずむって言うし、悪い話じゃないだろ」
「金が貰えるのはありがたいけど、変なやつじゃないだろうな」
龍宮寺は闊達に笑う。
「ちょっと神経質そうな印象はあったけど、ふつうのやつだったぜ。まえに千冬が一回だけバイトに行ったんだけど、ちゃんと戻って来たしな」
残念ながら千冬はペットショップのアルバイトが忙しくなってしまったので、ハウスキーパーのバイトは断っているとのことだった。
「それくらいならいいけど……」
ハウスキーパーという仕事に不安を覚えなくはないが、金に困っていることも事実だ。すこし考えたが、乾はバイトを引き受けることにした。
乾の雇い主は九井一という名の男だった。ITで大成功を収めた社長であるらしい。少し調べただけで、すぐに「新鋭企業のイケメン社長」として名前が出てきた。その一方できな臭い噂も出てきたが、乾がいままで働いてきたいくつかのバイト先だって相当あやしい経営だった。どこだってそういう部分はあるだろう。
前に一度だけ九井のところにバイトに行ったことのある千冬に話を聞いてみたが、「忙しい人みたいで、仕事部屋に籠っていてほとんど出てこなかったっス」とのことだ。リビングの掃除と買い物をしたくらいで、わりのいいバイトだったと教えてくれた。
「ただちょっと気味の悪い人だったって言うか……」
千冬にしては直截な物言いである。
「仕事がかなり忙しくて何徹もしてたみたいで、目の下にクマが浮かんでたからかもしれないっスけど」
「なるほど……」
「オレが仕事を断ったのは、ペットショップのバイトが忙しくなったからなんですけど」
千冬は少し声を潜めた。
「こう言うと悪口みたいになっちまうんですけど、マイキーくんのトモダチってなんかみんな薄気味悪くねぇっスか?三途とか、灰谷兄弟とか」
「オレはそいつらのことはよく知らねぇけど……」
マイキーこと佐野万次郎は龍宮寺を通して何度かあったことはあるので、なんとなく千冬の言いたいことはわかる。万次郎自身も、よく言えば雰囲気があるのだが、陰鬱なオーラを纏っている。話せばふつうに世間話もできるのだが、近寄りがたく、危険な匂いがする。なるほど九井一もそういう感じなのだろう。乾は気合を入れてバイトに行くことにした。
指定された場所は閑静な住宅街にあった。いかにも富裕層が住んでいそうな土地の一角にある一軒家だ。派手でもなく、簡素でもない。使い勝手のよさそうな立派な一軒家だった。
千冬が仕事を請け負ったのは一年前。そのときはマンションだったが、それから引っ越したらしい。いかにもファミリー向けの物件だ。もしかしたらこれから家族を迎えることを考えて一軒家にしたのかもしれない。なるほど一軒家でひとり暮らしならば、ハウスキーパーが必要だろう。雇われた理由はわかったが、一軒家まるまるのハウスキーピングが乾に務まるのだろうか。やや気後れしながら、乾はインターフォンを押した。名前を名乗ると、「ああ、ドラケンから紹介があった人か」と声があった。龍宮寺を綽名で呼ぶくらいには、親しい相手らしいことに、すこしほっとする。ドアが開錠される音があって、白の長髪にマカオカラーのシャツを着た、やせぎすの男が現れた。
「ええと、イヌピーだっけ? マイキーからも話を聞いているよ」
「ああ、乾青宗だ」
九井のことは写真で見ていたが、それよりずっと不健康そうな男だった。顔色も悪く、目の下にはくっきりとクマがある。端正な顔立ちであるのに、陰鬱な印象の方が強く残った。じゅうぶんに寝ていなさそうだし、メシも食ってもいなさそうだ。思わず心配になる。
「オマエ……寝たほうがいいぞ」
「は?」
「飯は食ってんのか? 栄養補助飲料とかじゃねぇぞ。あったかいもんちゃんと食ってるか?」
