目隠しをされてでもいるような闇の底で、薫は浅く息をしている。
深い呼吸を妨げているのは、着物の胸の上を幾重にも横切っている頑丈な麻縄だ。その縄によって、薫の両腕は身体に密着させられ、両の手首は固く戒められている。
は、と息をこぼす薫の背後で、誰かが縄の端をぐっと引いた。薫はわずかにのけぞり、かぶりを振って抵抗の意思を示す。うっすらと笑う気配がして、頭の中に直接、艶めいた囁きが響く。
(どうして? こうされたかったんだろう……?)
薫は目を閉じ、唇を噛む。
背後の誰かが、今度ははっきりと声を立てて笑う——
閉店後のシア・ラ・ルーチェ、定位置のカウンター席で虎次郎と並んで酒肴とワインを楽しみながら、薫はふと、今朝見た夢について打ち明けてみる気になった。
大口の契約がまとまって気分がよかったことに加えて、ワインボトルを掴んだ虎次郎の手つきに、腹の底の欲を刺激されてしまったのだ。
「虎次郎」
カウンターに置かれた虎次郎の手の甲を、扇子でつぅっと撫でる。「なんだよ」と鬱陶しげに応えた虎次郎だが、頬杖をついて向けてくる視線は温かい。そのことに勇気を得て、薫は言葉を続けた。
「おまえ、昔、年上の女の緊縛趣味につきあわされたことがあるって言ってたよな」
怪訝そうに眉をひそめながらも、虎次郎はうなずく。
「縛り方って、まだ覚えてるか?」
「簡単なのなら、まあ」
なぜそんなことを訊く? と問いたげな虎次郎に、薫は率直に切りだした。
「いちど俺を縛ってみてほしい」
虎次郎の両目が限界まで見開かれる。
「は」
「縄はこちらで用意する」
「ちょ、っと待て!」
ガタン、と椅子ごと後ろへ退いた虎次郎が、片手で口許を覆って呻く。
「えっ……おまえ、そういう嗜好があんの……?」
「経験があるわけじゃない」
薫は、夢の光景をかいつまんで話した。
「このところ、あまりに何度も同じ夢を見るものだから……いっそ実際に縛られてみれば、気が済むんじゃないかと思ってな」
薫の説明に、虎次郎は髪をぐしゃぐしゃと掻き回して溜息をつく。
「服の上からでいいんだ。どんな感じがするものなのか……」
「それを俺に頼んでくるおまえの神経が、理解できねぇよ」
虎次郎は深緑色の前髪の下から薫を睨んできた。
「着衣でも、エロい気分にはなっちまうと思うんだけど?」
薫は目をしばたたく。
「でも……おまえには、抵抗できない相手を襲う趣味はないだろ」
「この場合、信頼されてることを喜べばいいのか?」
いつもよりも暗い色をした瞳で薫を見据えて、虎次郎は自嘲気味に笑った。
「俺が断ったら? 他を当たる?」
困惑気味にかぶりを振る薫に、虎次郎は「噂になったら困るもんなぁ、桜屋敷センセ」と目を細める。薫はうなずき、虎次郎を見つめた。虎次郎が「分かった」と引き受けてくれることを期待して。
だが、唇を笑みの形に歪めた虎次郎はうつむいて瞼を伏せると、首をゆっくり左右に振った。
「誰でもいいわけじゃないのも、俺にしか頼めないってのも分かる、けど……悪い、こればっかりは手伝ってやれない」
とぼとぼと夜道を歩きながら、薫は溜息をつく。
「意識しすぎだろうが、色欲ゴリラめ……!」
今日はもう虎次郎の家に泊まるつもりでいたのに、やんわり「帰ってくれ」と促され、店の外へと押し出されてしまったのだ。
「『エロい気分になっちまう』だと? そんな理由で……クソっ」
