①その日は夏油の任務に灰原が同行しており、体術訓練の授業は五条と二人きりだった。
五条と二人きりになることは珍しいことではなかった。呪術高専に入学した直後から唯一の同級生である灰原は一つ上の先輩である夏油に懐き、上級生とペアを組んで訓練や任務に同行する際は自然と夏油・灰原、五条・七海のペアになることが決まっていた。ただでさえ特殊な学校故に人数が極端に少ない呪術高専である。二年生で紅一点の家入は前線には向かわないため、五条と二人きりになる機会は今まで何度もあった。しかし、この日の五条は様子がおかしかった。そわそわと落ち着かず、七海と目を合わせようとしない。普段なら小学生のような悪態をつきながら七海に絡んでくるのに休憩中もずっと無言だった。そのくせちらちらと七海の方へ視線を向けてくるのだから正直気味が悪い。いつも一緒に悪ふざけする夏油がいないので調子が出ないのだろうか。いや、今までだって夏油がいないことはあったが、変わらず七海にうざ絡みをしていたではないか。では、具合でも悪いのだろうか。しかし、手合わせをしていた際、いつもと変わらない様子で七海を投げ飛ばしていた五条の具合が実は悪かったなんて思いたくなかった。
「七海」
「はい?」
沈黙を破ったのは五条の方だった。視線を向ければサングラス越しに五条と目が合う。目が合った瞬間、続けて何か言いかけた五条の口がきゅっと閉じた。それから、あー、とか、うー、とか言葉にならない声を上げる五条にあまり気が長い方ではないの七海はいい加減焦れてきた。
「言いたいことがあるならはっきり言ってください」
相変わらず弱っちいな。そんなんじゃすぐ死ぬぞ。オマエと二人じゃつまんねー。傑と灰原早く帰ってこねーかな。アイス食いたいから買ってこい。予想していたのはこんなところだった。しかし、五条の口から出たのは、そのどれでもなかった。
「…………好きなんだけど」
すき。好き。好き?
主語のない言葉に、七海は首を傾げることしかできなかった。
五条の好きなものなんて甘いものしか思い浮かばない。
「はぁ、なにがですか?」
「なにが、じゃなくて、オマエが!」
「は?」
そこで、サングラスの隙間から見える五条の目元が赤く染まっていることに気づく。じっと己を見つめる五条に信じられない気持ちのまま固まっていると、反応のない七海に焦れた五条がさらに続けた。
「だから!オマエのことが好きなんだけど!」
「罰ゲームかなにかですか?」
「はあ?!んなわけねーだろ!」
ふざけんな!と顔を真っ赤にして否定する五条に、しかし七海は信じられない。
あの五条悟が七海を好き?寝耳に水である。五条には今までさんざん絡まれ、揶揄われ、おちょくられてきた。小学校低学年男子がするようなくだらない悪戯をされたことや、心無い暴言を吐かれたことは何度もあったが、どれも好きな相手にするようなことではない。そもそも自分は男だ。夏油とグラビアアイドルの話や好みのAVの話をしていた五条が、どこからどうみても男である七海のことを好きだなんてとてもじゃないが信じられなかった。
また夏油とくだらない賭けでもしているのかと思った。しかし、罰ゲームなら面白がって今のこの様子をどこかでこっそり見ていてもおかしくないが、夏油は灰原と任務中だ。罰ゲームではないらしい。五条の独断なら、なおのことタチが悪い。七海はむっと眉間に皺を寄せた。
「……私をからかうのはそんなに楽しいですか」
「からかってねーよ!」
「ふざけないでください」
「ふざけてねーし!」
「絶対に騙されませんから」
「あーもう!」
ーーーちゅ。
押し問答の直後、五条の顔が近付いて唇が触れたのは一瞬だった。それがキスだと気づくのにしばらくかかってしまったのは、七海に今までキスの経験がなかったからだ。はじめてのキスに幻想を抱いていたわけではないが、こんな形になってしまうなんてあんまりだった。
