すきすきだいすきつきあって!(4)高専に入学してから2度目の春。肌寒さもあってか珍しく体調を崩した五条を見舞いに来た夏油は、ベットに寝込んでいる五条を見て意外そうな顔をした。
「悟でも風邪ひくんだ」
「ばかって言いたいわけー」
「それもあるけど、君が弱ってるところ想像できなかったから」
「なんてったって、最強の五条さだから、ゲホ、っ、のどいた...」
「無理に喋らないほうがいいよ」
「おまえが、喋らせたんだろ」
咳き込んだ五条の不満げな目線を無視した夏油は、五条の机から椅子を引っ張ってきてサイドテーブルの隣に座る。彼の温くなった冷えピタを張り替えようと、ベット下に落ちていた冷えピタの箱を取った。中に入っているざらついた手触りの袋から1枚取り出す。透明のフィルムを剥がすとひんやりとした温度が伝わってきた。角のめくれた冷えピタを額から外し、新しいものと貼り替える。
「つめた、」
「我慢しな」
「へぇい...」
大人しく寝るつもりがあるのかないのか、ベット脇にはいくつかの本とゲーム機、携帯電話が乱雑に散らばっている。夏油はそれらを集めて机に移し、持ってきたものを袋ごとサイドテーブルにおく。広くなったベッドで寝返りを打つ五条に、夏油は袋の中身を指差した。
「食堂の人が温かいもの作って持ってきてくれるらしいから、それ食べたらこの薬飲んで。横にポカリも置いてる。あと冷蔵庫にゼリーとかおいてるから、食べれそうだったら食べてね」
「至れり尽くせりでどーも。...あれ、もしかして風邪ひいたら傑がずっと看病してくれるの?」
「帰ろうかな」
「傑は俺専用の家政婦なのでだめでーす」
「夫じゃなくていいの?」
「傑と一緒ならなんでもいい」
「なんだそれ」
夏油が部屋に着いて数分後、控えめなノック音にドアを開けると、食堂の職員がお粥を持ってきていた。黒くて平たい器の中に、あたたかな湯気をくゆらせる卵がゆがよそわれている。上にはネギが散らされており、実家の食卓のような懐かしいにおいがした。小さな皿にはウサギの耳を携えた林檎が二つのっている。夏油はお盆に乗ったそれを受け取り、五条の元まで運ぶ。ベッドの上にも乗せられる、簡易的な折り畳み机の上に置いてやると、にや、と病人らしくない笑顔を浮かべた五条が、
「ふーってするやつやってよ」
とスプーンを夏油の方に向けた。
「嫌だよ。君自分で食べれるぐらいには元気だろ」
顔をしかめた夏油は、スプーンごと五条を押し退ける。喉の痛みや熱は出ているものの、軽口を叩ける程度には気分が悪くないらしい。この表情をする五条は基本的に良くないことを言いだすと身をもって知っている。五条が二人での任務をすっぽかして夏油の部屋で漫画を読んでた時もそうだ。疲労困憊で帰宅した夏油にねぎらいの言葉一つもかけず、人のベッドの上でポテチを食べながら「おかえりー」とのんきに夏油を出迎えた。夏油がなんで来なかったんだ、と問い詰めると、「だって傑ならできるじゃん」とのこと。そういうことじゃないという夏油に、ぱちくり、目を瞬いた五条は、にたりと口角をあげて、「なぁに、褒めてほしいの?」と言った彼は、夏油の頭を雑に撫でたあげく前髪で遊び始めた。綺麗な三つ編みを作っては、「あ、枝毛あるじゃん。切ってあげよっか?」と止める間もなくざくりと前髪を前髪を5センチほど斜めに切られ、なんとも格好のつかない見た目になったのは記憶に新しい。後日、硝子に笑われた。
「...」
思い出してイライラしてきた。この前のプリンだってそうだ。新宿に最近できたプリン専門店を任務帰りに買ってきて、と頼まれた夏油は、面倒ながらも律儀に2時間も待って手に入れた。黄金の黄身プリンというらしい。一つ600円の強気な価格設定に、普段は甘いものを食べない夏油も心躍っていた。しかし、特級案件を片付けた五条にもっていくと、「あれ、そんなの頼んだっけ」と言われ、あげくもうその口じゃないから要らないと言われた時は結構本気で殺意が湧いた。なお余ったプリンはは硝子や後輩たちにあげて、たいそう好評だった。仲よく4人で食べているところを通りがかって、俺にはないの!?と、のたまいやがった五条のことは知らない子である。
目にうっすら復讐の炎を浮かべている夏油のことはつゆ知らず、五条はむっと口を窄め、大袈裟にベットにうずくまる。
「あ~~~体調悪くなってきた。めちゃくちゃ吐きそう。どこかの誰かがおかゆを食べさせてくれないから熱に耐え切れず死んじゃいそうだな~~!っげほ、」
