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    ma99_jimbaride

    成人/二次創作
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    ma99_jimbaride

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    2022/12/11「種蒔くは待つ君が為」で頒布予定の新刊冒頭です。
    本当に間に合うのかさっぱり分からないのですが残りも頑張ります……。

    楽園にあらず ずっと潮騒が鳴っている。
     ざあ、と緑が揺れた。まだ青い稲は風に煽られて一息音を立てると、あとはさわさわ、さわさわ、囁くような余韻を残した。本物の波音と違って遠ざかっていくだけだ。不安定ながら繰り返す、あの律動ではない。
     立ち上がると眼下には山を削って段々に開かれた小さな田畑の連なりがあり、雑木林があり、その向こうに本物の海があった。ちらちらと白い光を返して、遠くからでも揺れているのが分かる。
     あの波音が聞こえたわけじゃない。
     松井江はしばらく、その海の表面に光が揺れるのを見ていた。太陽はそろそろ南中しようとしている。暦の上では秋になったとはいえ、額や背中に汗が滲んでいた。
    「終わった?」
     にょっきり、といった感じですぐ下の段で立ち上がる姿が見えた。桑名江が手拭いで額の汗を拭き取りながら松井をじっと見上げている。目許は前髪で隠れているのに見つめているのが分かるのは、さっき額を拭ったときに稲穂色の目が覗いたからだ。それに、誰かと目が合ったからといって、逸らしてしまうような奴ではないのだ。特に松井相手、しかも畑に関することなのだから。
    「終わった。……そろそろ休憩しないか」
    「え、もう? まだお昼ご飯には早いよ」
     柔らかな反駁に松井は無言で指を差し示した。松井や桑名のいる段より数段下、村雲江が座り込んでいる。
    「村雲はまだ来たばかりだ。このペースでは体力が追いつかないよ」
    「わ、そうだった」
     気がつかなくてごめんねえ、と桑名は長靴をがぽがぽ鳴らしながら村雲の許へ向かった。村雲は落ち込んだ素振りだが、ほっとしているようでもある。慣れない仕事を桑名のペースに引っ張られてやってきたから、そろそろ集中力も限界だったのだろう。お腹を押さえながら、ゆっくり松井のいるところまで上がってくる。桑名はそのうしろから、歩調を合わせて同じくゆっくりやって来た。
     ふたりを見てから松井はもう一度、朝から自分たちが世話をしてきた棚田を見下ろした。淡い緑が一面に広がり、別の区画には濃い緑や丸々とした実が見える。そうして視線を滑らせていくと、青い海が横たわっている。こうして眺め下ろすだけならこの畑も素直に美しいと思うが、手入れをするとなると渋い気持ちが湧いてしまう。
     溜息をついたとき、また緩やかに風が吹いた。頂上から吹き下ろしていった風は大して強くなかったがが、桑名の帽子を飛ばしていった。
    「わ!」
     帽子を追いかけて桑名が傾斜のついた畦道を駆け降りていく。数段下でようやく止まったが、運よく道の上に落ちたらしい。まだ水の入っている田んぼからゆったり畦道まで抜け出してきた松井は、桑名が帽子の土を払いながらまた上ってくるのを村雲と待った。
    「……元気だね……」
    「そうだな」
     早めに休憩を取って正解だったはずだ。昼食にはまだ早いといっても、村雲の腹の調子と食欲を考えれば時間がいるだろう。その村雲がお腹をさすりつつやや青い顔で、ずんずん上ってくる桑名を見つめながら呟いた。
    「ていうか、桑名、畑当番じゃないよね」
     村雲に訊ねられた桑名は当然のように「うん」と応える。先ほどまで地面に落ちていた帽子を何でもないように被ったので、松井は少し眉をひそめた。
    「なんで畑にいんの?」
     今日の畑当番は松井と村雲である。松井がもはや疑問に思うのも放棄していることを、村雲は律儀に不思議がっている。怪訝そうな村雲に、桑名は明るい表情で応えた。
    「そこに畑があるからだよ」
    「……いや、え?」