さんざんに罵倒しながらも、ほんとうはちゃんと分かっている。「エロい気分」になった虎次郎のことを、薫には受け容れる用意がない、だから断られてしまうのだ、と。
虎次郎が最初に「薫のことが好きだ」と告白してきたのは、小学五年生のときだった。「俺も、おまえのことはキライじゃないが」と答えた薫に、頬を真っ赤に染めた虎次郎は「意味分かってるか?」と詰め寄ってきた。
「薫の夢で、もう何回も夢精してる」
あのときは、とっさに殴りつけて逃げ帰り、一週間近く口をきかなかった覚えがある。
不快感よりも驚きが大きかった。当時から、虎次郎は女子たちにモテていた。本人もそれを楽しんでいるように見えた。なのに、男の自分を性的な目で見ていることを打ち明けられて——理解が及ばず、突き放すしかなかったのだ。
一週間後、久しぶりにいっしょに登校する道すがら、薫は虎次郎に告げた。
「おまえが俺のこと、どういうふうに見ていようと、俺は気にしない。見返りを要求されないのなら、別に」
薫のこの宣言に、虎次郎は神妙な顔をしてうなずいた。
以来、薫はずっと、虎次郎のもどかしげな吐息も熱っぽい視線も、ためらいがちに肩にのせられる掌も、軽く受け流して生きてきた。
酷なことを強いている自覚はあった。だから、中学生になってすぐ女子と付き合いはじめた虎次郎にも文句は言わなかった。「俺のこと、もう好きじゃなくなったか?」とだけ尋ねてみたら、怒ったような困ったような泣きだしそうな顔で「ンなわけねーだろ」と吠えられたので、かわいそうになと思いながらも、いたく満足した。
薫自身が精通を迎えたのは、中学一年生の終わりごろになる。定期試験と書道の昇段試験とが重なったストレスを発散させようと、マスターベーションを試みたのだ。虎次郎から「気分がすっきりする」と聞かされていたからだけれど、性器を摩擦して精液を放出する行為は、生理的な快感はあれど精神的な昂揚はもたらしてくれなかった。俺はこういうことには向いていないんだろう、汚れた手を洗いながら薫は思った。
高校生になって、虎次郎と女たちとの関係が肉体的な交わりを伴うものへと変化してゆくのを、薫は「当然のことだ」と冷めた目で眺めていた。年上、年下、同級生、他校生……いろんな女たちとめまぐるしく付き合いながらも虎次郎は薫の隣にいつづけたので、問題はなかった。
イタリアへ行く、と告げられたときにはさすがに唖然としたが、それだって「俺の作る料理で薫を唸らせたい」といういじらしい動機によると分かっていたので、何の不安もなく送り出してやれた。
帰ってきた虎次郎は、筋骨隆々とした立派なゴリラに変貌していたが——子どもっぽい口喧嘩の応酬も薫に向けられる切々とした眼差しも、渡伊前と変わるところはなかったので、薫は安心して、自分のために用意されている椅子に座りつづけた。
これからもずっと、こんなふうに続いてゆくのだと思っていた。虎次郎が薫を好きでいることも、薫が虎次郎を手離すつもりのないことも、揺るがないのだから、薫の理不尽な要求に虎次郎が応じつづけるかぎり、ふたりのあいだに変化が訪れることなど決してない。そのはずだった。それなのに。
通販で手に入れた麻縄で、薫は自分を縛ってみることにした。
インターネットで検索すれば、手順を詳解したサイトがいくつも見つかる。タブレットに表示させた写真を参照しながら、両脚に縄を巻きつけてゆく。