体を丸めながらも、ちらちらと何かを期待するような青の眼と視線がかち合う。熱でほてった頬に、薄ら滲む青の目。先に折れたのは夏油の方だった。
「...まったく」
白のレンゲで掬ったそれを口元に持っていくと、
「冷まして!」
と余計な注文が入る。
「はいはい」
2、3回息を吹きかけたそれを見て、今度こそ五条はお粥を口に入れた。
「おいしい」
にへら、と緩む頬。普段とは打って変わって、静かな五条は魅力的だった。これを見れるのであれば並大抵のことなら許してしまいそうである。いや、プリンのことは今でも根に持っているけど。
でも。でもやっぱりかわいいんだよなぁ。任務を突然ばっくれても、約束を破っても、性格が最悪でも、結局許してしまうし、なんだかんだ五条の隣は居心地が良い。
ハー。全く持って世界はクソッたれである。いやもうコイツに惚れてしまった時点ですべてが終わりなんだけど。
「ん、どしたの、眉間にしわ寄せて」
「...なんでもないよ」
「......なんか怒ってる?」
「怒ってないよ」
「絶対怒ってるやつじゃん。なになに、俺何したの」
こて、と首をかしげる姿すら可愛く見えるからもうおしまいである。
「ァ~...最悪だ...」
「えぇ...」
気分は悪魔に魂を売った罪人の気持ちだった。釈放される予定も未来もなければ、そもそも釈放される気がない。惚れた弱みとはまさにこのことである。
しばらく話していると、食事をとって眠くなったのか、五条がうつらと首を動かしたのを見て、簡易テーブルを片付ける。腰まで落ちていた布団をかぶせると、細く穏やかな寝息が聞こえてきた。チ、チ、と静かになった部屋に時計の音が響く。次の任務の時間が近づいていた。
「......ん、」
夏油が席を立った瞬間、寝かしつけた赤子をベットに置いたときのように五条が目を覚ました。振り返った夏油が、五条の額に手をやると先ほどよりも熱が上がっていたので、寝苦しいのかもしれない。
「任務?」
薄く目を開けた五条がそう聞くので、夏油は首肯した。
「そう。悟の受け持ちだったやつ」
「それ傑が行くの?」
「そうだけど」
「えー...やだ」
「やだってなんだよ。君が行けないから私が行くしかないだろ」
「傑じゃなくたっていいじゃん」
「ほかに空いてる人がいないんだって。仕方ないよ」
「じゃあ俺が行く」
「その顔で言う?病人は大人しく寝てな」
「やだったらやだー!!」
「熱が引いたら遊んであげるから」
「子供扱いするなよ」
「子供だろ」
「同年代ですぅ」
「同年代とは思えない幼さだなって言ってるんだよ」
「ァ?傑だって変わらねーだろ」
「私が君と同じなわけないだろ」
「言ったな?ッ、ェホ、ホ、ゴホ、ッ、゛」
「...今日ぐらい大人しく寝てなよ」
ぅ、としかめっ面をした五条は渋々と言った様子で口を開く。
「じゃあ結婚して」
「だからできないってば」
またそれか、と夏油は嘆息する。もう耳にタコができるほど聞いた五条のプロポーズもどきに、一体何の意図があるのか、未だに夏油は理解できていない。
「僕のどこがダメなの?僕ほど美しい人なんて世界中探し回ってもいないって!こんだけプロポーズしてたらちょっとぐらいさぁ、ぐらってこないわけ?据え膳食わぬはーって言うじゃん」
「君の場合、その据え膳食ったらもう逃げられなくなりそうだから食べないの」
「あったりぃ~~」
ぱちぱちと笑顔で手を叩いていた五条だったが、フ、と一瞬真顔になり、素早い速度で夏油の腕をつかむ。
「え、ちょっと待って、てことは据え膳食う気はあるってこと?」
「ァ」
「あって言った!!」
「いや、別に、そういうのじゃなくて、」
「じゃあ何」
「なんでもいいだろ!」
「よくないって!!!」
「君の空耳じゃないか?」
「少なくとも傑よりは耳悪くないですぅ。お得意の空耳発動させるのはお前の方じゃん。都合悪いからって無様に逃げるのかっこ悪いと思わないワケ?」
「誰が逃げてるって?」
「疑問文に疑問で返すなよ!名指しで言わなきゃわかんないぐらい脳縮んでんの?」
五十歩百歩の言い合いで、お互い息も絶え絶えになった頃、五条の部屋に補助監督が迎えに来て一時休戦となった。行くなと駄々をこねる五条を引き剥がした夏油は、任務に行く前から疲弊しつつ、乗り込んだ黒の送迎車の中で、討伐対象の詳細が書かれた紙に目を通した。