     困惑する村雲の肩にそっと触れると、松井は首を振った。訊くだけ無駄なのだ。
    「大地はそこにあるけれど、待ってはくれないからね」
     よく分からないことを言い、桑名は松井と村雲の横をすり抜けて先に畑を上りきった。
     松井は解説を求めるようにこちらを向いた村雲にもう一度首を振った。
    「桑名は暇があれば、必ず畑に顔を出すから」
    「ええ〜……」
     村雲は不可解そうな声を漏らすと、ふと堪えきれなかったかのように笑った。
    「昨日はあんなに誉獲りまくってたのに……」
     まだ本丸に来て日が浅い村雲の出陣には、江の誰かがついていくことにしている。昨日は桑名が部隊にいたのだ。
    「手柄は皆のものだよ、と言いながらね」
    「ふ、松井、桑名の真似うまいね」
    「そうかな」
     そんなことを話しながら、ふたりもだらだらと本丸の庭へと戻ってきた。
     山を切り拓いて設けられた本丸は母屋に居住棟、道場、馬屋、そして鍛刀場を建ててしまうと残りはほとんど猫の額のような庭だけになった。そのために畑は山を階段状に切り拓いて造られ、こぢんまりとした棚田と段々畑が連なっている。山を開いた小さな田と畑では、本丸の食をすべて賄うのは土台無理な話だったが、辞めてしまうことはできないらしい。「刀剣男士っちゅう在り方を維持するんに必要らしい」と、本丸のはじまりの日からいるという刀は快活に笑った。
     本丸から見下ろす緑と土はやがて海へと続いた。ただ、山の裾野は海を抱き込もうとするように長く伸びていたため、水平線は遠く狭かった。
     海を臨む畑は珍しいと桑名は言った。大抵は潮で土が痩せるらしい。「風向きがいいんだね」と笑って、気持ちよさそうに海を眺めていた。松井が顕現したばかりの頃の話だ。今日の村雲のように、松井も桑名に見張られながら畑当番に勤しんでいたのだ。もっとも、そのときは松井の前に来たという桑名も本当に畑当番ではあったのだが。
     松井も顕現して初めて目にした畑の向こうの小さな海は不思議なほど心に残り、畑に来るといつも入江に視線が吸い寄せられてしまった。本丸から見える海はいつも青いといえば青いのだが、どこか墨の混ざったような薄暗い色をしている。
    「風向きがいい」と桑名の言った通り、本丸にいて潮の匂いはほとんど感じなかった。あんなに近くにあるのに、と改めて不思議に思い、松井は隣の村雲と言葉を交わしたついでに顔だけで振り返った。風が吹いて、棚田はまた遠い潮騒にも似た音を立てた。その奥で本物の波は、白い光の粒を浮かべていた。
    「なんでこんなところに本丸を作ったのかなあ」
    「さあ……元々本丸自体は、政府が各地に用意しているらしいんだ。それで、いくつか案内されたうち、主がここを気に入ったからここにした、と聞いたことがあるけれど」
     本当かどうかは分からないけどね、と肩をすくめると村雲も苦笑いした。
    「確かに景色はいいかもしれないけど、それはあそこで畑仕事をしないから言えることだよね……」
     松井は微笑むだけに留めた。実は以前、山姥切長義と似たような会話をしたことがある。本丸運営の庶務を片付けるために一緒になるうちに親しくなり、何かの拍子に畑仕事の愚痴になったのだ。
     ようやく母屋に戻ってくると、桑名が廊下の向こうから顔を覗かせた。
    「食堂、おにぎりあったよ」
    「分かった、今行く」
     玄関のそばには掲示板があった。近侍に内番、不寝番や待機番の割当て、そしてそれぞれの部隊の構成と、その部隊が今どこにいるかが一覧で分かるようになっている。その前を通り過ぎる間に、近侍に山姥切長義の名前の札がかかっていること、畑当番に自分と村雲の札があることをなんとなく視界に納めると、松井はついでのように第一部隊の豊前江と五月雨江、第三部隊に篭手切江の名札のあることを確認した。第一部隊は出陣、第三部隊は遠征に出ている。
    「雨さん、大丈夫かなあ」
     第一部隊の出陣先に「延享」と表示されていたことも覚えていた松井は、村雲の言葉には応えず、並んで食堂へと入った。
     朝食と夕食は支給されるが、昼食は自由に摂ることになっている。軽食を自分で用意するものもいれば街へ出向くものもいて、時には腕に覚えのあるものが振る舞ってくれることもあった。
