だれもむくわれない「九井、オマエの価値なんて金だけなんだよ」
どうやらオレは金儲けの機関であって、人間ではないらしい。わざわざ言われなくたって、知っていたことだ。
「このゴミ、どっかに片付けとけよ」
オレが「金儲けの機関」なら、オレのサンダルの下で血まみれになって呻いて路地裏に転がっているのは「ゴミ」だった。「ハイッ」と直立不動の部下たちが声を張り上げて返事をするので、「うるせぇ」と返すと、途端に静まり返る。どうやら「ゴミ」がオレの地雷を踏んだと恐れているらしいが、単純に不快なだけだ。オレは自分のことをよく分かっている。
「ココ」
そんなオレに話しかけてきたのは、ついさっきまで行方知れずだったイヌピーだった。
「サンダルが壊れてる」
「あ?」
「ストラップのところ、千切れている」
不快だと思った理由のひとつが解明して、すとんと肩から力が抜けた。
「安物だけど、我慢しろ」
イヌピーが寄越してきたのは、量産店の袋だった。姿が見えないと思っていたら、買い物に行っていたのか。
えぇ、グッチじゃないのかよ、とぼやいても、イヌピーは反応しない。イヌピーがわかるのはバイクのメーカーくらいだが、オレが言ったのがさすがにブランドショップなのはわかっただろう。
「こんな時間に開いてねぇよ」
「オレの名を出せば、店長がとんできて店を開けるぜ」
「店長の電話番号しらねーし」
しっていてもかける気はないくせに。オレの軽口をイヌピーはかるくいなす。
「イヌピー、履かせて」
イヌピーに袋を手渡すと、あっさりと受け取った。視界の端で部下たちが「ゴミ」をひきずっていく。「ゴミ」が見えなくなったところで、だいぶ留飲は下がったのに代わり、オレの前に膝まづくイヌピーを見ているうちに倒錯的な感情がこみあげてきた。イヌピーがオレにサンダルを履かせる。うやうやしくとは言い難いが、イヌピーなりに丁寧にやっていることがわかる。
できたぞ、とオレに声をかけてくるイヌピーは、褒めてほしいわけでもなさそうだった。あたりまえだ。イヌピーはオレの部下じゃない。オレの幼馴染で、かつては友達だった。いまも友達のはずだ。
「イヌピーはオレのこと好きなの?」
なのに口が滑った。
イヌピーは虚を突かれた顔をしていた。
誤魔化す前に、イヌピーが口を開く。
「好きだな」
「えっ、好きなの?」
「まぁな」
意外ではなかった。聞いたことがなかったのは、気まずくなりたくなかったからだ。そうか。イヌピーはオレのことが好きなんだ。ふぅん。やっぱりね。
「じゃあ、セックスでもする?」
「いや、しねぇ」
「えっ、しないの?」
路地裏に声が響いたことをイヌピーは咎めるように睨んできた。いや、だって、そうだろ。好きだったらセックスしたいもんじゃないのか。
「ココは、したくねぇだろ」
「え」
「女にさわられんの、嫌いなんだろ」
そういえばイヌピーにそんなことを言った覚えがある。他愛のない愚痴のつもりだったが、おぼえていたのか。
「べたべたされんのは嫌いだけど、セックスは嫌いじゃない」
「ふぅん」
イヌピーはさして興味なさそうに呟いて、それからちょっと考えるしぐさを見せた。おれとのセックスを想像したのだろうか。ちょっとこみあげてくるものがあった。きっとオレはイヌピーに誘われたら拒まなかった。
「うまくできそうにないから、セックスはしねぇ」
「え、あ、それでいいのかよ」
「ココがきもちよくならねぇと、意味ねぇだろ」
「入れたらなんだって気持ちいいだろ」
「そりゃそうか。でもやらねぇ」
きっぱりとそう言って、イヌピーはちょっと笑った。子供の頃に見せていた悪ガキっぽい顔だ。いまになっては堂に入りすぎているが、オレには分かった。
「でもホテルには行こうぜ。腹が減った」
「それ、ぜんぶオレに払わせるつもりだろ」
「まぁな」
イヌピーがオレの肩を叩く。友達なら当たり前だとでもいうように。
ラブホじゃないホテルに行って、さんざんルームサービスを頼んで、たらふく飯を食うと、イヌピーはソファーにごろりと横になった。ベッドに行かないのかよと言っても、まともに答えてくれない。だからついでに聞いてみた。
「なぁ、ほんとうにセックスしねぇの?」
これじゃあオレがヤリモクみたいだ。イヌピーが薄く目を開く。
「しねぇ。オレじゃあココを満足させてやれねぇからな」
「セックスなんて出すだけだろ」
「そうだな」
イヌピーが面倒くさそうに返すのは、腹がいっぱいになって眠いからだろう。
「ココがオレのことを好きになるまではしねぇ」
「……なんだよそれ」
「すきだからセックスすんだろ」
「……それはふつうのやつにとってはだろ」
オレはふつうじゃない。オレは金儲けの機関で、人間じゃない。女はあてがわれるもので、取引の材料だ。セックスだってそうだ。きもちなんて二の次、三の次で、すべては金に換算される。
「ちがうよ、ココ。セックスは好きなやつとするんだ」
オレが呆気に取られているあいだにイヌピーは目を閉じてしまった。こうなるとイヌピーが眠るのはあっという間だ。オレが引き留める間もなく、くーかーと暢気な寝息が聞こえてくる。マジかよ。ホテルでオレに一人寝させるつもりなのかよ。
だがイヌピーは眠っている。こうなると起きないことをオレはよく知っている。
しかたなくサンダルを脱ごうとして、イヌピーが買って来てくれたことを思い出した。オレじゃ選ばないようながっちりとしたデザインだった。ためいきをつく。
「セックスは好きなやつとか」
あかねさんみたいなことをいうんだな。
オレはちょっとだけわらって、イヌピーの頬をつついた。じんわりと胸の中があったかいことに気がつかないふりをする。だってオレがイヌピーのことを好きだなんて、誰もむくわれないだろ。