***
資料を読んだ限り、今回の討伐対象は人型の大型呪霊で、おおよそ一級案件と記載してあった。湿気の立ち込める生ぬるいコンクリート工場の中、額に湧き出た汗を片手で拭う。目の前に立つ呪霊の容貌を見上げ、夏油は小さく笑みを浮かべた。
「イッショ...イッショニナル...オマエもイッショ」
「っ、話が、違うな...!」
呪霊の鎌が閃き、夏油は咄嗟に身を翻して攻撃を躱す。力強く正確な太刀筋が、夏油が1秒前まで立っていた空間を切り裂いていった。重量のある鎌が、大きな音を立てて地面に突き刺さる。悲鳴を上げるように、硬いコンクリートに亀裂が走った。相手が鎌を抜く前に体勢を立て直した夏油は、距離を詰め、素早い蹴りを入れた。
「ッ、毒か!」
蹴りを繰り出した右足の靴の底が、じわじわと溶けていく。身体に触れるのは御法度のようだった。咄嗟に火を扱う呪霊を出して、靴底を焼き払う。熱されて溶けたゴムがでろりと灰色の足元にシミを作り、靴の芯材が見えている所もあった。バランスは取りにくくなったが、安全を考えると靴を履いている方がマシだ。
その隙を逃さず、夏油めがけて走ってくる人型呪霊。指先は溶けだしており、殴られた後のようなうっ血した色をしていた。距離を取るだけの時間がないと判断した夏油は、手持ちの呪霊の中から防御するためだけの下級呪霊を出現させたが、相手が触れた瞬間溶けだしたのを見て思いっきり後ろに飛ぶ。そのまま飛行呪霊に乗って工場の奥の方へと大きく距離を取った。
毒がどの程度か調べるつもりだったが、一瞬で跡形もなくなった呪霊を見る限り、手持ちの呪霊とは相性が悪そうだ。かつ、夏油の得意とする肉弾戦をするにも、呪力を貫通して毒の効果があるようなのでやりにくい。どうしようか、と思考を巡らせようとしたその時。音もなく近づいていた呪霊の顔が、夏油の命を狙おうと鎌を振り上げていた。しまった、と心の中で思う。想像していた以上に相手が上手だった。
夏油は咄嗟に体を捻り、せめてもの抵抗として腕を腹の前でクロスさせた、その瞬間――――。
頬すれすれに、鋭い風が通り過ぎていった。いや、風ではない。それはあまりにもなじみのある呪力の塊だった。
「っと...傑、大丈夫ー?」
轟音とともに粉塵が舞い降りてくる。真っ白になった空気の間から、見慣れた白髪が顔を出した。
「さ、とる、動いて大丈夫なのかい」
「別にこんぐらい大丈夫。熱で倒れるようじゃやってけないし」
パ、と手を払った五条は、先ほどまで風邪で弱っていた姿が嘘のように、まっすぐと立っていた。心なしか顔がほてっているように見えたが、ほとんど気にならない。地面に倒れ込んでいた夏油に手を差し伸べた五条は、その身体を引っ張りあげる。腰を起こした夏油は、唇をはくり、と震わせて五条を見た。
「なんでここに?」
「お前じゃ無理だと思ったから」
「な、」
「実際無理だったでしょ?これ特級だし。お前の手持ちじゃ相性悪いよ」
さらっと言ってのけた五条の顔には驕りの色もない。人型呪霊は五条の一発で沈んだようで、立ち上がってくる気配どころか、その姿までも木っ端みじんになっていた。あっけにとられた夏油は、地面に座ったまま、ただ五条の次の動作を待つ。五条は掴んだままの夏油の手に力を入れ、そのままかがみこんで夏油と目線を合わせた。逆光で暗くなった瞳が、じいと夏油を見つめている。
「傑がいなくても、僕一人で今の世界を守れるよ」
そこには、夏油の知らない五条の顔があった。否、たまに見せる、大人びた五条の表情。これが彼の本来の姿なのかもしれない。曇りのない瞳に見つめられ、夏油は固くなった息を吐きだした。空気に、力に、圧倒されている。五条の隣は居心地がよかったはずなのに、まるで別人かのように息が苦しい。
「お前はどうすんの」
「どう、って、...何が」
「これから、どうすんのかって話」
きらりと光るその瞳は、まるで逃がさないと言いたげな視線だった。これから、これから。夏油は五条の言葉を頭の中で反芻する。未来のことなど、たいして考えていなかった。高専で勉強して、呪霊を祓って、たまに遊びに行ったり夜更かしをする。この先もどうしてか同じような日常が続くと思っていた。
「傑は強いよ。でもこの世界を一人で守れるほどじゃない。非術師守って何になるわけ?そんなにどうでもいい人間たち守って楽しい?」
「急に、なに」
「急じゃないよ。非術師守る以外の目標を持てって言ったの忘れた?」
忘れてないけど、と、夏油は声にならない口を動かす。それ以外に何がある?