     三人は朝の残りのご飯で作ったおにぎりをもらい、各々好みの即席スープを見繕って湯を入れると、四人掛けのテーブルについた。壁に連なった大きな窓からは陽の光が木々の間から降り注ぐのが見えた。本丸の周囲はまだ夏山の気配を残している。
    「いい天気だよねえ」
     同じように窓の外を見ていた桑名がこぼした。いつか海を眺めていたときのような、柔らかな表情だった。
    「夏って本当にもう終わったの?」
     椀の中の味噌汁を一口飲み込んでから、村雲が訊ねる。村雲にとっては顕現してから初めての秋になろうとしていた。
    「確かにまだ暑いよね」
     桑名がそう続けると、村雲は大きく頷いた。
     村雲は夏にバテて寝込んだ時期があったから、暑さに強い苦手意識が芽生えてしまったらしい。なぜバテたかといえば、季節の移ろいに目を輝かせる五月雨の季語探しにできる限りついていったからだ。練度を順調に上げていた五月雨と違って顕現したばかりだった村雲は、カンカン照りの太陽にやられるのも早かった。
     寝込む村雲も苦しそうだったが、五月雨の落ち込みようも見ていられなかった。尻尾を垂らした犬のように村雲のそばから離れようとしない様子に、松井は篭手切と顔を見合わせて苦笑いしたものだ。
     自分もどちらかといえば暑さは苦手だから、村雲の気持ちはよく分かる。松井は口許に手を当てて笑うと、村雲に語りかけた。
    「秋来ぬと、というだろう。きっとまだしばらく暑いよ。でも秋にはなっている」
    「ええ〜」
    「そのうち朝と夜は冷えるようになる」
    「何それ」
    「そうしていつの間にか昼間も冷えるようになって、気がつけば冬になっているんだ」
     松井の言葉に村雲は納得できないように首を捻った。理解できないのは当たり前だ。人の身を得て、まだ季節を過ごしたことがないのだ。
    「そうだね、多分季節を見つけるのは五月雨の方が得意だよ」
     桑名がそう言うと村雲は「確かに!」と目を輝かせた。
    「さっき畑でも思ったんだ、風が吹いて、草と土の匂いがして、雨さんが喜びそうだなあって」
     しゃがみ込みながらそんなことを考えていたらしい。昼食もいつの間にか食べきって、腹の調子も悪くなさそうだった。
     村雲の話を聞いたとき松井の脳裏にも、ざあ、とあの潮騒のような音が過ぎっていった。遠い海の色がちらついた。
     その一瞬で足許を攫われるような心地になったが、まばたきするうちにそれは治まった。ここは本丸の食堂で、あたりは真昼の光に満ち、目の前では村雲が笑い、その隣で桑名も微笑んでいる。
     静かに深く吸った息を細く吐くと、松井は自分の椀に残っていたトマトスープを飲み干した。とっくに冷めていたスープは喉の中で控えめに主張しながら流れ落ちていった。
     松井が椀を置くのを見計ったようなタイミングで、桑名が明るい声を出した。
    「じゃあそろそろ畑に戻ろうか」
    「げ」
     思わず声が漏れた。桑名は一層笑みを深くして、松井に言い聞かせるように言った。
    「大地も季節も、待ってくれないからね」
     そのまま午後の仕事の話を始めた桑名に松井は渋い表情を隠さなかった。目を丸くしてふたりの顔を見比べていた村雲も、その松井の表情に思わずといった感じで笑みをこぼした。

    「今日はここまでにしようか」
    「やっとか……」
     日が傾き薄暗くなってきた頃、ようやく畑当番が終わった。やることなすこと桑名に指示を出され続けた松井は頭の隅で「内番に割り当てられていないときの口出し禁止を進言しようかな……」と何度か考えた。賛成してくれるものもいるかもしれない。
    「水抜きもそろそろかな」
     まだ青さを残した穂に触れながら桑名が呟く。それを見ると、先ほどの考えはやはり却下されるだろうと思い直した。桑名が来てから田畑の管理は随分と効率的になったらしい。決して早い時期に顕現したわけではないのに、既に畑当番に関する責任者のような位置に納まっている。時には陸奥守吉行と話し込んでいることもあった。次に植える作物を相談しているのだという。
     村雲は収穫した野菜を眺めながらにこにこしていた。収穫自体が嬉しいというより、それを見て五月雨が喜んでくれるだろうことを想像しているらしい。