「なっ……にするんですか?!いきなりキスするなんて最悪だ!」
七海が何をしたって言うんだ。今までさんざんからかわれてきて、見下すようなひどいこともたくさん言われてきたが、どうして五条がそこまで七海を嫌うのかわからない。嫌がらせにしたって酷すぎる。ごしごしと手で唇を擦るが、いくらやっても五条が触れた唇の感触が消えてくれなくて、それがまた惨めで涙が滲む。
耐え切れず目尻からポロリとこぼれた涙を見て慌てたのは五条の方だった。
「だ、だから、おれ、オマエのことが好きで…ッ」
「嘘つかないでください!」
「〜〜〜っ、なんで信じてくれねーんだよ!」
「だって…」
信じられるわけがない。相手は五条だ。あの五条悟だ。呪術界を束ねる御三家のうちのひとつである五条家の次期当主であり、無下限と六眼を併せ持つ最強の男。見た目だって誰よりも美しく、難なく世界のすべてを手に入れることができる五条が、七海のような凡人を好きになるはずがないのだ。
言い淀む七海に五条は顔を歪めると、苛立ちをそのまま表すように舌を打った。
「もういい。オマエのことなんか好きじゃねーよ!ばーーーーか!」
呪いのような言葉を吐くと、五条は術式を使って七海の前から消えてしまう。一人残された七海は未だ消えないキスの感触に顔を赤くしたまま、その場からしばらく動くことができなかった。
「悟の機嫌が最悪なんだけど、心当たりある?」
夕食を終えて部屋に戻ろうとしたところで、任務から戻ってきた夏油と鉢合わせしたのはたまたまだった。高専の門を潜った途端、待ち構えていた五条に当たり散らされ、さんざんな目にあったらしい。
七海にわざわざ聞いてくるのだ。五条の機嫌が悪い原因が七海だということは分かって聞いてきているだろう。人の良い笑みを浮かべながら、その実何を考えているのかわからない夏油を七海は精一杯睨みつけた。
「夏油さんの差し金ですか?」
「何のこと?」
「今日の五条さんの奇行のことです」
「奇行って」
「今までの悪ふざけとは質が違います。最悪ですよ」
「悟にとっては悪ふざけじゃないからねえ」
あれが悪ふざけじゃなかったらなんなんだ。
あれから七海は五条と顔を合わせていない。しかし、明日以降も合同訓練はあるし、五条と二人で任務に出ることだってある。五条とこのままの状態で過ごすわけにはいかないことは分かっているが、七海から謝るつもりは毛頭なかった。
キスをされたときのことを思い出し、ふつふつと怒りが沸いてくる。
「……夏油さんまで私をからかうんですか」
「私が可愛い後輩をからかうわけないじゃないか」
「五条さんよりタチが悪いですね」
この嘘つきめ。七海と同じ非術師の家庭で育った夏油は、箱入りで育ったわがまま坊ちゃんである五条よりは常識はあるものの、なんだかんだで五条の親友をやっている男である。五条と夏油、そして家入の三人がかりで灰原と二人揃ってからかわれた経験は一度や二度ではない。
夏油は悪びれた様子もなくけらけらと笑ったあと、その表情を緩めて言った。
「悟になんて言われた?」
「……好き、だと」
あの五条悟が、七海に向かって好きだと言ったのだ。未だ信じられない言葉は、改めて口に出して言ってみても現実味がない。
しかし、夏油はそれがまるで当たり前のことであるかのように頷いた。
「そう。悟はね、七海のことが好きなんだよ」
「そ、んなの、ありえません」
「どうして?」
「だって…あの人、いつも私のことからかってばかりで」
差し入れだ、と五条に渡されたコーラの缶のプルタブを開けた瞬間、中身が噴射して顔面にかかったこと。お気に入りのパン屋で買ったパンを奪われて食べられたこと。風呂に入っている間に着替えを五条の服とすり替えられたこと。入学してから五条にされたことはいくらだって思い出せる。どれも胸糞悪い思い出ばかりで、七海は顔をしかめた。