「だって、それが私たちの使命じゃないか」
弱気を助け、強きを挫く。社会とはそうあるべきだ。そうじゃなきゃ、報われないだろう。対抗手段もない[[rb:弱者> ひじゅつし]]が、ただただ呪霊に殺されるなんてあまりにもかわいそうだ。
「じゃあさ、非術師守って俺が死んでもそう言える?」
「悟は死なないだろ」
「もしもの話だよ」
「......それは、仕方ない、だろう。非術師を守るのが、私たちの仕事なんだから」
「ほんとに?エー、傑クンってば、僕が死んでも悲しんでくれないんだ。この薄情者ー」
「茶化すなよ。だって、そうじゃないか」
「ほんとに?非術師のこと恨まないの?僕を殺したのは、非術師だよ」
非術師の負のエネルギーが呪霊を生む。当たり前のことが、どこか非現実的に思えた。非術師が、悟を殺す。
「結局、誰が死ぬかなんて変わんないよ。非術師を守っている裏で、術師の誰かが命を落としてる。死んだのが術師か、そうでないか、それだけだ。それでも、お前は[[rb:弱者> ひじゅつし]]だけを守るの?」
鋭い目で自分を見つめる五条に、夏油は何も言えなかった。目を逸らしていたつもりはなかったが、事実、目を逸らしていたのだろう。
「っ、ぁ」
ずん、と胃が重たくなる。何か言い返そうにも言葉が出ない。じゃあどうしろというのだ。非術師がいる限り呪霊は生まれるし、呪霊が生まれる限り術師は命をかけて呪霊を祓わなければならない。目の前にあるものを、自分が救うべきだと思うものを助けることの何が悪い?そうやって目を逸らす自分が酷くみじめに思えた。根本の解決にはなっていない。毎年、任務中に命を落とす呪術師の数は少なくない。そうやって、術師の死体の上に非術師にとっての"日常"が成り立っている。運よく周りの人物が死ななかっただけで、術師や補助監督の訃報なんて耳が腐るほど聞いてきた。
「傑はどうしたい?お前は[[rb:ココ> 高専]]で何を叶えたいの」
「私、は。わたし、は......」
わからないから困っている。自分が何になりたいか、なんて決めていない。高専にだって別に呪術師になりたかったから来たわけじゃない。ただ、自分の力が誰かのためになるのなら、それは正しくその力が使われる必要があると思っただけで。自分は非術師を守るべき、選ばれた”強者”だと思っていた。でも、自分が祓えど祓わずとも、結局なんだかんだ世界はうまく回るのだろう。悟の言う通り、一人でどうにかしてしまうのかもしれない。
じゃあ、私は?私は何をしたいのだろう。じ、と地面に目を落とす。削れた靴の裏側から、ひんやりとコンクリートの冷たさが滲んだ。
当たり前のように呪術高専を卒業して、ぼんやりと呪術師になっている未来を描いていた。その隣には、悟がいて、硝子がいて、高専の仲間がいて。たまに集まって飲みにいって、どこの案件はクソだったとか、あの呪霊は大変だったとか愚痴を吐いて、酔っぱらった五条の介抱をして。それで、五条がいつものように言うのだ。『傑ー、好きだよ。結婚して!』
地面に落とした視線を宙に戻す。下げた首を上げるのが機械のようにぎこちなかった。
「っ」
ぎちり、と正面を向いた首が目の前の対象を捉える。きらりと光る蒼の目が、私の目を捉えて離さなかった。どんなに突き放そうとも、逃げようとも、それでも付きまとってくる蒼色。
『好きです、結婚してください!!!』
高専に入学した初日、嵐のようにプロポーズをしてきた悟のことを、今でも覚えている。ガラス玉のような目を爛々と輝かせ、跪いて私の手をぎゅっと握るその姿を。興奮で少しほてった表情、それに、少しの緊張、だろうか。らしくない、らしくないな、ほんとうに。特級相手に呪力枯渇状態で挑んだときでさえ、緊張なんか見せなかったくせに。