九井は驚いた顔をして、そして唇をゆがめた。たぶん笑ったのだろうが、笑うことに慣れていないような印象を受けた。
「食べてるよ」
「それはいつの話だよ。今日は食ったんだろうな?」
「えぇと」
「それは食ってねぇっていうんだよ。おい、冷蔵庫になんか入ってんだろうな?まさかカラってことはないよな?」
九井はなんどか目をまたたかせ、乾をじっと見た。
「おい、冷蔵庫はどこだよ」
「え、あー、こっちだよ」
九井に案内されるまま、室内に入る。ハウスキーパーを呼ぶ必要があるのかと不思議なほど、どの部屋も整えられていたが、まるでモデルハウスのようだという印象を受ける。人が住んでいる気配が極端にないのだ。案内されたキッチンも美しく、最新の機材が備え付けられていたが。
「冷蔵庫になにも入ってないじゃないか」
「あー……」
バツの悪そうな九井の顔を見て、ようやく我に返る。九井は仕事で忙しく、買い物をする暇もない。だから乾が呼ばれたのだ。
「九井さんはなにが好きなんだ」
「え?」
「あんたの好きそうなものを作るよ。と言っても、簡単なものしか作れねぇけど」
九井からの回答がないので、乾は「うどん、スパゲティ、チャーハン、炒め物はできる」と指折り数えた。九井は不思議そうな顔をしたが、やがて「うどん」と呟いた。
「そうか。うどんは消化にいいからな。いいと思うぜ」
うどんなら乾にも作れそうだ。なにせ出汁の素と冷凍うどんという強い味方がいる。とりあえず冷蔵庫のものを満たしてやると鼻息を荒くする乾を、九井は呆気にとられた顔で見ていたが、やがて笑い出した。
「はは……イヌピー、やる気があるね」
「ぜってーオマエを太らせてやる」
「それは楽しみだ」
九井はくすくすと笑って、思い出したように顔をあげた。
「マイキーやドラケンに話を聞いていたから、イヌピーって呼んじゃってるけど、いい?」
「いいぜ。オレもオマエのことはココって呼ぶ」
「は? なんだって?」
「九井さんは呼びにくい。ココでいいだろ」
呆気にとられた顔をしていた九井がふきだした。
「ふっ、はは、あはははは、ココ、ココか、いいよ、うん、九井じゃ呼びにくいよな。うん、イヌピーが好きなように呼んでいいよ」
九井は上機嫌に笑い、乾に財布を渡した。なにが入っているのかわからないが、ずしりと重い。金でも入っているのか?
乾が呆然としていると、九井は「たりなかった?あ、カードを渡せばいいか」と更に乾にカードを渡そうとする。
「いや、一万もあれば足りるだろ」
「え?そんなはした金でいいの?」
はした金という言葉を生れて初めて聞いた。乾はまじまじと九井を見た。
「ココ、おまえ、金持ちなんだな」
「そうだよ」
てらいなく肯定された。なるほど九井一は金を持っている男だった。
乾が住み込みのハウスキーパーの仕事をはじめて、一週間が経過した。そもそもどの部屋もきれいに片付いているので、簡単な掃除をすればよく、不得手な乾でも十分だった。食事を作ってやれば、九井はなんでも美味い美味いと言って食う。意外にもよく食べる男だったので、痩せているのは体質のようだ。今まではデリバリーに頼り切っていたらしいが、いまは半分くらいは乾が作っている。しょっぱい味噌汁でも焦げたチャーハンでも文句を言わない。神経質な奴だと聞いていたが、あまりにもあっけなさ過ぎて、肩透かしを食らっているくらいだ。
ただし九井が不気味だと言われる理由はわかって来た。なにかと不思議なことが起こるのだ。
例えば夜中に猫の鳴き声がする。誰もいない部屋なのになにかが動く音がする。誰かに覗かれているような気がする。置いておいたはずのスリッパが消えている。
事故物件かなんかなのか……?