     村雲の顔を見てから、松井はまた海に視線をやった。昼間より墨を濃くしたような色をしている。
    「松井、帰ろう」
    「ああ」
     海を眺めていた松井は桑名の声に促されて本丸へと踵を返した。前では桑名と村雲が収穫物について話している。松井はそれに加わらず、篭手切の部隊の帰還予定は夜だったことを思い出し、豊前と五月雨の部隊はもう戻っているだろうか、と考えた。
    「雨さん!」
     畑仕事の疲れもあったのだろう。少し上の空になっていたから、村雲の叫び声を聞くまで庭の騒つきに気がつかなかった。
     審神者のいる執務室に面した狭い庭に、置き去りにされたようにある扉が、この本丸の時空転移装置だった。庭木に埋もれるようにしてある重厚な木製の扉は洋館に備えつけられているならばともかく、小さくも品のいい庭では浮いてしまっている代物だったが、今はそこに刀たちが集まっている。
     豊前に肩を支えられて項垂れていた五月雨は、村雲の声に反応して顔を上げた。顔の半分がべったりと血で汚れている。微かに開いた口は、おそらく「雲さん」と言おうとしたのだろう。
    「村雲」
     五月雨の許へ駆け寄った村雲を、追いかけていった桑名がやんわりと引き離した。
    「悪ぃな、すぐ手入れ部屋に連れてくからよ」
     いくらかましだが同じように血で汚れた豊前がそのまま五月雨を運んでいった。茫然と立ち尽くす村雲と、そのそばにいる桑名と同じように、松井もふたりを見送った。

     予定時刻に帰還した篭手切への説明は松井が済ませた。話の早い脇差は「では私は、今夜は村雲さんのお部屋にお邪魔しますね」と頷いた。居住棟は今後を見越してまだ空き部屋に余裕があったが、基本的には二口でひとつの部屋を使っている。本丸に顕現した順番に部屋を割り振った江の刀たちは、今夜は篭手切と村雲の同室者がいないのだ。
     すべて埋まった手入れ部屋では、修復にかかる時間が戸の横に表示されている。豊前は夜中に、五月雨は翌日昼前に手入れが終わる予定だった。
     松井は桑名と使っている部屋で、閉じたままの窓の向こうを眺めていた。開ければ夜風が心地好いだろうが、虫が入ってくるのが嫌で自分のいるときは桑名にも窓を開けさせなかった。
     ちょうど畑を見下ろせる位置のふたりの部屋からは、空と海の境目どころか畑も夜闇に沈みきっていた。時々その畑へと続く道のそばを、灯りを持った刀が通り過ぎていった。夜の見廻りの当番だ。そろそろ不寝番と交代の時間だろう。
    「……大丈夫かなあ」
     本を読んでいたはずの桑名が小さく溜息をついた。出陣すれば怪我はつきものとはいえ、重傷での帰還を目にするのは桑名と松井にとっても久しぶりのことだった。村雲にとっては初めてだったはずだ。
    「明日一緒に里芋を収穫しようって五月雨と話していたんだけど、やめておいた方がいいかな」
    「やめた方が気落ちするんじゃないか」
    「うーん、やっぱりそうだよね」
     手入れをすれば元通りに直るが、重い怪我のあとは非番が割り当てられるのがこの本丸の習いだった。手入れ札も時折政府の要請とともに開かれる戦場で連戦しなければならないときくらいしか使われない。審神者は自分の取り決めたその方針について、「傷むことに慣れてしまいたくない」と言った。
    「……五月雨は明日畑当番だったか?」
     思わず聞き流しそうになった桑名の「収穫」という言葉がかろうじて引っかかり、松井は窓の外から室内に視線を戻した。実務は得意だと常々表明していたために書類仕事や当番の割当てを任されることは多い。すべてを完璧に覚えているわけではないが、五月雨の名前は最近内番に組んだ記憶がなかった。
    「明日の畑当番は蜻蛉切様と小夜くんだよ」
     松井よりも桑名の方が畑当番のことを把握していた。いくらか明るさを取り戻したようで、声が伸びやかに続けた。
    「先週蜻蛉切様と里芋の収穫の話をしたときに五月雨も居合わせたんだ。収穫したいって言ってたから、じゃあ蜻蛉切様が当番の日にしようって約束したんだよね」
     五月雨も随分と畑仕事を気に入っているようだった。土から芽生えるものに季節の移ろいが映るようで、それを目の当たりにするのが楽しくて仕方がないのだろう。彼のいつも涼しげな表情の奥には、澄んだ感受性がなみなみと詰まっている。