カフェで五条おすすめの甘さ特盛スイーツを食べて気分が悪くなった日。流行りのアーティストのライブに行って、興奮の冷めぬまま2人して徹夜でライブ映像を一気見し、寝不足で大怪我をして帰ってきた日。うつらうつらと眠くなる午後の授業。嫌いなものでも文句を言いながら口に突っ込んだ食堂のご飯。寝ようと布団にくるまったところでノックもせずに入ってくる悟の姿。走馬灯のようにいつもの日々が巡る。
私が、叶えたいこと。それは―――、
「私は、私の好きな日常を守りたい」
消え入りそうな呟きだった。言おうと意識したわけではない。ただ、口をついて出たのはその言葉だった。
非術師自ら生み出した呪霊を、呪霊を生み出すことのない術師が命を張って祓わなければ"日常"すら保たれない、理不尽な世界だ。それでも、たとえ今のやり方が間違っているとしても、私は悟と、高専のみんなと過ごすいつもの日常が続いてほしいと思った。
さら、と風の通るはずない工場に、緩やかな風が通り抜けていく。ぱちくり、目を瞬いた五条は、少し意外そうな表情をして、そして、笑った。夏油の知る、いつもの五条の顔だった。
「いいね。そういうの好きだよ」
後始末を終えた二人は、補助監督が迎えに来るのを待っていた。熱は大丈夫なの、と再三夏油が聞いていたが、五条曰く『多少ふらつくぐらいで大丈夫』とのこと。いやそれ大丈夫じゃないじゃん、と心の中で夏油は思っていたが、助けに来てもらった手前、何も言えなかった。
工場は崩れかけていたが、基礎がしっかりしていたのか、もしくは五条が上手く狙ったのか、その姿は保ったままだった。崩れた上部にカラスの群れが止まっている。近くに巣でもあるのかもしれない。
隣で歩く五条の様子を、ちら、と盗み見する。夏油の視線に気づいた五条が、何、と小さく声をかけた。
む、と一瞬視線をずらす夏油。
いやその、と口の中だけで言い訳がましく言葉を紡ぐ。ずっと気になっていることがあった。聞きたくても、答えを聞くのが怖くて、避けていた質問。具体的には、なんで私にプロポーズをしているのか、と。夏油には心当たりがあった。いやプロポーズされる心あたりはないのだけど。まごまごと頭の中で文字を連ねていても仕方ないので、思ったことを単刀直入に言葉にした。
「君さ、本当は私のこと、恋愛対象として見てないだろ」
視線を地面に留めたまま発した言葉に、隣で歩いていた音が止まる。
「...悟?」
不思議に思って後ろを振り返ると、びっくりした顔で五条が固まっていた。もう一度呼びかけても反応がない。長い、長い沈黙だった。
「あー......」
ようやく再起動した五条が、ベロを出して笑う。
「バレた?」
「やっぱり...」
夏油の予想通りだった。なんとなく、五条の様子から感づいていたのだ。端的に言えば、恋愛感情を感じなかった。まあ下品に言うなら、私に向ける情欲のようなものが見えなかったから。それからしばらくまた、無言の時間が続く。ざらざらと地面の砂を蹴って歩く音だけが二人の間で響いていた。ややあって、バツの悪そうな顔をした五条が、申し訳なさそうに夏油を見る。
「...聞いて怒らない?」
「怒る」
「じゃあ言わない......わかったって!その顔やめろよ!」
よほど怖い顔をしていたのか、焦った顔の五条が、迷った子供のような顔で小さく告げた。
「傑と、一緒に居たかったから」
「.........それだけ?」
「なに」
五条は少し怒ったような、拗ねたような表情をしていた。夏油はというと、あまりにも予想外の回答が返ってきて面食らっていた。もっとこう、何かしら私の立場や呪力だとかそういったものを利用しようとか、悪だくみに近いなにかのためだと思っていたので。わけがわからない、と固まった頭のまま、なんとか落ち着こうと顎を撫でる。
「そんなの、結婚じゃなくたっていいだろ」
「だって結婚が一番手短かなって」
「どういうこと?」
「傑はさ、社会的通念とか大事にするタイプじゃん」
「まあ、そうかも」
「だから、形だけでも結婚という約束を交わしておけば、黙って俺を置いていくことはないかなって」