普段の乾はオカルトを信じていないが、あまりにも不思議なことが多すぎる。キッチンで昼飯を作ろうとしているところなのだが、誰もいないはずなのに、誰かの気配を感じるし、声を聴いたような気がする。気のせいで済ませるにはあまりにもリアルだった。
相手が見えるならば喧嘩をふっかけているところなのだが、見えないのでどうしようもない。なるほど失踪者が出るというのは、このオカルト現象のせいなのかもしれない。
「どうかした?」
「っ、ココか」
乾の雇い主である九井がキッチンの入り口に立っていた。九井はやたらと気配が薄い。気がついたら背後にいたことは何度となくあった。自分でもその自覚があるのか「驚かせてゴメン」と謝ってくれたのが、逆に申し訳なくなる。
「仕事が一区切りついたから、息抜きにイヌピーを手伝おうと思ったんだけど」
「雇い主に手伝われたら、意味ないんだけど」
「気分転換だよ」
九井は今日は在宅勤務なので、言い分にも一理あるように思える。今日の昼飯はなに、と聞かれたので、親子丼と答えた。やった、と無邪気な顔をされて、気が抜ける。たいしたものを作っていないのに、よろこびすぎだ。
「それよりなにかあった?なにか足りないものでもある?」
「いや、ないけど」
九井は真剣に乾を案じてくれているように思う。思い切って言ってみることにした。
「あー……気のせいかもしれないんだけど、なんか誰かの気配を感じる時があるって言うか。この家、事故物件か何かなのか?」
九井が目を丸くした。
「悪い。そんなことを急に言われても困るよな」
「あー、そういうことか」
「え?」
「ちょっと待って。黙らせるから」
黙らせる?いったいなんのことだ?
ぽかんとする乾の前で、九井がぱちんと指を鳴らした。その瞬間に、空気が震えた。震えたような気がした。
「これでしばらくはだいじょうぶだと思う。また同じようなことがあったら教えて」
「え、なに?ココはお祓い師か何かなのか」
「クク……まぁ、そんなようなものかな」
たしかに気配はなくなったような気がする。暗示かもしれないが。絶句している乾を九井が覗き込んでくる。
「イヌピー、オレのこと恐いと思った?」
「ココは……」
「うん」
「いくら食わせても太らないということがわかった。痩せの大食いなんだな」
「はは、燃費が悪いとはよく言われる。昼飯も大盛にしてくれよ」
ぺろりと舌を出された。
顔色の悪さや目つきの鋭さから、とっつきにくいところのある雇い主ではあるが、よくよくつきあってみればユーモアもある。なにより金払いもいい。まだしばらくバイトを辞めるつもりはなかった。
九井一の正体は悪魔である。
九井のボスである万次郎が人間界に来るというので、しかたなく仲間と一緒についてきた。なんの気まぐれか、万次郎は人間界に居座っているため、九井らも暮らす羽目になった。「無敵のマイキー」の異名を持つ万次郎は傍に付き添う必要はない。好きにしろ。と言い切ったため、そうそうに九井は暇になった。気まぐれに起業してみたところ、面白いほど金が儲かる。悪魔である九井は金に興味はなかったが、身を崩す人間を見るのは楽しかった。なにせ悪魔なので。
ハウスキーパーを頼んだのは、特に意味はない。九井がその気になれば、家の掃除など一瞬で済ませてしまう。悪魔の家に出入りする人間がどうなるのか。ただそれだけのために雇った。彼らはおもしろいほど九井に怯えてくれた。精神を保つことができず、失踪する者が後を絶たない。もっともこれには九井のせいだけでなく、灰谷兄弟らがちょっかいをかけてくるからでもあった。
そんな折に現れたのが乾青宗だった。
九井はハウスキーパーを頼んでいたことなどすっかり忘れていたが、快く引き入れた。どうせすぐに逃げ出すと思ったのだ。
