Similar experiments in the rain 細い雨が降っていた。屋根に当たりさあさあと静かなノイズを生み出している。
天気予報では曇りのまま明日を迎えると言っていた。子供の頃の予報は精度が低く、曇りの日に外出するときは母親に折り畳み傘を持たされていたけれど、観測技術の向上により最近では予報通りになるものだと無意識に思ってしまっていた。だから、今日は折り畳み傘を持っていなかった。
駅から獅子神の家まで歩く途中、これから緩やかな上り坂というところで雨が降り出した。それほど激しい雨ではないし、気にせず歩いていこうとしたところで端末が震えた。
「傘、持ってくから。適当なとこで待ってろ」
「不要だ」
「いいから」
押し問答になりそうで、それほどこだわるところでもないかと今回は折れてやった。駅から少し離れて住宅地に差し掛かってはいたが、ぽつぽつと個人商店や小さめのビルはあり雨宿りの場所はすぐに見つかった。
滴り落ちる大きな水滴を避けて軒の下へ入り、ハンカチで眼鏡のレンズに付いた雫をぬぐい、髪や肩も軽く拭いた。
見るともなく前を向いて息をつく。暑くもなく寒くもない気温だったが、じっとりと服にしみ込んだ水分に体温が少しずつ削り取られていくような感覚がした。
じっと立ち続けるのは苦ではない。飲まず食わずで6時間という手術もざらにある。しかし、何もせず手持無沙汰でいつ来るかわからない男を待つというのはそれとはまったく異なるものだ。ホワイトノイズのような雨音と絶え間なく一定の調子で降り続ける雨は、時間の進みを表しているのに、なぜか時が止まってしまいそうなほど遅く感じた。
獅子神は料理の仕込みをしていたところだっただろう。区切りの良いところまで進めて、火を止めて、外へ出る準備をして、どれくらいかかるだろう。雨に濡れながらでも歩いていれば、もう獅子神の家に到着している頃ではないのか。引き延ばされる時間に反比例して、じりじりと導火線が短くなるように気が急いてくる。もう10分以上は待ったはずだ、とスラックスのポケットに突っ込んだ端末を出して時間を確認すると、獅子神とのやり取りからまだ5分しか経っていなかった。
肩透かしを食らい、苛立つ自分を突き放して見るような心地になる。急ぐ用事があるわけでもないのに、何をそんなに浮足立っている。頭の沸いたサルでもあるまいに。あの男に一秒でも早く会いたくて気が急いているなどということは、断じてないのだ。迎えに来る獅子神の姿を心待ちにして体感時間が引き延ばされているなどということももちろんない。
そうだ、このまま待っていずに雨の中ゆっくり歩きだしてしまおうか。途中で出くわすにしろ、家まで歩ききってしまうにしろ、ずぶぬれの私を見て獅子神がどんな顔をするのか見てみたい気がした。あと少しだけ待ってみて、それで迎えに来なかったらこの軒を出よう。
腕を組んで、一秒一秒を刻むように足先でコンクリートの地面を叩く。もう少し。そろそろいいか。よし。
歩き出そうとしたとき一様だったノイズが変化した。それは徐々に近づいてきて、濡れた路面を蹴りこむ靴音として認識できた。
上り坂の頂点から金色の髪が見えてすぐに、獅子神が来たのだと知れた。愚かにも傘を差さずに走ってきたその男は息を切らすこともなく、私の目の前に立つ。水滴が豊かな金髪を伝って、肩へ落ちた。
「正気か? なぜ傘を差していない」
「走る時に傘差すのはあぶねえだろ。ほら、行こうぜ」
獅子神が傘を開いて差し出してくる。黒く大きな傘だった。ひとまず一つの傘の中に収まって歩き出す。
不合理だ。
いくら大きな傘といえど、大の男ふたりが入れるほどではない。必然、寄り添うような距離で、お互いの歩幅を探りながら歩くことになる。それでもなお濡れてしまうはずの左肩は、しかし完璧に隣の男の持つ黒い傘の中に閉じ込められている。その分の帳尻合わせは獅子神の右肩が担っていた。