「ええ......」
「引くなよ!」
「いや、クズだなって思って」
「その言葉そっくり傑に返す」
「私は悟よりマシだよ」
「俺だって傑よりマシだから!」
引くわー、と言葉では言いつつ、夏油は口角が上がるのを止められなかった。毎日のように求婚していたのは、私と一緒にいたいから?それじゃあまるで、本当のプロポーズじゃないか。フーン。そこまでしても私と一緒に居たかったんだ。笑みを浮かべる夏油に、不貞腐れた様子の五条が唸る。
「馬鹿にするなよ」
「してないよ」
「じゃあなんで笑ってんだよ」
「いや、かわいいなって」
「はー!?やっぱ馬鹿にしてんじゃん!」
「してないってば」
曇り空から、いつの間にか光が差し込んでいる。ブォン...と遠くから補助監督の車が向かっている音が聞こえてきた。雨は降らなさそうだ。
それから、蒸し暑い雨季が過ぎて―――いつのまにか、高専に来て三度目の夏が来ていた。
ぱちぱちぱちぱち。
狭い室内の中で、雨粒が跳ねるように拍手の音が響いている。一面のしろ、しろ、笑顔の人、そして、悟の手の中にしなだれかかるおさげの少女。
「ごめん、救えなかった」
「...ああ、そうか」
ぼそり、漏れた声は自分のものではないぐらい掠れていた。ぱちぱち、頭の中で拍手の音がはじけている。硝子に治してもらったはずなのに、どうしてか視界のピントが合わない。
「すぐる」
五条の声でようやく意識が彼へと向く。は、と浅くなる呼吸をどうにか堪え、周りへと目線をやった。盤星教のアジトに集まる信者と、守れなかった、普通の人間として生きられたはずの少女。
「コイツら、殺すか?今の俺なら、多分何も感じない」
キィン、と耳鳴りが響く。視界がぐらついた。殺す。誰を?ここにいる信者たちを殺したところで、現実は何も変わらない。意味がない。
「......いや、いいよ」
「そっか」
天内を抱えたまま、教会の長い廊下を歩く。重たい沈黙だった。
「傑はさ、今もこの世界を好きでいられる?」
小さな呟きだった。天内に視線を落としたままだった夏油は、ふ、と顔をあげて五条の顔を盗み見る。その表情は影になっていて見えなかった。
人の命の犠牲の上に成り立つ、あまりに脆すぎる世界。守りたいもの一つも守るだけの力がない自分の非力さと、その身勝手な想いだけで一人の人間の命を奪ってしまえる弱者の醜さが空恐ろしかった。
「...わからない。この世界を守りたいという意識は変わらないよ。日常を守るためには犠牲が必要だ。だから、仕方ない。...と思う、...おもう、けど」
けど?と、五条が感情の見えない瞳で問い返す。
「でもそう思う自分が、悲しいとも思う」
「...そうだね」
ぱち、と白く長い睫毛を伏せた五条は、視線を足元に戻す。五条が、あのさ、と微かに強張った声を発した。
「傑はさ、もし非術師を全員殺せば、犠牲になる人がゼロになるなら、非術師を皆殺しにする?」
う、と小さく息が詰まった。何を言うんだ、と頭の中の自分が警報を発するのと同時に、奴等を救う理由はどこにある?と思う自分がいるのも確かだった。
非術師を殺せば、誰も死なない平和な世界が訪れる。魅力的な言葉だった。非術師が呪霊を生み出しているのだから、自業自得ではないか。術師が命を張ってまで弱者を助ける理由などない。
「...非術師を、わざわざ助ける理由は、正直、よくわからない」
非術師がいなければ、平和な世界かもしれない。術師も人も呪霊によって死ぬことがなく、理子ちゃんも命を失うことなく。力のある者だけが支配する世界。
そこには、ゲームセンターで馬鹿な賭けをして悔しがる日常はあるのだろうか。パン屋で予想外に美味しいパンに出会った五条が目を輝かせている、そんな日常はあるのだろうか。小さな日常の一コマこそ、非術師がいなければ成り立たないものではないのか?非術師のいない世界で、私は本当に笑えるのだろうか?
