ふたつの天秤 先生、先生。あなたの心に傷を残せるのなら、私の命など惜しくありません。どうか殺してください。
私が先生と出会ったのは、ある病院の診察室でした。異動によって担当医が変更になったのです。一目ぼれでした。纏う空気は陰鬱で、目ばかりが赤い凶星のごとく煌々と輝いている人でした。
通院のたびにお手紙も贈り物も渡そうとしましたがすげなく断られ、そのうちに通院間隔は広がっていき、このまま接点が無くなってしまうと危ぶみました。しかし、神様は私を見捨てませんでした。病が再発したのです。再手術の運びとなり、私は先生担当の元入院しました。この1週間が私の人生で最も幸せな時間だったと思います。先生は忙しいスケジュールの合間を縫って朝と夕に様子を見に来てくださって声を掛けてくれました。それがどんなにうれしかったことか。
退院してからも先生の元へ通い、術後の経過観察を受けました。そんなある日、再々発が見つかったのです。私の病は大変しぶといようで、先生の手腕を以てしてもどうにもならないほど全身に広がってしまっていました。先生は私に内科への転科を勧めました。全身への治療を行うのは内科の担当で、その選択を取ったほうが見込める生存期間は長いと。私は考えさせてくださいと言いました。先生が今の私の生きる意味でしたから。
持ち帰って考えて、ふと思いついたのです。どうせ死ぬのなら先生の人生に残る死でありたいと。ただの患者としてではない死に方を。
そうして今、私は暗い道の真ん中に立っています。金曜日の遅い時間、先生は必ずこの道を通るのです。
カーブの向こうから眩しいヘッドライトが見えた次の瞬間、私の体は宙へ弾き飛ばされました。四肢がもげて内臓がぐしゃりと潰れるような激痛は一瞬で、私の短い生涯はひとつの夢を叶えて幕を閉じました。
*
一瞬の出来事だった。カーブを曲がった直後に白い人影が見え、ハンドルを切るのも急ブレーキも
間に合わない。ぶつかると思った次の瞬間、激しい衝撃が来てオレが座る助手席のエアバッグが作動した。体が前方へ投げ出されるのをシートベルトが食い止める。心臓が激しく脈打つ。真っ白な頭に最初に浮かんだのは運転席の村雨のことだった。
「村雨!大丈夫か!」
村雨はふらふらと焦点の定まらない目をしながらシートベルトを外そうとしている。まるでそれが本能のように車外の人間のもとへ行こう、助けようとしているのだとわかった。村雨は正しい。善良さの欠片でも持っているのであれば、救急車を呼び警察を呼んで、しかるべき対処をすべきだ。けれど、その先は? 村雨はどうなる。このまま仕事が続けられるのか、賭場には来れるのか。こいつの人生は。
迷ったのは一瞬だった。人道的な正しさと村雨を天秤にかけたら、どちらが重いかなんて分かりきっている。村雨の頭を掴んで、ハンドルへ叩きつけた。朦朧としていた村雨の意識はそれで完全に落ちた。説得では動かせない。信念を曲げられない。あとから村雨に死ぬほど恨まれるとしてもオレがやってやらないとダメだ。
村雨の担当行員に連絡を入れて事故の抹消を依頼した。死体がなければ事故は存在しなかったことになる。オレと、村雨の記憶の中以外では。
「村雨、ごめんな」
道路に残る血痕を洗い流すように車の外では慈雨が降り出していた。