「……こんなところか」
縄の端を始末して、薫は自分の脚を見下ろす。膝は曲げられるように縛ったので、どうにか立ち上がることもできた。姿見に正面から映してみる。膝下を縄でぐるぐる巻きにされたみじめな男が突っ立っている——それだけだった。苦い笑いが漏れた。
「俺が求めているのは、これではないな」
ほどいた縄を束ねて、箪笥の抽斗のいちばん奥にしまう。二度と使うことはないだろう、と思いながら。
そして、今夜も——薫は、墨を流したような漆黒の淵にいた。
両腕は後ろで戒められ、揃えた両脚にも縄、完全に自由を奪われた状態で仰向けに横たえられている。
青い畳の匂いが鼻腔を突く。ざり、とそれを踏む足音。
近づいてきた相手が薫の腰を跨ぐのが分かった。視覚は奪われていても、相手の体格が自分より上であることは感じ取れる。
頭の芯が痺れて——「これは〝恐怖〟だ」と薫は認識する。だが、暴れたり抵抗する気は起きない。薫の望みに応えて両手両脚を縛ってくれたのが、他ならぬその人だと分かっているためだ。
大きな手が、薫の胸を横切っている縄の調子を確かめてくる。薫がフゥッと息を吐いたら、胸が上下したことを咎めるみたいに、硬い指先が薫の鳩尾をごく軽く押さえつけてきた。
目を閉じても開いても変わらない暗闇の中で、薫はせわしなくまばたきをする。
ああ、自分は今、生殺与奪の権を握られている——
寝覚めは最悪だった。下着の中がぬるついている。
「は……中学生かよ」
いや、中学生だったころだって、薫はこんな頻度で夢精に見舞われたことはなかった。ストレスが溜まっているのだろうか? 重たい溜息をつきながらのろのろと起き上がり、浴室へと向かう。
ざっと手洗いした下着を洗濯機に放り込み、頭から熱いシャワーを浴びる。見下ろした脛に、うっすらと赤い縄目が浮かび上がるのが見て取れた。すぐにほどいたから痛みはなかったけれど、力をかけすぎていたのだろう。
脛を掌でさすりながら、夢の中で胸を撫でてきた手の感触を思い起こしている。
薫は、あの手を知っていた。あんなふうに、あからさまな欲をまとって触れられたことはなかったけれど、いつも薫の傍らにあった存在。殴られた怪我からくる熱にうなされていたとき、額の髪をそっと掻き分けて汗を拭ってくれたのも、あの手だ。
「くそ……ッ……」
込み上げてくるものを抑えきれず、薫は膝を抱えてしゃがみ込んだ。全身を叩くシャワーの湯が、髪を肌を伝い落ちて、渦巻きながら排水溝へと流れ込んでゆく。
縛ってくれと頼んで断られたあの日から、虎次郎とはいちども会っていない。
これまでだって、お互いに忙しければこれくらいの間隔が空くことは珍しくもなかった。それなのに、今回に限って気になって仕方がないのは、あの日、虎次郎から突き放されたと感じているからなのだろう。
「どうして……」
薫は呻く。誰でもいいわけがなかった、虎次郎にしか頼みたくなかった、それなのにどうして、虎次郎は薫を拒むのだろう。
手伝ってやれない、と薫に告げてきた虎次郎の、あらかじめ何かを諦めているみたいな表情が、固く閉じた瞼の裏側でなんどもなんども再生される。
どうすれば、引き受けてもらえた? 薫が虎次郎曰くの「エロい気分」を受け止めてやりさえすれば、事は解決するのか——?