     自分が海ばかりを眺めている場所で、五月雨は季節を探し、村雲は五月雨の影を見ている。足並みの揃わない、それでいてそれが自分たちらしいようにも感じて、松井は小さく笑った。
    「僕たちは全然違うな」
    「そりゃ、別の刀だしね」
     さも当然のように桑名が応じる。素っ気なくも感じる返事に松井はもう一度笑うと、再度窓の外に視線を移した。夜闇の中でも微かに庭の木の枝が揺れているのが分かる。
    「……僕はいつもあそこに行くと、潮騒を聞いている気分になる」
     ざあ、と流れるように葉が擦れる。違っているのはそれが帰ってこないことで、それでも、また風が吹けば同じように葉音がする。何度でも自分を通り過ぎていくだけの潮騒。
     本丸までは届かないのに、と呟く。暗い夜の向こうに海は変わらずあるはずだが、やはり見えなかった。
    「潮騒かあ……」
     桑名は先ほどよりは感心したような声を出すと、松井のいる窓際まで膝立ちでやって来た。そうして松井のすぐそばで、自分の大きな手をふたつ広げてみせた。
    「前に陸奥守から聞いたんだけど、こうすると潮騒みたいな音が聞こえるって」
     言い終わると桑名は柔らかに開いた掌で松井の耳を塞いだ。
     遠くから響いてくるような低い音が聞こえた。松井のそれまで思い返していた潮騒とは違い、音に周期や大きさの波はほとんどなかった。ただ、桑名の温かい手から聞こえるのが意外に思えるような物騒がしい、それでいて底知れない音だった。
     しばらくすると桑名は手をそっと放し、「どう?」と囁いた。
    「僕はあまり波音や潮騒ってぴんと来なくて、自分で聞いてもそうなんだって感じだったんだけど」
    「そうだな……」
     部屋の明かりに、桑名の日に焼けた掌が少し赤みがかって透けて見えた。かつて物だった自分たちは今、仮初の肉体を得て、そこには血潮まで流れている。
    「……どうなのだろう」
     松井が首を傾げると、桑名も同じように首を傾げた。しばらく向き合ったまま、松井は桑名の掌の潮騒について考えてみたが、改めて考え出すと今まで自分がぼんやりと潮騒だと思っていたものが本当はどういうものだったのか、分からなくなってしまった気がした。
     目を伏せて考え出した松井に、桑名は一足先に傾げた首を戻すとにっこり笑った。
    「まあ、そのうち実際に行って聞いてみればいいか」
    「え?」
    「海。見えるところにあるんだからさ。まとまった時間が取れる日があるといいなあ。見えてはいるけど、波打ち際までは結構時間がかかるんだって」
    「それも、陸奥守から?」
    「うん。あ、海鳴りを聞いたこともあるって言ってたよ」
    「海鳴り」
    「そう、波音や潮騒とは違って、もっと物騒な、割れるような音がするんだって」
    「そんなものいつ聞いたんだ」
    「何年か前の、大きな嵐が来たときって言ってた。大きな波が崩れてたてる音で、雷に似てるって」
    「へえ」
     そんな嵐の日にどうして海の音の聞こえるような場所にいたのか、と頭の片隅に浮かんだが、松井はすぐ今考えても分かるはずがないと疑問を置いておくことにした。
    「せっかくなら皆で行けるといいな」
    「そうだね」
     五月雨なんかは特に喜ぶだろう。海を前に目を輝かせる姿は容易に想像がついた。そしてそれに村雲が嬉しそうな顔をするところも。
     それまで明るく会話をしていたふたりはどちらからともなく黙り込んだ。これからの話は、自分たちの同胞が今手入れ部屋で深い眠りに落ちていることを思い出させた。日々に隠れるようにしてある機微を探り当てる彼の、ひいては自分たちの日常は、続くと思っていた道筋から突然投げ出されることがある。
     今日は運よく帰ってこれた。けれどもそれは、当然ではないのだ。
     座っているはずなのにまた足許のぐらつくような心地がして、松井はゆっくりまばたきした。桑名はそうした松井の様子には気付かなかったようで、「五月雨、里芋持っていったら喜んでくれるかなあ」と呟いた。
     声は萎んでいるのに、どこか呑気に聞こえる言葉に松井は思わず笑いそうになった。そうすると、得体の知れない所在なさは去っていって、自分は参加しない里芋掘りのことを思った。修復のあとは安静に、というのに異論はないが、少し畑に出るくらいは許されるのではないだろうか。何なら明日、主に確認でもとってこようか、と言いかけたとき、部屋の戸を叩く音がした。