「情緒が小学生男子のままなんだ。好きな子にかまって欲しくていじわるしちゃう男子、七海の小学校にはいなかった?」
「いました。…その女の子には嫌われてましたけど」
「はは。でも、七海は違うだろ?」
「え?」
「私は、七海も悟のこと好きなんだと思ってたけど」
「な、なんで……ッ」
夏油の言葉に一気に顔が熱くなる。なんで、どうして。誰にも、同級生である灰原にだって打ち明けたことがない想いだった。
いつから、と聞かれたら、たぶんはじめから、と答える。不安を抱えたまま呪術高専の門をくぐって、先輩だと名乗る五条と対面したあの時に、七海の心は囚われてしまった。
日本人離れした白銀の髪に、サングラス越しに見えた空よりも蒼い瞳のコントラストに目を惹かれて、心臓が大きく高鳴った瞬間を七海は一生忘れることはできないだろう。黙っていれば彫刻のような美しさを持つのに口を開けばただの悪ガキで、儚げな幻想は一気に崩れ去ったが七海の胸の内に芽生えた恋心はなくならなかった。
「なんとなく?だから悟を焚き付けたんだけど。あ、悟は七海の気持ちに気づいてないから安心して」
「…………私の気持ちに気づいたから、からかってるんだと思ってました」
自らを最強だと自負するだけあるその強さに惹かれて、時折見せる屈託のない笑顔に見惚れた。七海はからかわれてばかりいたが、実は情に厚く仲間想いのところがあることも知っている。
ずっと好きだった。だからこそ分かる。五条が七海のことをただの後輩としか見ていないことなんて。彼の特別は目の前の夏油と同じ同級生である家入だけだ。後輩である七海と灰原のことは道端に生えている草花ぐらいにしか思っていない。
好きだ、と告白された瞬間は、嬉しくてたまらなかった。天にも昇る気持ちとはこのことだと思った。しかし、浮ついた気持ちはすぐになりを潜めた。今までの態度を思い返せば、五条が七海を好きだなんて到底信じられるものではなかった。七海の気持ちに気づいて、面白がってからかっているのだと考える方が妥当で、よっぽど納得できた。だから、五条が怒って七海にキスまでするなんて思わなかった。
「悟もそこまで性格悪くないよ」
ま、これは日頃の行いが悪かった悟のせいだね。苦笑いしながら続ける夏油に、七海はなにも言い返せず黙り込んだ。
しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐いた夏油が口を開いた。
「七海。悟はふざけてあんなこと言ったわけじゃないよ。だからもう一度ちゃんと考えてやってくれないか?」
考えるもなにも五条と付き合うなんて七海には想像もつかないことだった。だって相手はあの五条だ。五条悟が一介の呪術師である七海のことを好きになる理由が思い当たらない。それに、五条はあの五条家の次期当主である。
「……あの人、良いところのお坊ちゃんじゃないですか。家柄もない私みたいなのと付き合うなんて家の方が許さないんじゃないですか」
「確かに悟はお坊ちゃんだけど、別に今すぐ結婚するわけじゃないんだから。もっと気楽に考えたら?」
七海はお堅いね〜、と笑う夏油に返事ができないまま黙り込む。五条と付き合うなんてとんでもないと思っていたが、学生時代の戯れだと思えば少し気が楽になるかもしれない。
「七海が悟と付き合いたくないならはっきり言ってやって。でも、悟も悟なりに考えて告白したみたいだからさ。気持ちは否定しないであげて欲しいな」
「…………わかりました」
好きだ、と七海に告げたときの五条の顔を思い出す。
私も好きです。そう答えたら、五条はどんな顔をするだろう。霞がかって想像できない未来に、胸がきゅっと痛くなった。