薫は自嘲しながらかぶりを振る。いくらなんでも、それほど単純な話だと考えるのは、虎次郎をバカにしすぎだろう。
久方ぶりの週末開催となったSは大いに賑わっていた。
「チェリー! 久しぶりだね!」
広場に顔を出した薫に、年下の友人たちが声をかけてくる。
「元気にしてた?」
「ああ。おまえたちは?」
会話しながらさりげなくあたりを窺っている薫に、実也が目敏く気づく。
「ジョーなら、さっき向こうにいたよ」
「……別に、あいつを探してたわけじゃない」
そう? と実也は小首をかしげる。
「ジョーは『薫、来てないのか』って寂しそうにしてたけどな」
口当ての下で、薫はきつく唇を噛んだ。そうしないと、表情がゆるんでしまいそうだったのだ。
「軽くコースを流してくる」
薫は、ボード型カーラに飛び乗った。それなりの速度で滑り降りながらも、道の両脇に立つ人々をチェックしてゆく。虎次郎の姿は見当たらない。廃工場が近づいてきて、コース沿いにはいないのかもなと思った矢先、露出度の高い女性たちに囲まれた小山のような筋肉が目に飛び込んできた。
何人か集まっている女性たちは、みなボードを手にしている。虎次郎は請われてアドバイスをしているようだ。ボードの上に立っている一人の手を支えてやって、何事かを告げていた。背中を向けているので、薫には気づいていない。
速度を落とさないまま背後を通過してしまおうとしたとき、「きゃっ!」という短い悲鳴が上がった。
薫は思わずそちらへ顔を向けた。バランスを崩したのだろう女性を、虎次郎のたくましい腕が抱きとめている。華奢な腰を掴む大きな掌。女性の細い腕は虎次郎の背中に回されている。
気を取られたのはほんの一瞬、そのわずかな隙が、車輪に小石を噛ませた。
「ッ……!」
危うく転倒しかけた薫は、とっさにボードから飛び降りた。ボードは薫を残したまま数メートル先まで滑っていって、自動ブレーキで停止する。舌打ちをしながら回収に向かおうとした薫の腕を、引き止めるものがあった。
「薫、来てたのか」
「おい、離せ」
薫は虎次郎の手を振り払おうとする。だが、指の力はゆるまない。
「ちょうどよかった。おまえに話がある」
俺にはない、とは嘘でも言えなかった。薫も虎次郎と話がしたかったのだ。だが、ここは目立ちすぎる。それに。
「……俺にかまうな。女どもの相手をしてやれ」
薫が、虎次郎が戻るのを待っている女性たちのほうへ顎をしゃくってみせると、虎次郎は「おまえと話がしたいって言ってんだろ」と、あからさまに拗ねた様子で唇を尖らせた。今ではもう薫にしか見せない、子どもじみた表情。
鳩尾に、じわり、と熱が滲む。
「分かったから、離せ」
「離しても逃げねえ?」
疑り深く睨んでくる虎次郎の指は、薫の手首を簡単に一周してしまっている。拘束感にめまいがしそうだった。
「逃げる理由がない」
薫の答えを完全には信用していない態度のまま、それでも虎次郎は力をゆるめてくれた。薫は急いで手を引き抜く。きつく戒められていた手首から先へ、一気に血が通いはじめる。
痺れている手首をさすりながら、薫は虎次郎に告げた。
「一時間後、うちに来い」
虎次郎が、虚を衝かれた表情を見せたあと素早くうなずいた。
急いで帰宅してシャワーを浴びた薫は、長襦袢だけを羽織ると、箪笥の奥から麻縄を取り出した。
姿見の前に膝をつく。顔を起こせば、向かいあった鏡の中から、青ざめた頬をした己がこちらを見つめてくる。
薫自身にさえまだ完全には掴めていないこの衝動を、虎次郎に理解してもらうことが、果たして可能なのだろうか——
長着の裾を整えて帯を締めたところで、インターフォンが鳴った。
「よう」
三和土に立つ虎次郎の髪はしっとりと湿っていて、シャワーを浴びて着替えてきたと知れる。