    「松井はいるか? ああ、桑名もいるのか。ちょうどいい」
     顔を見せたのは山姥切長義だった。
    「どうかしたか?」
    「いや、ただの連絡だ。さっき近侍を交代したから、戻るついでにね……今日の五月雨には手入れ札を使った。そのまま手入れ部屋で寝かせているが、朝には普段通り目を覚ますだろう」
    「なぜ手入れ札を?」
     松井の問いに長義は薄く笑って、簡潔に応じた。
    「あの状態の五月雨を目の当たりにした新入りの村雲江を落ち込んだままにしておきたくない。今日の遠征で予定通り手入れ札の備蓄は増えた。……普段使うのを絶対禁止している、というわけではないからな。それに」
     里芋を楽しみにしていると以前言っていたしね、と付け足された言葉は桑名に向けられたものだった。ぽかんとした顔をしていた桑名はその言葉にぱっと笑顔を浮かべた。
    「ありがとう。でもいいのかな、普段なら札を使わないでいるのに」
    「まったく先例がないわけではないんだ。これまでの記録で特別合戦場に赴いた際の消費量も分かっているんだし、ある程度足りている場合は俺はどんどん使っていいと思うけどね。まあ、そこは主の方針だが」
    「そうか……」
    「言いたいのはこれだけだ。篭手切と村雲にはそっちが伝えてくれ。俺はまだ、村雲とはあまり口を聞いたことがないから」
    「ああ、分かったよ。ありがとう」
     もう一度礼を言うと長義は涼しげに微笑みだけ返して去っていった。なんとなく足音が遠ざかるのを聞いてから、桑名が「僕、行ってくるね」と立ち上がった。
     どこか嬉しそうな様子が隠せないでいる桑名の後ろ姿を見送ったあと、松井はひとり部屋に残って、自分も行けばよかったかな、と思った。ただ今から桑名を追いかけていく気にもなれず、ぼうっと部屋の中を見たあと、ふと思い出して自分の両手で耳を塞いでみた。
     桑名の掌から聞こえたのと同じように、低い音が響いていた。自分でそうしてみると、この音をずっと知っていたような気もした。
     自分の掌から聞こえる音に耳をすませながらやがて目を閉じ、松井は目蓋の裏を見つめた。その暗闇が夜闇と何ら変わらないことに思い当たると、葉擦れに思い起こした海の響きも、最初から自分の身の内にあったのだと気付いた。
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    ma99_jimbaride

    PASTへし切長谷部の駈込み訴え。
    ミュの配信見ていて長谷部よかったな……すごくよかった……となったので引張り出してきました。中身はもうまったく関係ないです。本当に。
    しかしきっとこの長谷部も「忘れることにしたからあの方は俺の執着で汚されることはない」と考えているでしょう。

    アーカイブ配信を待って暮らします……。
    哀訴嘆願 申し上げます。申し上げます。主。あの男は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い男です。ああ。我慢ならない。死んで当たり前だ。
     はい、はい。落ち着いて申し上げます。あの男は、死んで当然だったのです。狼藉ばかりの男だ。言うまでもない、恨まれていた。多くの人間から、恨みを買っていたのです。いつ死んでもおかしくなかった。
     確かにあの男は俺の主でした。俺に名前を付けた男です。俺を俺たらしめる、最初の符丁を与えた男です。しかし、それが何だというのです。あの男は、自分が名付けた物を、そうして周りから選り分けた特別を、簡単に手放してしまえる男だった。俺に「俺」という枷を与えておいて、俺を突き放した。
     ええ、あの男は俺の主でした。その頃慕ったことがなかったと言っては嘘になる。しかし、刀などというのは皆そういうものです。持ち主に何らかの想いを抱かずにはいられない。それが敬愛であれ、憎悪であれ、愉悦であれ。俺たちはそういうものだ。よくご存じでしょう。
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