予想に反して、乾は顔色の悪い乾を親身になって世話してくれる。九井の顔色が悪いのも、陰鬱な雰囲気も、目の下のクマも、生来のもので、栄養を取ったところで治るものではない。むしろ悪魔としてはそちらのほうが普通なのだ。
はやくて三日、もって一週間、一か月後には精神に異常をきたし失踪ルートかと思っていたが、乾はまったく平然と九井の家の掃除をしている。ちなみに乾のハウスキーピング能力はほぼ皆無なのだが、それに関してはまったく必要性を感じていないのでどうでもいいことだ。
乾が特別に鈍感なのかと思いきや、灰谷の気配や三途の目などに気づいていたことが判明した。「事故物件なのか」と言われて、ついつい笑ってしまった。それ以来、乾に構うのが面白くてしょうがない。先日は「オレ、悪魔なんだよね」と告白したところ、「へぇ」とまったく信じていない答えが返ってきた。
「なんで人間界に来たんだ」
「マイキーについてきたんだ。オレの他に明司や鶴蝶や望月、灰谷兄弟、三途なんかもそうだぜ」
正体をばらしたことがわかれば、九井とてただでは済まない。覚悟のうえで言ったのだが、乾は「へぇ、通りでみんな顔色が悪いと思ったぜ」というだけだった。あの無敵のマイキーを「顔色が悪い」で済ませる人間がいるとは思っていなかった。もっとも万次郎が懇意にしている龍宮寺などもやたらおおらかな人物であるらしい。花垣武道なども万次郎を異質だと思いながらもを受け入れているそうだ。九井が知らないだけで、他にもいるのかもしれない。人間界にも面白いやつがいるものだ。万次郎が人間界に住み着いている理由がなんとなく分かってきた。
「なぁ、クリスマスの飾りつけをしてもいいか」
朝食を撮っているときのことだった。乾から提案してくることは珍しい。なんでも叶えてやりたいと思う程度には乾を気に入っている九井だが、さすがに驚きを隠せなかった。
「最初はなんか理由があるのかと思ったんだよな。仏教徒とか。でも違うみたいだし」
「まぁね」
なにしろ九井は悪魔なので、宗教とは全く無縁である。無縁というより、逆の存在である。
そわそわとした様子の乾に、なんとなくピンときた。
「イヌピー、もしかしてクリスマスが好きなの?」
クリスチャンではないことは確認済みだ。別に乾が敬虔なクリスチャンであろうと九井にはどうでもいいことだが、言動の端々から特定の宗教を信仰している様子はなかった。お正月を迎え、七夕を祝い、ハロウィンを楽しむ。ごく一般的な日本人の宗教観である。ゆえに、クリスマスをイベントの一環として捕らえ、楽しみにしているのではないかと予測したのだ。九井の予想は正しく、乾はこくりと頷いた。
「イヌピーの言うクリスマスって、ケーキを食って、チキンを食って、プレゼントの交換をするってことかな?」
「他になにがあるんだよ」
「ミサに参加するとか言われたら、どうしようかと思った」
「なんだそれ」
乾はミサさえも知らなかった。九井は楽しくなってしまう。九井は「神」に対してなんら思うところはないが、それでもまったく信仰していない人物を見ると、おまえらの威光などそんなものだぞと笑ってしまいたくなる。
「クリスマスの用意をしていなかったのは、特に意味はないよ。家族もいないし、飾り付けてもしょうがないかなと思っただけ。でも今年はイヌピーがいるんだから、飾り付けをすればよかったな」
「百均で揃えて来てもいいか?」
「えぇ、せっかくならちゃんとしたクリスマスツリーを飾ろうぜ」
九井はどんどん楽しくなってきた。悪魔の家にクリスマスツリを飾る。なんて背徳的なんだろう。
「仕事もメールさえ送ってしまえばいいし、今日は買い物に行こう。ケーキもチキンも買わなきゃな」
「……いいのかよ」
「途中で一時間解散して、お互いのプレゼントを買おうぜ」