「上がれ」
虎次郎が靴を脱ぐのを待たず、薫は廊下を歩きだす。ぎ、ぎ、と重たい足音がついてくるのを耳と背中で確かめながら、奥の私室へと足を運んだ。
「で? 俺に話したいこととは?」
畳に正座をした薫の正面に、虎次郎も腰を下ろす。胡座をかいて前かがみの姿勢になると、上目遣いに薫を見上げてきた。
「あれから、よく考えてみた」
目が合う。どく、と心臓が跳ねる。
「薫に『縛ってほしい』って言われて……なんでだか分からないけど、無性にイヤだった理由」
虎次郎は、あの日に見せたと同じ表情をしていた。唇に湛えられたかすかな笑み、何もかもをはなから諦めているような眼差し。
「見返りを求めないなら、薫を好きでいてもいい——最初に、そう言われてただろ。許されて、傍にいられるだけで、充分だ、満足してる。自分でも、ずっとそう思ってきたんだけど」
明るさを抑えてある照明の下、虎次郎の瞳は煮詰めた飴のような色をしていた。その湿った表面を、濃い睫毛が翳らせる。
「やっぱり俺は、心のどこかでは……いつか薫が根負けして、俺を受け容れてくれることを期待してたんだと思う」
薫は膝の上の拳を握りしめた。掌に爪を食い込ませていないと、身体が震えだしてしまいそうだ。
「だからさ、薫が俺をひとかけらも警戒してないなら、今もこの先も、まるで望みはない……そう感じて、苦しくなっちまった」
ごめんな、と虎次郎は笑う。
「おまえを諦めて、好きじゃなくなって、ただの幼なじみになれるものなら、おまえの願いを叶えてやれるのにな」
どうしても無理だ、低く呻いて、虎次郎は片手で目許を覆った。
「好きだ、薫……どうしても」
それきり黙ってしまった虎次郎に、何を言ってやるのが正解なのか、薫にはまったく見当がつかない。それでも、このままでいいわけがないことは分かる。
薫は、正座をしたままで虎次郎ににじり寄った。
手を伸ばし、目を覆っている虎次郎の手を外させる。虎次郎が恨めしげに睨んできた。子どものころ、口喧嘩で薫にやり込められたときと同じ顔をして。思わず笑みをこぼした薫に、虎次郎は「何が可笑しいんだよ」と凄んでくる。薫はゆっくりとかぶりを振った。眉間にシワの寄った虎次郎の顔を覗き込む。
「謝るなよ」
虎次郎が目をしばたたく。
「俺を好きじゃなくなったおまえは、もうおまえじゃないだろ」
薫の尊大な発言に、虎次郎は苦笑を漏らす。
「それは、そうかもしれないけど……ひでぇな」
掴んだままだった虎次郎の手を、薫は握り直した。
「俺がおまえを怖がらないのは、警戒していないからじゃなくて」
そこまで言って、いちど、唾を呑み込む。伝わるだろうか。
「おまえになら、何をされたとしても怖くないからだ」
虎次郎の指先がわなないた。
「……薫、それって、どういう」
薫はフッと唇の端をもたげると、虎次郎の手を胸許へと引き寄せた。着物の上から鳩尾に掌を押し当てさせる。目を眇めた虎次郎が、訝しげにつぶやく。
「硬い……?」
薫は虎次郎の手を離した。着物の衿に両手をかけて、ゆっくりと左右に開いてゆく。喉を鳴らして息を呑んだ虎次郎が、次の瞬間、大きく目を瞠る。
「な……」
萌葱色の長襦袢の上を麻縄が走っている。複雑さはないが、胸筋のふくらみが強調される縛り方だ。
「自分で……?」
薫はうなずいた。
唇を震わせた虎次郎が、縄の結び目におずおずと指を這わせてくる。薫は、は、と息をついた。胸を戒めている縄が、呼吸に合わせてかすかに軋む。
「おまえに断られて……正直、ショックだった」
先を促すみたいに虎次郎は薫を見つめてくる。薫は睫毛を伏せた。
「『どうしてだ』って腹が立ったし、失望したし、悔しくもあった。おまえにだけじゃなく、自分自身に対してもだ。女たちのように、おまえの求めに応じられればよかったのか? 我慢して身体だけを差し出す? それで、おまえは満足か?」