「............まだ答えはだせないけど、でも、私はこの世界で生きたいよ」
「そっか」
五条は短く返事をした。足に力を籠めすぎて、きゅ、と廊下の滑らかな床材が鳴った。視線をあげると、見たこともない表情をしている五条がいる。
「...泣いてる?」
「ハ?泣いてませんけど」
そこに涙はなかったが、五条の揺れる瞳が、まるで泣いているかのように見えた。ゆる、と彷徨う視線に何の意味が込められているのか、夏油にはわからない。ただ、泣いてる?の言葉が五条の機嫌を損ねたのは確実だった。
「今の僕は機嫌がいいので、蜂楽堂のプリン4個でゆるしてあげまーす」
「まだ根に持ってたのそれ」
「食べ物の恨みは根強いんですー」
夏油は、いらないって言ったの君なんだけどな、という言葉を飲み込んだ。
白紙の紙を蛍光灯に透かして眺める。紙の向こうに柔らかな光は見えるが、夏油の課題の助けにはならない。真っ白な紙の上で、’進路希望調査票’の文字が躍っていた。提出期限は明日、決めていたはずの第一志望の欄に書く、’高専’の二文字が書けなかった。
別に高専に残ることが嫌なわけじゃない。自分の力を生かすためには、高専にいることが一番であると理解していた。それでもあの時、もっと自分にできることがあったのではという思いは消えない。
キィ、と傾けた椅子のきしむ音がする。物思いにふけりながら、ゆらゆらとベビーラックのように椅子を動かしていたその瞬間、後ろに傾けすぎた椅子が悲鳴を上げるような音を立てて後ろに倒れ込む。座っていた夏油は盛大に後ろにすっころんだ。
「っ、......」
「なにしてんの」
教室のドアを開けて入ってきた家入は、呆れた目で夏油を見ていた。
「こんなところで怪我増やすなよ」
はーい、とやや腑抜けた声で夏油が返す。背中から転んだせいで、そこそこ嫌な感じに息が詰まった。げほ、と背中をさすりながら咳をした夏油は、夕方のホームルームも終わった教室に、はて何の用事だろうと家入に声をかけた。
「硝子は何しに?」
「忘れもの取りに来ただけ」
「そう」
夏油は?と言いたげな目線に、家入に見えるように用紙を机の端に寄せてやると、ちらりと目をやった彼女がああ、と声をあげた。
「なんだ、まだ書けてないの」
「んー、まあ」
家入はふうん、とさほど興味のなさそうな声色だった。
「硝子は残るの?」
「高専が離してくれるわけないだろ。ま、別に不満もないからいいけど」
ごそごそと家入が自分の机を探っていると、また教室のドアが開いた。
「傑ー、今日駅前の限定パフェ食べに行く予定だったじゃん。教室でなにしてんの?」
ガラ、と空いた先には待ちくたびれた様子の五条がいた。高専の服からラフな私服に着替えており、出かける準備は万端なようだった。
「これ出さなきゃいけないからちょっと待って」
「何?...あー、進路調査か」
「五条はもう出したか?」
「出したよ」
「え、期限ぎりぎりじゃないなんて珍しいね」
「明日は槍が降るぞ」
「うるせー」
「ま、卒業したって座学がなくなるぐらいだし、特に変わらないか。あんまり怪我して帰ってくるんじゃないぞ」
「硝子に治してもらうほどの怪我なんてそーそー負わないよ。僕高専辞めるし」
「「は??」」
五条の衝撃発言に、家入と夏油の声が被る。これ以上ないほどきれいなユニゾンだった。
「五条、今なんつった」
「だから高専に就職するの辞めるって」
「正気?いや悟が正気だったことあんまりないけど」
「ひどーい!」
五条は、さほどひどいとも思ってなさそうなノリで返している。夏油としてはそれどころではなかった。悟が、高専をやめる?あの悟が?何かやりたいことでもあるのだろうか。いや、それ以前に悟が高専をやめて、呪術界は回るのか?夏油の頭の中にはグルグルと様々な可能性が巡っていたが、驚きすぎて言葉がでてこなかった。
「やめてどうすんの」
代わりに家入が五条の話の続きを促す。
「俺の未来の就職先は、傑のお嫁さんだから!」
にこ、と溌溂に語った五条だったが、聞いた方の家入のジト目は、また言ってるよ、と言外に語っていた。
「...さとる、質の悪い冗談はやめてくれ。心臓に悪い」
お嫁さんだなんだという話は、プロポーズが好きな気持ちで言ったわけではないとわかった日にとっくに終わったものだと思っていた。いや、正直に言うなら、悟がずっと一緒にいてくれるならそれもいいかな...とか揺れないこともない...け、ど!それはだって私は悟のことが好きなんだし、そんなこと言われて揺れないわけないだろ、と誰に言うわけでもない言い訳をつらつら重ねる。
いつものプロポーズの延長線上か、と未だにドキドキと音を立てる心臓を、薄く息を吐きだすことで抑えようとする。本当に質の悪い冗談は久々に聞いたな、と眉間によったしわを指で揉んだ。ぱちり、目を瞬いた五条はあっけらかんと続けた。
「本気だけど」
そう言った五条の目は、確かに冗談を言っている風ではなかった。
「傑が高専の教師になるんだったら考えてもいいけど、そうじゃなきゃフリーの術師になるよ。あ、傑が辞めてほしいって言うならフリーの術師も辞めるけど!さすがに特級案件は断れないから、その時だけ契約する感じかな」
「...ァ......あ、そう」
どうやら本気らしいとようやく気づいた夏油は、掠れた声で相槌を打つことしかできなかった。え、なんだって?術師を、やめる?
