三倍返しだ! 重雲少年は落ち着かない様子でぐるぐると自室を歩き回っていた。いつもの方士服ではない、着慣れない一張羅が全身を締め付けてくるように感じた。鏡に向かって髪に触ってみたり、用意した花束の花の本数を無闇に数えてみたり、じっと動き回っていて止まることがない。熱くなるのを抑えるためか、時折机の上に置いたバケツから一口大の氷を取り出し、音を立てて噛み砕いたのだった。
今日は三月十四日だ。彼の叔母、申鶴の誕生日の四日後……ではなく。バレンタインデーの返礼日であるホワイトデーだ。世間知らずの重雲だが、この日のことならちゃんと覚えていた。妖魔退治の依頼も何もかも、全ての予定を白紙にして、行秋との待ち合わせだけをぽんと置いてある。朝の鍛錬だけは常と同じように終わらせたものの、今朝の彼は気もそぞろで、暗記していたはずの口訣は半分も思い出せなかった。
彼は約束の時間の二時間前に家を出た。ここから璃月港までは徒歩で一時間もあれば辿り着く。一時間もの間、何をして暇を潰そうかなどは考えていなかった。ただ、身の内から湧き上がる、陽気にも似た何かに急き立てられるようだった。花束を持った彼は、からくり人形のように無心で歩を進めた。ひどく早足になっていた。
小走りで港に到着した時、待ち合わせまではまだ一時間二十分も残っていた。そこで彼は、どこかで時間を潰さなければならないと、ようやく気が付いたのだった。
彼はあてもなく港をぶらつき始めた。総務司の前を下った通りに出てみれば、バレンタインデーの時と同じく、特設の屋台がいくつも出店していた。しかし、その賑わいは一月前よりも多少落ち着いたものだった。ここ璃月でホワイトデーの歴史がまだ浅いためだろう。人出は多くも少なくもなく、重雲の体質に影響を与えるほどのものではなかった。
菓子や小物、メッセージカードなど、屋台の品揃えを一通り見て回ってから、彼は適当な柵に寄りかかった。ぼんやりと人の流れを眺めていると、通りの向こう側に長い赤毛を二つに結んだ少女を見つけた。知り合いと見間違え、危うく声をかけそうになる。彼女がここにいるはずはない。港まで来る途中、誰かの葬式をやっているのを彼は目撃していた。あの立派で印象に残る葬儀は、どう考えても往生堂の手によるものだ。
彼が今朝からこんなにそわそわとしているのは、元を辿れば、往生堂堂主胡桃のせいであった。先週の詩会で、行秋が用を足しに席を外した時のことだ。胡桃の誘導尋問に引っ掛かり、重雲はバレンタインデーに行秋から接吻してもらったことを、ついうっかり漏らしてしまった。それを聞いた胡桃が何と言ったか。
『ホワイトデーは三倍返し、っていうのが基本らしいよ。口付けの三倍って……一体なんだろうね〜?』
ませた子供ならもっと別のことを思い浮かべるだろうが、重雲は実に素直な少年だった。口付けを三倍にする、ということは、つまり三回口付けを返すべきだということか。その結論に至り、彼は身体が発火するのではないかと思うほど恥じらい、そして喜んだ。純朴な重雲少年にとって、想い人に三度もキスをしてよい日というのはとても刺激的なものだった。
あの時の胡桃とのやり取りを思い出しながら、彼は港中をふらふらと歩き回った。行秋を待つ一時間は余りにも長く、永遠にも等しい時間を過ごすのに璃月港は余りにも狭すぎた。行秋と合流するまでに、重雲は少なくとも埠頭を三周はした。
約束の時間五分前に現れた行秋は、普段より少しだけ踵の高い靴を履き、弁当の入った小包を抱えていた。彼は異様に緊張した様子の重雲を見て訝しむ。
「随分顔色が悪いじゃないか。一体どうしたんだい?」