虎次郎が弾かれたようにかぶりを振るのが伝わってきた。
「薫、俺、そんなつもりじゃ」
「分かっている」
深くうつむいたまま、薫は上体を傾けた。虎次郎の肩に額がぶつかって止まる。深呼吸をひとつ——シャンプーとボディソープと、Tシャツに染み込んでいる洗剤や香辛料と、虎次郎自身の肌から立ち昇ってくるかすかな汗の匂い、それらが濃密に混ざりあった温かな気体が、薫を外側からも内側からも浸してゆく。たまらなくなって、薫は目の前の肩に噛みついた。虎次郎は「い、ッ」と呻いたが、わずかに身じろぐだけで、薫を突き放そうとはしない。
もう一回、深く深く息を吸ってから、長く吐き出して……薫は、虎次郎の胸に両の拳を叩きつけた。
「こんな……こんなふうに、みっともなくてぐちゃぐちゃで、どうしようもない気持ちにさせられる相手なんて……俺には、おまえしかいないのに」
それでもダメか? それだけじゃ、ダメなのか? 悲鳴のような薫の訴えは、虎次郎の腕に抱きとめられる。苦しいほどの力。
「ダメじゃない、薫、ダメなわけがないだろ……!」
薫が自分で自分にかけていた縄は、虎次郎が、すべてきれいにほどいてくれた。
「どうしてほしい?」
束ねた縄を手に尋ねてくる虎次郎を、薫は真正面から見据える。
「腕と脚とを、動けないように縛ってほしい」
真剣な目をしてうなずいた虎次郎が、薫をまず後ろ手に拘束する。
「苦しくないか?」
「へいきだ」
頬を上気させてうなずく薫の頭を、虎次郎の大きな掌がひと撫でしてきた。思いがけない心地よさに、薫はほぅっと息をつく。
「痛かったら、すぐに言えよ」
背中側で手首を束ねた残りの縄を、長襦袢の上から胸の上下へと走らせて二の腕ごと上体を縛ってしまうと、虎次郎は薫を仰向けに寝かせた。
「どう?」
薫は、はぁッ……と熱くなった息を吐き出す。やはり手先が器用なのだろう、ゆっくりと丁寧に施された虎次郎の縄は、ほどよい締め加減で薫を拘束している。抱きしめられてでもいるみたいだ。
「気持ち、いい……」
そっか、とうなずいた虎次郎は新しい縄を手に取ると、薫の足の側に移動した。しゅるりと縄をしごく音、足首をぐいと掴まれる。反射的に身をわななかせてしまったら「だいじょうぶか?」と覗き込まれたので、薫は微笑んでみせた。
「続けてくれ」
「きつすぎたりしないな?」
「問題ない」
なんども薫に確認を取りながら、足首から脛、膝を越えて太腿にまで、虎次郎は縄を巻きつけてゆく。薫はもう、自力では起き上がることができない。
「怖いか?」
「怖くは、ない」
相手が虎次郎だから——こうして自由を奪われても、無防備に急所を晒させられても、頭の芯が痺れたみたいになって動悸はするけれど、恐怖心は湧かない。夢の中とは、まるで違う。
波にたゆたうような浮遊感と、不自由なのに覚える安堵に、薫はうっとりと溜息をついた。縄に巻き込んでしまわないようゆるく編んで前へ回していた髪を、優しく撫でられる。もしかしたら自分は、これまでもずっと、この手にこうして触れられてみたかったのかもしれない……そんなふうにも思えてくる。
髪を撫でていた虎次郎の手がゆっくりと持ち上がり、薫の輪郭を包み込む。薫は首を傾けて、温かなその掌に頬をすり寄せた。切羽詰まったみたいな低くかすれた声で「かおる」と呼ばれる。
「……キスしたい。してもいい?」
薫は黙って目を閉じた。ごくりと唾を呑み込む気配のあと、ふ、と頬に息がかかり、温かくかさついていてやわらかなものが、こわごわと唇の端に押し当てられた。あまりに一瞬で離れてしまったので、驚いた薫は声を立てて笑う。
「なっ、なんだよ!」
「今のがキス?」