「術師を辞めてやりたいことでもあるの」
家入の方は割とすぐに受け入れられたようだ。その手はうっすら煙草を探すように彷徨っていたが。
「正確には術師をやめるわけじゃないんだけどね。気になる子集めて、育成機関でも作ろうかなって」
「育成機関?」
「そう!禪院家の隠し子とか、両面宿儺の器とか色々いるからさ、なんかあった時のためにその子たちを育てようと思って」
「つまり、高専みたいな機関を五条だけで作ると?」
「まあありていに言えばそんな感じ」
「......それここでしていい話?」
「別にいいんじゃない?止められてもやるつもりだし。まずは隠し子の方の問題をどうにかして、徐々に人を集めていこうと思ってる。性格上完全に高専と無関係ってわけにはいかないだろうから、対抗戦ができるぐらいの伝手は残しておいた方が便利かな。場所はどうしようかな、やっぱりある程度広い方がいいから、この辺だとー」
「わかったわかった、お前が本気なのは分かったからその辺でやめとけ」
「ん?あっだめだ傑がフリーズしてる。傑ー、すーぐーるー、起きて」
「........ぁ、何?」
五条に揺さぶられて現実に戻ってくる。えっと、悟が、なんだっけ?術師をやめて、教育機関を作る?急に大量の情報を流し込まれたせいで思考が止まっている。とにもかくにも、一番聞きたいのは、
「高専じゃダメなのか」
という質問だった。んー、と一瞬逡巡した五条は、た、と机の上に座って足を組んだ。
「ダメってわけじゃないけど。今の高専の仕組みは好きじゃないからね。術師をこんな雑に扱ってたら、将来立ち行かなくなるのが目に見えてるし」
「というか五条が教師なんてほんとにやれるのか?」
「ん?まあ細かいところは傑に教えてもらえばいいじゃん」
突然指を指された夏油はというと、時が止まっていた。
「は?」
傑に、教えてもらえば、いいじゃん?五条の言葉をロボットのように反芻したところで、覚えのある爛々と輝く青い瞳が、まっすぐ夏油を見つめていた。
「来るでしょ、僕と一緒に」
「.........」
「傑は傑のやりたいようにやっていいよ。傑だって、今の呪術界を変えたいんでしょ?」
そりゃまあたしかに、術師がゴミのように消費される現実も、弱者の傲岸無知なところも嫌いだとは言った。だからって教育機関を新たに作れなんて言ってない。いってない、けど。自分たちで呪術界を変えるという響きは、確かに魅力的だった。五条と会ってから毎日、ずっと手のひらの上で転がされているようだ、と夏油は思う。何もかも五条の思い通りに行っているようで気に食わない。
「........................行く、けど」
「けど?」
「当たり前のように私を頭数に入れてるのが気に入らない」
「笑ってんじゃん」
「笑ってない」
ふ、と滲む笑みの向こうで、同じように笑う悟の青い瞳を見つめる。その視線に恋愛感情は含まれていないのはわかっていた。それでも、私は悟のとなりにいたい。あわよくば結婚したい...という気持ちもなくはないのだけど、私の好きな日常を自分で守るためには、まだ力が足りない。じ、と自分の手のひらに視線を落とす。握りしめた拳の痛みは、決意の重さだった。
悟の隣に、自信をもって立てるだけの力がついたら。その時は、青いバラの花束でも持って、あの日のように言ってみせるつもりだ。
「好きです、付き合ってください!」