ばちんとウィンクすれば、乾もまた楽しそうに笑ったが、すぐにはっとした顔になった。
「悪魔がクリスマスを祝ってよかったのか?」
あまりに乾が真剣な顔をする者だから、思わず吹き出してしまった。こんなに笑ったのは生れてはじめてのことかもしれない。
「あはははは、イヌピー、オレの言ったことを信じてくれたの?」
「……嘘だったのかよ」
「いや、オレが悪魔なのは本当。まさか信じてくれるとは思わなかったから」
「雇用主の言うことは聞いておくもんだろ」
なるほど九井が悪魔であることを信じているわけではないが、雇用主の言うことは聞いておこうというのが乾のスタンスか。人間を引き裂いて血を啜ったら、信じてくれるのか。それともいっそ魔界にでも連れていけばいいのか。九井は楽しみはさいごまで取っておくタイプである。
「神を祝うのは不快だけど、イヌピーと楽しく過ごすのはぜんぜんだいじょうぶ」
「どういう意味だ」
「つまりイヌピーとケーキを食べたりプレゼント交換をしたいってことだよ」
「よくわかんねーけど、いいってことだな」
こんなにたのしみなクリスマスは初めてだ。九井はすこぶる上機嫌だった。
九井一の正体は悪魔である。神を讃える讃美歌はほんの少し不快であるが、それよりも乾と買い物をして歩くのは楽しかった。クリスマスツリーにシャンパン。チキン。なにせ思いついたのが当日なので、間に合わせではあるが、じゅうぶんに楽しめそうだ。
プレゼントも買ったし、そろそろケーキでも買いに行こうかという時に事件は起こった。
「悪魔め……!」
牧師姿の男だった。クリスマス衣装なのかと思ったが、本物だったのか。たしかにちょっとした力を持っていそうな気もするが、しょせんたいしたことがないので気づかなかった。
「こんなところにまで紛れ込んでいるのか!」
男は鞄の中から聖水を取り出そうとしている。あまりにも手際が悪いので、すべて砕いてやった。男は破裂した瓶を見て、ぎょっとした顔をする。武器になるのはそのくらいしか持ち合わせていなかったのだろう。真っ青になって九井を睨みつけている。
九井はぺろりと舌なめずりをした。男はびくりと体を揺らす。顔をあげた時には、目の焦点が合っていなかった。
「あくま、あくまがいる」
呂律も廻っていなかった。近くにいた女が悲鳴を上げた。
報告を受けたのか、警備員が駆けつけてきて、男を拘束する。あっという間のことだった。十分も経過していなかっただろう。
「……ココ」
一部始終を九井の隣で見ていた乾が不審そうな顔をする。
「酔っ払いだったのかな?」
にこりと笑って見せると、乾は溜息をついた。
「まぁいいけどさ」
「いいんだ」
「ココとさっきのやつとどっちが信頼できるかって言ったら、ココだろ」
悪魔と牧師。
乾は九井を信じるというのだ。ああ、なんて素敵なクリスマスだろう。いまだったら讃美歌だって口ずさんでやる。
「イヌピー、クリスマスがこんなに楽しいなんて知らなかったよ」
「そりゃよかった」
「メリークリスマス、イヌピー」
悪魔が聖夜を祝う。背徳的で素敵なことを、教えてくれてありがとう。
「ココ、クリスマスはまだ始まったばっかりだぞ」
まだクリスマスツリーを飾っていないし、ご馳走も食べていないし、プレゼント交換もしていない。そうつぶやいた乾に九井は提案した。
「イヌピー、ハウスキーパーを辞めて、オレの恋人にならない?」
乾は目を丸くして、しばらくして「考えておく」と言った。これは脈ありと思っていいだろう。幸先のいいスタートだ。これぞハッピークリスマスだ。これだから人間っておもしろい。いや、乾が面白いというべきだろう。生れてから数百年と経つが、これほどうれしい思いをしたのは初めてだ。人間界に来てよかったな。悪魔が人間相手に幸せを感じるなんておかしすぎて、九井は腹を抱えて笑ってしまった。