「な、なんでもない。早く行こう」
明らかに納得していないようだったが、行秋はそれ以上追求しようとはしなかった。二人はそのまま帰離原の方へと出発した。ひどい手汗で、重雲は手に持った花束の包み紙が湿ってくるのを感じた。
緩い坂道と階段を越え、千岩軍の見張り台の辺りを通りすぎると、じきに道がなだらかになってくる。璃月は春の気配に満ちていた。冬眠から這い出した黒いトカゲがのろのろと二人の前を横切り、ヤマガラ達は柔らかく温かな羽を広げて愛の歌を歌っている。ごつごつとした岩の合間で、丈の短い青草が風に吹かれて揺れていた。
その温かい風景のどれも重雲の目に留まることはなく、彼の意識を素通りしていくばかりであった。彼はただ、途切れることなく言葉を紡ぐ、行秋の形のよい唇を見つめていた。男にしてはふっくりとして色艶もよく、陽光を浴びて光るように照っている。それが特別に手入れをされたものなのか、惚れた欲目なのかは、重雲には判別することができなかった。前者であればいい、と彼は願った。
途中で街道を逸れて川沿いを行く。小川は段差で白い水飛沫を上げ、そばを歩く少年たちの足元を濡らした。遺跡手前に陣取っていたヒルチャールを軽く片付けて、その亡骸を退かしたところに行秋は敷物を引いて座った。拳一つ分空けた所に重雲も腰を下ろす。
「行秋……これを」
胡座をかいて一息つくと、重雲は行秋に花束を差し出した。隠すこともなく道中ずっと手に持っていたものだから、サプライズでもなんでもない。花を受け取る行秋の表情は予定調和的だ。
「ありがとう。ホワイトデーのプレゼントかい?」
「あ、ああ。そんなところだ」
「僕からも用意してあるよ。後で渡すから待っていてくれ」
そう言って行秋は弁当や菓子を広げ始める。その服のどこに入れていたのか、数冊の小説も取り出して傍に積んだ。自分にもホワイトデーのプレゼントを受け取る権利があると知らされた重雲は、その様子を呆けたようにぼうっと眺めるばかりであった。
「――そしてこの茶葉こそが、この小説の鍵になるんだ。そうだ、茶葉といえば、この前兄上が茶館で……」
持参した箸で菓子をつまみつつ、行秋は様々なことを話した。今読んでいる小説の話や、近頃の家業について、詩の言葉選びに関する専門的なことについて熱弁を振るったかと思えば、次の瞬間には人参に対して子供じみた罵り言葉を吐いていたりする。
重雲は適当に相槌を打ちながら、その話の切れ目をひたすらに待った。草むらに潜む肉食獣のように、根気強く待ち続けた。実際のところ、行秋の話を大人しく聞いているのは嫌いではなかった。これで音を上げているようでは、彼に想いを寄せるどころか、親友としてそばにいることさえままならないだろう。声変わり前の、少年らしい真っ直ぐな声を聞き流し、重雲はどこか気持ちが浮き立つのを感じた。肝心の内容は半分も理解できていなかったが。
重雲が三本目のアイスを食べ終わってしまった頃、その時は唐突に訪れた。
「それで、ええと……あれ、何を言おうとしていたんだっけ」
立板に水のごとく喋り続けていた行秋は、ここで初めて言葉を切った。顎に手を当て、少し遠くを眺めながら、先ほどまでの思考の流れを辿っている。その雰囲気に期待して、今までなんとか平常に保ってきた重雲の体温は、一気に上昇し始めた。心臓が早鐘を打つ。
ごくりと唾をのみ、覚悟を決め、重雲は行秋の方へ身を寄せた。お互いの目と目が真っ直ぐに正対して、何かの信号が交わされたような錯覚に陥った。それは口付けの請願であったり、了解であったりした。どちらからともなく顔を近づけ、そして――
「それ以上はだめだよ」
「っ!?」