夏油と話をした次の日。
すぐに五条と会うことになると思っていたが、それは杞憂に終わった。急遽泊まりがけの任務が入ったらしく、五条は数日不在になるらしい。正直まだ気持ちの整理がついていなかったので、顔を合わせることがなくなりほっとした。同時に、いずれ任務から戻ってくるだろう五条と顔を合わせたとき、どうすれば良いのか七海を悩ませることとなった。
答えを出せないまま五条不在の日々はあっという間に過ぎていった。いつも騒がしい五条がいない校内は静かで、何も知らない灰原に至っては早く戻ってきて欲しいね!なんて言う始末だ。数日かかる任務もいつも繰り上げて早く完了させることが多い五条が、予定通り時間がかかっているなんて今回の任務の相手は手こずる呪霊なのだろうか。五条に限って致命傷を負うことなんてまず考えられないが万が一のこともある。
呪術師はいつその生が途切れることになるかわからない。呪術高専に入学したばかりの頃教えられたそれが急に現実味を帯びて、七海はぞっとした。あのやりとりが五条との最期になってしまったら。五条に限ってありえないとわかっていても足の先から全身が冷えていくような感覚と共に身体が震え出す。
「七海。具合わりーの?」
「あ……ごじょう、さん?」
背中にかけられた声はここ数日七海の頭の大部分を占めている人の声だった。たんぽぽの綿毛のような頭を揺らして七海の顔を覗き込むのは、間違いなく五条だった。
「顔真っ青だぞ。大丈夫かよ」
「任務、は」
「あ?終わったと思ったらまた次の任務入れられてさー。さっさと帰りたかったのに」
「……無事だったんですね」
制服に汚れはなく、怪我をしている様子もない。ほっと息を吐く七海に、五条はニヤリと笑った。
「なーにー?時間かかってるからなんかあったかと思った?最強の五条悟様に限ってあるわけねーだろ。ピンピンしてるわ」
「よかった……」
五条に何事もなくて良かった。不安がなくなって気が緩んだのか、詰めていた息を大きく吐き出した。七海の様子に五条は調子が狂ったのか気まずそうにガシガシと頭を掻いて、おずおずと口を開く。
「……七海。あの、この間は……ごめん」
「え?」
「い、いきなり…その、き、きす、して」
なんでも自分が正しいと思っている五条も謝ることができるのか。今まで何をしようと決して七海に謝ることがなかった五条からの謝罪に目を見開く。同時に、数日前、目の前のこの男とキスをしたことを改めて思い出し、ぶわっと身体が熱くなった。
「あ、あの、」
「でも、あの時のアレ、嘘じゃねーから」
「アレ?」
「お…おれが、オマエを、す、すき、ってやつ」
それまでの不遜さはどこにいったのか。ごにょごにょと恥ずかしそうに話す五条に七海は面食らってしまう。いつも自信満々な五条が、七海の前でこんな姿を晒すなんてはじめてのことだった。
「罰ゲームとか、ふざけてとかじゃないから。それは信じてくんね?」
唇を尖らせて、まるで拗ねた子供のように七海へ言い募る五条は最強でもなんでもない、どこにでもいる年相応の高校生にみえた。ずっと五条を自分とは一線を介した特別な人間だと思っていた七海にとって、それは衝撃だった。
「……五条さんも、誰かを好きになったりするんですね」
「はあ?オマエ、俺のことなんだと思って、」
「五条さん」
五条と付き合うなんて考えたこともなかった。
彼は特別。自分とは別世界の人間。
今はたまたま、呪術高専の枠の中で交わっているだけ。ならば、そのわずかな交わりの間だけでも、五条のそばにいることを許されたいと思った。
「付き合いましょうか」
この時の五条の顔を、七海は大人になってからもずっと覚えている。
花が綻ぶような笑顔、とはまさに今この瞬間、目の前のうつくしい男のためにある言葉だと、本気で思った。
つづく