ムッとしたみたいに唇を尖らせた虎次郎が、薫の頭の両脇に勢いよく手をついてきた。今度は目を閉じないまま、薫は虎次郎を待ち受ける。鼻先が触れ、吐息が混ざりあって、虎次郎の唇が薫の唇に、すり、とこすりつけられた。それを合図に、薫は唇をわずかに開いてみる。ぴく、と震えた虎次郎の唇も開かれて、伸ばされた舌先が薫の唇をなぞってきた。薫は自分も舌を差し出す。敏感な先端同士が触れあって、電流みたいな痺れが駆け抜ける。
「っ、ぁ……」
思わず、鼻に抜けた声が出てしまった。虎次郎が笑うみたいに喉を鳴らす。悔しくなった薫は、舌を引っ込めると反動をつけて頭を起こした。額に額がぶつかる。
「痛ぇ……!」
「ふん」
ごろりと横を向いてしまった薫を、虎次郎が背中から抱きしめてくる。うなじに口づけられて薫は身をすくめた。くすぐったい。
「薫、すげぇいい匂いがする」
「……離れろ、暑苦しい」
「もう少しだけ」
いいだろ? と囁く虎次郎の全身がひどく熱いことにも、尻に当たってくる下腹部が質量を増していることにも、薫はもちろん気づいているが、虎次郎が何も言ってこないので、仕方ない、今日のところは見逃してやるか……と思う。
「……こじろう」
全身をぎゅっと包んでいる縄の感触と虎次郎の体温に、ふわふわと酔ったような心地になりながら、薫は囁いた。
「ありがとうな」
小さく笑って腕に力を込めてきた虎次郎の胸に、思いきりもたれかかる。
薫の肌も潤んで火照っていること、揃えられた両脚のあいだが疼いていることに、果たして虎次郎は気がついているのだろうか?
「そろそろほどこうな」
名残り惜しさを感じながらも、薫はころんと転がって虎次郎から離れた。
縄を解かれながらふと見上げてみたら、自分を映す虎次郎の瞳があまりにもやわらかな光を湛えていたので、心臓を握られたみたいにうろたえてしまう。かろうじて表情には出ていなかったと思うのだが、虎次郎はしあわせそうに目尻を下げ、薫の額に唇を落としてきた。薫は焦って、舌打ちをする。
「許可なくするな、ボケナス」
「えー……さっきのが、まだ有効だろ」
至近距離で睨みあい——薫が先に視線を逸らしてしまったら、虎次郎は笑いながら目許と頬にも口づけてきた。からかわれているみたいで悔しい、けれども厭ではないのだった。不思議だ。
「どこも、傷めたりしてないか?」
薫はうなずき、完全に自由になった身体を起こす。縄で戒められていた箇所の隅々にまで、真新しい血液が流れ込んでくる実感。
手首をさすっている薫を見て、虎次郎が「その痕、明日までに消えるかな」と眉根を寄せる。「消えるだろ」と薫は答える。消えなくてもいいのに、ほんの一瞬そう考えてしまったことは黙っておく。痕がすっかり消えてしまっても、今夜ふたりを繋いだ出来事はふたりの歴史に刻み込まれて、消え去りはしない。それに虎次郎は、薫が求めるならば、きっとなんどでも応じてくれるだろう。薫はもう、そのことを疑わないのだった。
目が合って、虎次郎がまた、甘やかな眼差しを見せる。それを受け取るだけで、ひたひたと満ちてくるものがある。
薫は手を伸ばすと、虎次郎の肩を引き寄せた。頭をもたせかける。虎次郎の腕が、薫の背中を抱き返してくる。温かい。
「おまえ、今日はもう泊まっていけ」
「え、いいのか」
朝メシ作ってやるよ、と虎次郎が笑う。何がそんなにうれしいんだか、とこちらまでつい笑いだしたくなるような顔をして。
「好きだよ、薫」
こめかみに触れてきた唇の感触に、薫は首をすくめる。
いつか、と虎次郎は言った。薫が根負けして虎次郎を受け容れることを期待していた、と。その日は、思いのほか遠くなく訪れるのかもしれなかった。凍てつく冬のあと、ある日突然に季節がリセットされて、桜の蕾がいっせいにほころびはじめるみたいに。