当然のように獅子神は傘を2本持ってくるものだと考えていた。雨に降られた自分を迎えに来るのは傘を届けるためであり、それは濡れる人数を一人からゼロにするものである。それが傘も差さずに走ってきて、傘も一本であるならば濡れる人間が自分から獅子神に代わっただけであり、その数自体は減っていないのだ。その行為に一体どれほどの意味があるのだろう。
先の試合で死線を潜り、あるいは潜らされて自らの見ている世界の範疇を超えた部分に「答え」が隠されていることがあるのだと知った。そしてその領域を理解できるようになったのだと感じた。
だが、今答えを出すにはなにかピースが欠けている。
獅子神の顔を見る。精悍な顎のラインに甘く夢見るような目尻。瞳は満足そうな光を宿している。細く柔らかな雨に濡れた首筋からは男の甘やかでわずかに苦みを含んだ香りが立ち上り、むせかえるようだった。じっと見つめる視線に気づいて、獅子神が首をかしげながらこちらを見る。
もうすぐ獅子神の家に到着する。ふたりで歩調を合わせてゆっくりと歩いたため普段よりも時間がかかった。
ふと、閃くものがあった。
「この不合理の答えは、私に連絡をする前のあなたの行動にある」
「ん? いや、」
「まあ聞け。あなたは料理の仕込みをしていた。しかし、ここでなんらかのトラブルが発生する。加熱し過ぎて焦がしてしまったとか、食材が足りていないとか、そういう類のものだ。もうすぐ私が到着してしまう、どうしようかと外を見ると雨が降り出した。そこであなたは思いついた。迎えに行くと言って、その間に片づけなり、雑用係に食材を買いに行かせるなりすればよいと。つまりは、時間稼ぎだな。しかし、ただ待たせたのでは何かトラブルがあったのだと勘づかれてしまう。そのためあなたは傘を一本だけ持って外へ出た。このように二人で身を寄せ合って歩く場合には、それぞれ傘を持って歩くほどには歩調が速められないからな。これで、あなたの行動の不合理が説明できる。どうだ?」
これ以外にはないだろうと自信をもって指摘してやる。予想では獅子神は図星を指されてきまり悪そうにはにかむはずだった。
しかし、この男は一瞬きょとんと呆気にとられたように瞬きをして、次の瞬間大口を開けて笑いだした。
「違うのか」
む、と顔をしかめてみせると、獅子神は耐えられないとばかりに肩を震わせている。眦の水滴はまさか笑いすぎた末の涙だろうか。玄関アプローチを進みながら獅子神が話す。
「まず、料理で失敗はしてない。だから、安心しろ。今日もちゃんと美味い肉とデザートを食わせてやれる。それに雑用係は今日はとっくに外に出してる。お前が来る予定だったからな」
獅子神はそこで言葉を切った。傘を差したままドアのロックを外して先に中へ入るように促される。外で傘や自分の肩についた水滴を払った獅子神は、家に入って傘立てに傘を突っ込むなり私の顔を両手で包んだ。右手が濡れて冷たくなっていた。
「お前に早く会いたかったっていうのもあるし、ふたりで雨の中歩くのもいいなあと思ったのもある。でも一番は、オレが走って迎えに行ったらお前はどんな反応するかなあ、って知りたかった」
「それで目当てのものは手に入れられたか」
答えは読み取ってくれと言わんばかりに、獅子神はとろとろとシロップのように溶けた眼差しで覗き込んでくる。その瞳の奥に美しく澱んだ炎を見た。頭突きを食らわせてやりたいような、胸のあたりのくすぐったさを感じ、誤魔化すようにキスを強請った。軽くついばむように唇を落とされて、抱きすくめられる。肩口で息を吸い込むと雨に濡れた男の湿った甘い香りが頭の芯にくらくらと響いた。